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SIOPについてー5

掲載、第5回、最終回です。

 この文献を読みますと、ルメイ将軍が在任していた当時、アメリカの核兵器使用については、アメリカによる先制核攻撃を含む計画があり、核兵器使用権限は大統領にあるものの、決定にいたる過程は少数の大統領側近とルメイ将軍を含む空軍上層部ににぎられていたようです。

SIOP

アメリカの核戦争秘密シナリオ

ピーター・プリングル/ウイリアム・アーキン 著

山下 史 訳

朝日新聞社 1984年 刊

(Pー50)

SAC繁急戦争計画

1952年には、ルメイは30日で対ソ戦争に勝てると考えていた。SACを引き継いだ当初は六○日はかかるだろうとの椎定であった。ルメイは「ベルが鳴れば」シビリアンコントロールの核兵器も自分の思い通りに使えることを信じて疑わず、また核使用も当然のこととして一点の疑問も抱いていなかった。SACを訪問した一海軍将校が、「SACは核兵器の使用が禁止された場合の戦略的航空戦遂行に備えているか?」とたずねたのに対し、ルメイは「君たち海の連中はいつも馬鹿げた質問ばかりしているね。そんな事態がおきるなど、私には考えられないことだ」と答えている。

 ホワイトハウスと統合参謀本部から一定の自由裁量しか与えられていない条件のもとで作戦を練るルメイは、たえず二つのやっかいな問題をかかえていた。彼の要求に応じて、どれだけ速やかに原爆がつくれるか、また、それを運ぶに十分な数の航空機をどれだけ速やかに手に入れられるか、である。

 一九四八年には原爆は五○発にみたなかったし、そのどれひとつとして組み立てられてはいなかった。それらはすべて、長埼に投下されたと同じマーク3型プルトニウム原爆で、一発組み立てるには39人が二日以上かからねばならなかった。爆弾一発が四五○○キロとあまりにも大型で重かったため、航空機の爆弾格納室の下二四○センチにおいた起重機の助けを借りなければ、爆撃機に積み込むこともできなかった。

 最初のSAC緊急戦争計画では、航空機がとうてい運びきれないほどの原爆がたえず要求されていた。一九四八年、SAC保有の爆撃機は、マーク3型原爆を投下できるよう改造されたB29がわすか三○機であった。にもかかわらず、一九四八年一二月の戦争計画、コード名トロージヤンでは、一三三発の原爆で七○の都市を攻撃するとされていた。一九四七年の太平洋での原爆実験成功の後で、空軍司令官たちが要求した当初の目標、四○○発を実現するためには、原爆製造は相当に急がなければならなかった。

 これらの要請の評価にあたったのは、シビリアンの核兵器統括責任者である原子力委貫会(AEC)委貫長デイプィッド・リリエンソールであった。一九四七年、彼が同委員会の任に着いたときは核兵器庫がまるで空っぽなのにショックを受けたが、いまや空軍のすさまじい勢いの要求ぶりに恐れをなしていた。将軍たちはまるで「はんごうやライフル」を注文するかのように核兵器を注文し始めている、と彼は書きとめている。リリエンソールは、いまこそトルーマン大統領が、際眼なく原爆を求める将軍たちの欲望を抑制すべき時であると決断した。大統領からは必すや共感の意見が聞けると、リリエンソールは確信していた。それには十分な理由があった。これより前、トルーマンはすでにリリエンソールの強い要請をいれて、核物質の管埋権をAECの手から奪おうとするペンタゴンの結束した攻勢をしりぞけていたのである。しかし、彼の意見具申を待たず、ソ連の原爆第一号が爆発した。新たな恐怖感に駆られたトルーマンは、いまは核増強を失速させる時ではないとの決心を固めた。一九五○年一月には、水爆製造を進めるという重大な決定が続いた。オーバーキルの時代の誕生である。

 一九五一年一○月二二日に統合参謀本部が承認したSAC緊急戦争計画の、簡単で素っ気ない要約が「統合参謀本部史』の第四巻(一九五○〜一九五二年)に掲載されている。一九五一年から五五年の問に、JCSが承認した戦争計画は唯一これだけである。この要約は次のように述べている。

