三内丸山遺跡を視る

(1997/7/16修正)



 1996年7月28日、三越美術館で開催されている「縄文まほろば博」をみにいってきました。最初はあまり期待していなかったのですが、縄文人の言葉や、縄文人の食生活等の展示は興味をそそられました。
 1996年5月の連休を利用して、東京から青森行きの夜行バスにのって三内丸山遺跡を見学にいってきました。BC3500年からBC2000年にかけて盛衰した縄文遺跡です。私が今までに見た縄文遺跡にくらべて規模が大変大きいのに驚きました。そしてこの三内丸山遺跡を有名にした6本の巨大掘立柱の木(クリの木)の直径は1m位はありそうです。はたしてこの掘立柱による構造物は家屋だったのでしょうか、それとも原始宗教のための祭場だったのでしょうか?想像力をかきたてられました。



 見学当日は天気は良かったのですが大変風のつよい日でまいりました。
 ヴォランテイアのガイドが説明してくれる約1時間の見学ツア−に参加してみました。説明はとても解りやすく、三内丸山遺跡のポイントを簡潔に説明してくれます。そしてそばにある資料館でさらに深く内容を理解できました。
 上の写真の左側が建設中止になった野球場です。今年の夏にとりこわされるそうです。
左の写真は大型竪穴住居跡です。縄文時代前期末(約5000年前)のもので規模は、長さ15m、幅10mです。集会所、共同作業所等の説があるそうです。そして遺跡の周りには復元住居がいくつも作られていました。

 三内丸山遺跡では成人がただ土を掘っただけの墓に埋葬されたのに対して、子供は埋設土器に葬られていました。さらに埋葬土器の一部をわざと壊して、中に石を入れてありました。右の写真は子供の埋葬墓の発掘現場です。大人と子供のお墓がわけてあるということは何らかの原始宗教はあったのでしょう。


 その後、弘前の桜を見に行きました。噂に聞いた以上の素晴らしい桜並木でした。お城のある公園すべてが桜にうめつくされていました。勿論、この時期に訪れると言う100万人の見学者も公園をうめつくしていました。


 帰りは弘前から新潟を通って帰京しました。「つげ義春とぼく(つげ義春著ー新潮文庫)」を読みながら各地の駅弁を食べ、缶ビールを飲み続ける長い汽車旅でした。

参考サイト・図書

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