12/18記述

1950年代のソビエト空軍

 Bー36爆撃機が配備していた時代、アメリカはソ連に劣っているという「ボンバー・ギャップ」や「ミサイル・ギャップ」というヒステリックな状況をアメリカ国内に生み出し、アメリカ軍や軍産複合企業は軍備拡張を声だかに叫びました。しかし本当にソ連の空軍力はアメリカより優っていたのでしょうか?下記の本はソ連の原爆開発の歴史と、その政治的展開をいきいきと描いた歴史書です。そしてこの本の下巻に1950年前後のソ連の長距離空軍の状況と、その戦略が述べられています。これによると、アメリカが危惧していた「ボンバー・ギャップ」はほとんどなかったことがわかります。 ソ連はBー36爆撃機のようなアメリカ本土を攻撃できる爆撃機を、大陸間ターボプロップ爆撃機Tu95が1955年に配備されるまでもっていなかったのです。

 最近、「アロー」というレンタルビデオを観ました。カナダでつくられた作品ですが、丁度、上記のテーマの「ボンバー・ギャップ」の時代のアメリカ合衆国とソ連にはさまれたカナダにおける、カナダ独自のソ連爆撃機に対抗する迎撃機の開発の物語です。物語の中には「ボンバー・ギャップ」を解説する当時のニュースリール(ベアの飛行している所も数秒みられます。)の一部らしきものや、米ソ冷戦のなかでほとんど意識しなかった「カナダ」という国の存在、当時の人々の日常生活等が描かれています。また物語の結末もこの話が事実にそくしているとすれば、アメリカとカナダの政治的関係、アメリカの軍産複合企業の意向等、大変興味ふかいものがあります。ぜひご覧ください。

スターリンと原爆(下)

デーヴィド・ホロウエイ 著

川上 洸・松本幸重 訳

大月書店 1997年 刊

(P350)

 原子攻撃にたいする防衛は、スターリンの軍事政策の主眼点だった。スターリンはまた、敵標的へ原子爆弾を投下する手段の開発に努めた。彼は一九四六年四月に長距離空軍を復活した。長距離空軍は戦前設計の飛行機しか保有していなかった。一九四七年の保有機数は一八○○機で、一○○○機のLL4、三二機のTB7、そしてダグラスDC3のソ連版であるLi2輸送機で構成されていた。LL4もTB7も二○○○キロ以上の戦闘行動半径をもたなかった。したがって、長距離空軍は戦略爆撃作戦を実施するには装備が貧弱だった。一九四○年代末のその主たる任務は、地上軍部隊の援護だった。

Tu4(B29のソ連コピー機)の最初のテスト飛行は一九四七年七月におこなわれた。この新型爆撃機は、六−八トンの爆弾を搭載して五一○○キロの航続距離、そして高度一万メートルで毎時約五五○キロの飛行速度をもっていた。これはB29よりかなり劣る飛行機だった。設計にまだ解決を要する問題があったが、スターリンは一九四八年にその全面生産を裁可した。その後の五年あるいは六年にわたって一○○○機以上のTu4が製造され、その一部は原爆搭載用に改装された。

Tu4は一九四八年に長距離空軍に配備された。しかし、ソ連の設計者たちはまもなく、それが時代おくれになりつつあることを悟った。当時、トゥーポレフの設計局で働いていたレオニート・ケールベルによると、一九四八−四九年には「レシプロエンジン長距離爆撃機の時代が終わりに近づいていることが、専門家たちにはっきりしてきた」。これらの爆撃機の最高速度は毎時六○○キロを超えなかった。したがって、時速八○○−九○○キロのジェット戦闘機による迎撃には脆弱だった。一九四八年末または四九年の初めに航空工業省はトゥーポレフに、Tu4に代わる長距離ジェット爆撃機の開発に着手するように指示した。トゥーポレフの最大の問題は、しかるべきエンジンを見つけることだった。ミクーリンのAM03エンジンが八○○○キログラムの推力を出すだろうという確信を得て初めて、彼は新型爆撃機の開発に取りかかった。このTu88−のちにTu16と呼ばれるようになった−は、核爆弾搭載用に設計された。後退翼で、最高速度は毎時約一○○○キロ、三トンの爆弾を五七六○キロメートルの行動範囲に運搬することができた。したがって同機ならば、一九五一年に実験された原子爆弾を運ぶことができただろう。テスト飛行は一九五二年四月に始まり、一九五三年に量産が始まった。初めて公衆の前に姿をあらわしたのは、一九五四年のメーデー祝賀飛行である。

