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ボンバー・ギャップについて

1950年代前半、ソ連の軍事力の情報をアメリカ政府は正確には手にいれることができませんでした。それは戦略爆撃機や戦略ミサイルの数において、アメリカはソ連に劣っているという「ボンバー・ギャップ」や「ミサイル・ギャップ」というヒステリックな状況を生み出し、アメリカ軍や軍産複合企業は軍備拡張を声だかに叫びました。そしてアイゼンハワー大統領はより正確なソ連の軍事情報を収集するためのU-2型機による極秘の偵察飛行を認めます。

 1956年7月4日、U-2型機が西ドイツからチェコ上空を越え、モスクワからレニングラード上空を通って西ドイツにもどっていきました。この初のU-2型機によるソ連領空侵犯偵察により、それ以前の領空侵犯偵察とは比べ物にならないほど、正確なソ連の軍事情報をアメリカは手にいれることができたのです。そしてアメリカとソ連の間に「ボンバー・ギャップ」や「ミサイル・ギャップ」などは無いことを、大統領は知るのですが、それを国民に知らせることは出来ませんでした。

 そしてこの頃、RBー36による領空侵犯偵察は終焉を迎えたとおもわれます。下の3冊から関連資料をのせます。

 

空のスパイ戦争

ー上空1万メートルで何が起こっているかー

デイック・ファン・デル・アート 著 

江畑謙介 訳 1988年 光文社 刊 

pー64

 一九五三年八月、モスクワは初の水素爆弾のテストを行ない、それから二年もしないうちに、Myaー4バイソンTU−16バッジャーという二種の新型ジェット爆撃機がモスクワの上を飛んだのである。一九五五年に開かれた航空ショーでは、ソ連空軍はバイソンの編隊飛行を見せたばかりか、さらに巨大なTu−95ベア爆撃機まで登場させた。アメリカの国民とワシントンの何人かの政治家にとっては、これは戦略爆撃機の製造でモスクワがアメリカを凌鴛したしるしと映った。プレスは直ちにこの遅れに対して、〃ボマー(爆撃機)・ギャップ〃なる言葉を奉った。これにソ連がカスピ海北方のカプスチン・ヤールでミサイル実験を実施中という噂が加わったり、ソ連が核兵器を使って奇襲攻撃を行なうのではないかという心配が高まった。それが何かドラスチックな対抗策をとらせる必要性を生む引き金となったのである。

 アイゼンハワー政権は、アメリカの戦略爆撃機と大陸間弾道ミサイル(ICBM)の生産を促進するという壮大な計画に、より強い拍車をかけるとともに、ソ連の軍事生産の周辺を覆っている秘密のべールをはぐ目的から、ソ連の空にシステマチックに侵入できる方法の研究に着手した。

1945年以後

タッド・シュルツ 著

吉田利子 訳

文芸春秋社 1991年刊

p391

一九四九年に核の独占が崩れて以来、自虐的な性癖をもつアメリカ人は、核兵器の開発競争でロシア人に追いつかれたばかりてなくはるかに引き離されているとヒステリックに信じこんだ。そんな短期間に大きなギャップを広げられるはどの産業基盤がソ連にあるはずのないことを、大半の真面目な高級官僚たちは考えに入れていなかったが、彼らはもう少し賢明であって当然だった。戦略空軍の司令官トーマス・パワー将軍のような専門家でさえ、ロシア人は三十分でわが国の核兵器攻撃能力を一掃することができるだろう」と上院の委員会でためらいもなく証言した。戦略空軍の司令官の言葉を疑ってみようという者はほとんどいなかった。

 こうした状況のもとでU2型機が文字どおり決め手として登場した。U2型機が飛びはじめるまでは、CIAも軍情報部も(主にHUM工NTと推測という)あてにならない方法に頼って情報分析をしており、情報機関どうしでも各情報機関の内部でもデータが何を意味するのか、それをどう解釈し、政策担当者にどう説明するかで意見が分かれることが多かった。情報分析と政策決定が交差するホワイトハウスでは、情報提供者と利用者が最も適当と思う政策決定に持ちこもうとして、それぞれに情報やその解釈を操作する傾向がつねにつきまとった。ミサイル・ギャップをめぐって世論が沸騰しているときでもあり、アメリカとソ連の軍事力を正確に評価しようとする試みは悪夢か迷路の様相を呈した。客観的な真実などというものは、もはやなかった。だがU2型機が救い主として現れ、一九六○年はじめには空中スパイ撮影の結果、「情報機関はいずれも、ソ連がいつ、どの程度の戦力を配備できるかという推測値を大幅に切り下げた」とマクジョージ・バンディは語っている。

1960年5月1日

ーその日軍縮への道は閉ざされたー

マイケル・R・ベシュロス著 篠原成子 訳

朝日新聞社 1987年刊

p184

まずボンバー・ギャップの問題から始まった。一九五四年までに、ソ連は米国がバイソンと呼んでいる長距離爆撃機を開発していた。一九五四年四月には、米空軍武官が十二機から二十機を見ていた。様々な情報取集から、空軍はソ連がこの爆撃機をすでに生産ラインを出て完成したものを四十機は所有していると踏んだ。これがいわれたのが、SACの基地がソ連に攻撃される危険性が高いとアルバート・ウーズテッターが指摘してほんの数カ月後だった。もしソ連が十分な数の爆撃機を所有しているなら、米国に対する奇襲が成功する可能性は十分あるというわけだった。

 一九五五年七月にはもっと対ソ恐怖が深まった。ソ連のアビエーション・デーに、西側の大使館員が十機のバイソンが上空を飛んでいき、それからさらに九機、そしてまた九機飛んでいったのを見たと報告してきたのである。空軍は、ソ連は飛行していた数の倍は製造したに違いないとの結論を出した。トフイニング、ルメイ将軍ら彼らの軍団はこれとそのほか多数のデータを合わせて、一九五六年の春、ソ連の長距離爆撃隊はおそらく一九五九年までにSACの二倍の大きさになろうと、議会に警告した。彼らは本気で心配した。ソ連の爆撃機生産に関する大がかりな計画の証拠があれば、米国がそれに対抗するために十分な予算を引き出すことができることも彼らにはわかっていた。

U2がそこで登場した。ソ連西部の爆撃機用基地やバイソンを製造しているモスクワの工場の上空を飛んだ初期のころの飛行からは、ソ連が長距離爆撃機を大々的に製造している確かな証拠は見つからなかった。他の情報源からもそうした証拠は発見されなかった。ワシントンでは、アビエーション・デーに飛んだバイソンは、同じ飛行機が観覧席を二回にわたって横切っていったんじゃないかと疑うものもいた。


つづく