 初期攻撃は、Dプラスシックスデー(戦間開始後六日目ごろに行う。メイン州を飛び立った重爆撃機は、モスクワ・ゴーリキー地区に二○発の原爆を投下し、イギリスに帰投する。同時にラブラドルから発進した中距離爆撃機は、レニングラード地区を一二発で攻撃し、イギリスの基地に集結する。一方、イギリスに基地をおく中距離爆撃機は、地申海沿岸ぞいにソ連領に接近し、ドネツ盆地の工業地帯に五二発の原爆を投下し、リビアとエジプトの空港を経由して帰投する。さらにアゾレス諾島発進の中距離爆撃機は、コーカサス地方に一五発を投下し、グアム島発進の中距離爆撃機は同じくコーカサス地方に一五発を投下した後、サウジアラビアのダーラン経由で退く。同時並行的に、グアム発進の爆撃機が、ウラジオストクとイルクーックに一五発の原爆攻撃を行う。

 ペンタゴン内でも、際限なく兵器を必要とする戦争計画と、膨張のきざしを見せる兵器庫を憂慮して、二つの重大な警告が発せられたが、結局そのいずれも核兵器蓄積のスピードをゆるめることにはならなかった。一つの警告は海軍から、もう一つは対ソ航空作戦の戦賂的意味を再検討するために設置された陸・海・空軍の高級士官からなる特別委員会から出された。両グループとも、なるほど核貯蔵の拡張はSACの作戦立案者の要求を満たしはするが、戦略上の問題を解決するものではない、と警告していた。核兵器の使用は共産主義を降伏させ、その根を断ち切る、あるいはソ連指導部の国民支配力を決定的に弱めるという戦争目的には役に立たないであろう。また核爆発によってソ連国民がスクーリンの専制政治から解放されることもないだろう。つまるところ、核兵器はあまりにも強力すぎて、解放されるべきなにものも残りはしないだろう―−これが彼らの見解であった。

 ミサイルを搭載できる潜水艦がまだ就役していなかったため、海軍は膨張する核軍備に対してほとんど何の影響カも持っていなかった。だからこそ提督たちは、SAC司令部でおこりつつある事態について、幾分やっかみがあるにしても、より客観的に見ることができたのである。そのひとり、海軍誘導ミサイル作戦部長補佐だったダニエル・ギャレリー少将は、一九四九年のSAC攻撃計画の実行効果を問うメモを書いている。ギャレリー少将は、アメリカのような文明社会が戦争の大目的として、「敵の単純な破壊と撃減」をかかげることは間違いである、と主張した後、記憶すべき次の一行を付け加えている。「大都市の破壊は住民の感情を疎外しがちであり、戦争後の友好的な雰囲気づくりができない」。

 ギャレリーのメモは「都市除外」戦争計画を提唱した初のペンタゴン文書であった。米空軍中将H‐R‐ハーモンにひきいられる三軍特別委員会から出された第二の文書も、異なる立場からではあるが、やはり都市爆撃の実質効果に批判的であった。たとえトロージヤン戦争計画で使われる予定の一三三発の原爆すべてが目標上で爆発したとしても、工業力はわずか三○−四○パーセントが減少するだけであり、ソ連はいぜんとして西ヨーロッパ、中東、極東の「選ばれた地域」を侵略するに十分な兵員動員力を保持しているだろう−−これがハーモンの結論であった。にもかかわらず同委員会は、核兵器が「ソ連の戦争遂行能力の必須要素にショックと甚大な被害を与えうる唯一の手段であり、その早期使用の優位は絶大である」ことを強調していた。ハーモンは初期の核戦争計画に見られる軍部の破壊力信仰を批判はしたが、彼もまたそれらの計画を承認し、原爆製造の増強を強くうながしたのであった。

