( 4/5 記述)
航空ジャーナル 1978別冊
アメリカ空軍の翼 p70 成層圏の太鷲 コンベアBー36
田村俊夫 著
引用、第5回です。なお文中の写真、図版には省略しているものもあります。またリンクは小生が設定したものです。
(著者の田村俊夫氏、このページを見られましたらご連絡をいただきたいと思います。)
B‐36海外へ
東西冷戦の高まるなかで,SACはアメリカの核戦略の担い手としてルメイ司令官にハッパをかけられ,猛訓練を続け,臨戦体制を続けたのは有名な話であり,ちょっと訓練飛行に飛び立ってもそれが30数時間におよぶものだったのはざらで,その有様は1955年に日本で公開された映画「戦略空軍命令」でB一36の美しい飛行姿と共に描かれていた。
SACにおけるB一36の数はグラフに見るように1951年から急速に増え,配属部隊もB‐36使用部隊一覧に見るように増えていったが,これに合わせて,世界にSACの力を誇示するため海外へ翼を延ばし始めた。1951年1月には7BWの6機のB‐36Dがイギリス,同年11月には6機の11BWのB一36がカースウェル基地からフランス領モロッコまで無着陸で飛行,1953年7月に朝鮮戦争が終わると,翌月の8月から9月にかけて92BWのB‐36の一群がビック・ステッキ作戦の名で日本・沖縄・グァムを訪れ,初めて極東に姿を現わすと共に,トルーマン大統領のいう「物柔らかに話そう,大きなステッキを持って」の力を誇示した。そして翌1954年10月にはフェアチャィルド基地の92Bwが初めて1航空団ごと海外基地へ90日間の転属を命ぜられ,グァム島のアンダーソン基地へ移動した。
一方,戦略偵察型のB‐36は1950年から28SRGに就役を開始し,1953年には・爆撃機型・偵察機型双方の配属部隊を合わせると9航空団がB36を、装備している状態になり,SACにおける部隊数のピークとなった。翌1954年末にはSACにおけるB‐36両型式の保有数は342機のピークとなったが,この年の6月16日にはB‐36の戦略偵察航空団の第1任務は従来の戦略偵察から爆撃に変わり,第2任務として限定偵察能力を保持することになった。そして翌1955年から後継の純ジェット爆撃機ボ一イングB‐52が引渡しを開始されると,B‐36の余命の日々は数えられるようになり,B一36の部隊と数は急激に減少していった。1956年1月にはFlC0Nで供察能力を高めたGRB‐36/GRF‐84Fのコンビが99SRW/71SRW99SRSで任務についたものの,この空中親子機の組合せコンビはその年の春にはニアミスの発生から中止されることとなり,1957年末にはSACのB一36航空団は4個,B一52航空団は5個とB‐36とB一52の戦力は逆転した。そして翌1958年末には残った1個続空団95BWも所属のB一36を退役となり,1959年2月12日には最後のB‐36が同航空団から退役し.ここにB一36の現役生活は終りを告げ,多くの機体はスクラップにされ,現在ではわずか4機しかアメリカに保存されているにすぎない。
ここで1941年以来巨額の投資をして385機も揃えた初の大陸間爆撃機の群れも遂に1度も戦場に出ることなく終わったが,ソ連が当時B‐29のコピーのTu‐4しか戦略爆撃機として装備出来ないことから見れば,B‐36のような大型爆撃機の大群はオーバーな存在だったかもしれない。だが当時の東西冷戦のさなかにあっては,力の誇示が平和を守るという建前から戦略爆撃機の大群が整備され,B一36はレシプロ爆撃機とは言え無給油で世界をその行動半径に収められる能力を買われて,385機も製作されたものと見なすことが出来よう。B‐52がベトナム戦争に出撃したように,本機も朝鮮戦争に出撃してたらという声には、Bー29で十分だったと説明されているが、本当に出撃していたらBー36の後半生にどう影響したか興味あるところである。(終)