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RBー36H型爆撃機のエンジン

コンベアRBー36H型爆撃機の230フィートの主翼にはプラット&ホイットニー 3、800馬力レプシロエンジン(R-4360-53 )6機、および ジェネラル・エレクトリック 5、200ポンド推力ジェットエンジン(J-47-19)4機が搭載されています。なぜこのようなレプシロ/ジェットエンジン混用の構成になったのでしょうか?

 コンベアBー36型爆撃機は、第2次世界大戦中の1941年4月に、アメリカ本土からナチスドイツに占領されているヨーロッパ大陸へ、10,000ポンド(4,540kg)の爆弾を搭載して、無着陸で5,000マイル(4,340nm)彼方の目標を爆撃して帰還可能な爆撃機(いわゆる”Ten−Ten−Bomber”)としての要求仕様にそって開発されました。当時の4発式爆撃機ボ一イングB一17Dの航続距離2,600nm/爆弾1,135kg,最大速度237ktから見れば夢のような話でした。


 

 1941年のの計画では本機は総重量120トン,最大速度320kt/12,000m,実用上昇限度12,000m,最大航続距離8,680nmの性能を持つものであり.これを実現するため発動機にはP&Wが開発中の14気筒のツイン・ワスプを28気筒にした3,000馬力級のワスブ・メジャーを選定,機体の好性能を得るため層流翼と、主翼の抗力を減少させるためあえて推進式の形式を採っていました。そして1941年4月の計画開始以来5年4か月後の1946年8月8日にようやくXB−36が初飛行に成功しましたが、すでに第2次世界大戦は終了していました。

 そして1948年6月26日に最初のB‐36AがSACのカーズウェル基地の7BG(H)(第1重爆撃グループ)に引き渡されました。

(「XB‐36の初飛行」を参照)

本機に搭載されているプラット&ホイットニー(R-4360-53)レプシロエンジンは空冷28気筒、3、800馬力でR-4360シリーズはB-50, KB-50, B-36, C-97, KC-97, C-119,C-124等に搭載されました。

(エンジン写真および詳細 From USAF Museum Homepage)


 第2次世界大戦後の欧州の分割がすすむなかで、1948年6月、ドイツの西側占領地域が新通貨を導入をしたことにたいし、6月23日ソ連が軍隊によるベルリンの西側諸地区の完全封鎖を強行しました。これに対し西側諸国はベルリン市民への支援のため、6月26日から翌年9月30日までのいわゆる「ベルリン大空輸」体制をとりました。

 1948年7月、トルーマン大統領は60機のBー29爆撃機をイギリスに駐留させ、ソ連にたいする核攻撃も辞さない姿勢をとりました。(注ー1)

そしてBー36爆撃機の役割も米本土から直接、ソ連への核攻撃に変化していき、本格的な米ソ冷戦の時代を迎えました。(注ー2)

 そんな中でBー36爆撃機を要撃する戦闘機の能カも向上,特にジェット戦闘機の出現はレプシロ爆撃機に大きな脅威となってきました。このため全行程での速度・上昇能力の向上は無理としても,目標地点や敵戦闘機の要撃を受けた時など一時的な能力向上が出来ないか,と考えられたのが,ジェット・エンジンの迫加装備でした。コンベア社ではジェット・エンジン2基のポッドを翼端に吊下する構想を1948年10月に提案し,最大速度が327ktから378ktに向上する他,離睦性能・上昇能力も向上する見積りを提出しました。そして翌年4月にはXB−36を除く全機がB‐47の生産型が使用しているJ47・2基付きポッドを追加装備することになりました。

(「B-36の就役」を参照)

 下はCastle空軍博物館のB-47E爆撃機です。このJ47・2基付きポッドをBー36の両翼に追加しました。

 ジェネラル・エレクトリック(J-47)ジェットエンジンは1948年に最初のテストがされ、F-86, XF-91, B-36, B-45, B-47, XB-51等に搭載されて1956年まで30、000台以上が生産されました。

(エンジン写真および詳細 From USAF Museum Homepage)

(注ー1:スターリンと原爆(D・ホロウエイ著、大月書店 1997年刊)下巻 第12章 神経戦 Pー374 参照)

(注ー2:SIOP・アメリカの核戦争秘密シナリオ(P・プリングル 他著 山下 史訳 朝日新聞社 1984年刊)SAC繁急戦争計画 Pー50 参照)


つづく