 ソ連原子力産業が目標に

 ハーモン・レポートとそれに加えてソ連の原爆実験の結果、ソ連に対する攻撃目標について重大な再検討が行われることになった。問題は常に、敵領土が広大なことと、信頼できる軍事情報が欠如していることであった。U2機と衛星によって偵察が行われる以前に、SACのパイロットが使っていた目標地図は、往々にして第二次大戦前の測量に基づいたものであったし、せいぜい一九四二、三年に撮影されたSACのドイツ航空写真を基にしたしろものであった。目標の選び方は、ひいき目に見てもでたらめであった。空軍の作戦立案者たちのアプローチは、何を攻撃すべきかを考えるペンタゴンの戦略家とはちがって、攻撃目標を発見できるかどうかが最優先された。空車関係者はかなり軽率に、大工場のある都市攻撃の「ボーナス効果」を口にしていたが、一九四九年までの彼らの主な目的は人口密集地域の破壊であった。ソ連の労働者は職住が近接しているため、たいていの場合、人口密集地即工業地域という結果になったにすぎない。一九四七年のブロイラー作戦計画では、二四の都市に三四発の原爆を使い、一年後のトロージヤン戦争計画では、一三三発で七○の都市を狙い、一九四九年のオフタックル戦争計画では一○四の都市を二二○発で攻撃し、七二発を予備にとっておくというものであった。

 ソ連の原爆実験後、JCSはソ連空軍の対米核攻撃を阻止する目的で、空港を優先攻撃目標に加え始めた。JCSはまた、ソ連の原爆プロジェクトを遅らせるため、「原子力産業」という新たな産業項目を優先目標リストに付け加えた。原子力産業目標の識別は最優先事項とされた。原爆をつくるにはウランと大量の電力、さらに当時においては巨大な工場群が必要であった。アメリカと同様、ソ連も大量に存在するウラン238から分裂性のウラン235を分離するのに、ガス拡散法を用いていた。アメリカの最初の原爆用ウラン215がつくられたテネシー州オークリッジにあるガス拡散分離工場は、四階建てで、U宇型をした建物の各辺は長さが八○○メートルもあった。全面稼働時に使われる電カはニューヨーク市と同じであった。

 中心問題はいぜんとして、こうして限定された目標の位置を正確に見極めることであった。SACのアプローチは、お世辞にも洗練されたものとはいえなかった。空軍はソ連の全発電所の所在地を知らなかったし、攻撃によってどの程度の被害をこれらの発電所に与えられるか計算したこともなければ、ソ連経済維持に必要な最低電力量を推定したことすらなかった。エ−ル大学のバーナード・ブロディ教授は、JCSの一連の新しい空軍関係計画を研究した結果、計画立案者たちは「爆撃キャンベーンをやりさえすればソ連は当然のごとく崩壊する、と考えており…・人々は〃サンデー・パンチ〃(敵に対する最も強力な攻撃)の話ばかりしていた」と、結論づけていた。

 統合参謀木部のこうした新目標設定に、もうひとり強烈な批判者がいた。ほかならぬルメイ将軍である。JCSの新たな目標はSACのクルーが不案内な地城にあった。ルメイはそれらの目標の発見は困難であり、またそれらは大都市の近くにあるわけではないので、「ボーナス・ダメージ」は大幅に減ると苦々しげに不平をこぼした。ルメイは、都市・産業目標にもどるべきであるとの論陣をはり、統合参謀本部の目標策定パネルから大幅な譲歩をかちとった。つまり今後は、目標リストをJCSに送て最終承認を得る前に、これをSACに提出し、SACのコメントを求めることが決められたのである。ルメイはその過程でもさらに多くの勝利を得た。数か月後、空軍は目標選択のプロセスヘの、陸・海軍の参加を骨抜きにすることによって、自軍の影響カを確固としたものにした。一九五三年一月、陸軍大将ドワイト・アイゼンハワーがホワイトハウス入りしたとき、カーチス・ルメイは核兵器庫をどんどん増やし続けていた。間もなく彼は、完成した原爆の管理をも手中にすることになる。

ーSIOPからの引用終了ー

つづく