 一九五○年代初期、長距離空軍は約一七○○機の航空機からなり、三つの航空軍に組織されていた。そのうちの二つは国の西部に、一つは極東のヴラジヴォストークに駐屯していた。一九五○年代初期までにTu4がある程度の機数で配備されるに伴い、長距離空軍は独立作戦の実施に特別の関心を向けるようになった。「深い後方の戦略的標的にたいして、まず第一に戦略核攻撃システム、軍事・経済力、国家および軍事管制システム、そして兵力の配置群にたいして、強力な航空攻撃を加えるための方法が、慎重に練り上げられた」。

 一九五○年代初期に、長距離空軍は三つの任務を帯びていた。第一に、敵の軍事・経済力に損害を与え、その戦争努力を粉砕しなければならない。爆撃機は政治的、行政的センターはもちろん、防衛工場に打撃を加えなければならない。第二に、敵の前進を阻止するために、あるいはソ連の攻撃にたいする敵の抵抗を混乱させるために、海軍基地、港、鉄道結節点、その他の標的をたたくことになっていた。第三に、ソ連にたいする打撃−とりわけ核打撃―が開始される可能性のある航空基地(そしてのちには、ミサイル・サイト)を攻撃することになっていた。これらの任務は、米国戦略空軍に与えられていた「破砕」、「阻止」、そして「鈍化」の任務におおよそ対応していた。

 長距離空軍の攻撃目標の大部分は、欧州とアジアに位置していた。地上軍部隊援護作戦のための目標については、明らかにそう言えた。しかし、その他の任務についても、同じことが言えた。一九四○年代末と一九五○年代初期の米国の戦争計画の中で、海外基地は決定的な役割を演じていたから、これらの基地に長距離空軍が与える打撃は、米国の原子航空攻撃を鈍化させ、それがソ連に与えうる損害を限定するのに役立つだろう。一九五○年代初期のソ連の作戦概念から見れば、「阻止」任務に相当する任務のための重要標的の大部分−指揮・管制系統、輸送結節点−もまた、戦域爆撃機の行動範囲内に入っていた。もしNATOが(「オフタックル」計画で構想されたように)英国を主要基地として強化しようとするならば、英国は爆撃の特別に重要な標的になるだう。

 欧州とアジアが戦域として重要だとはいえ、ソ連に脅威を与えているのは米国であった。それゆえスターリンは、米国を攻撃の脅威のもとに置く若干の手段を手に入れる決心をしてた。Tu4は往復飛行で米国をたたくことができなかった。しかし、メーン州の標的、あるいはサンディエゴからスペリオル湖までの線の北西部にたいしては片道飛行で飛ぶことができた。Tu4の航続距離を延ばすために空中給油システムが考案された。また、余計な装備を省いて燃料積載量を増やした型も開発された。しかし、これらは間に合わせの手段だった。一九四七年と四八年に空軍は航続距離一万二○○○一万三○○○キロの爆撃機を要請していた。Tu4をべ−スにして、トゥーホレフはレシプロエンジンを四基装備したTu85爆撃機を開発した。当時のジェットエンジンは、大陸問飛行に必要な燃料を満載した重爆撃機を離陸させるのに十分な推力をもっていなかったからである。Tu85は二○トンの爆弾を積んで八五○○キロ、五トンの爆弾を搭載して一万三○○キロの航続距離をもっていた。その速度は高度一万メートルで毎時六六五キロだった。原型機第一号は一九五○年のテスト飛行で好成績を示した。これは期待どおりの航続距離をもっていた。そこで、生産開始決定が下された。空軍がこの決定に異議を中し立てた。レシプロエンジン爆撃機は現在ではジェット迎撃機の好餌となるというのがその根拠だった。トゥーポレフは結局、この論拠を受けいれ、生産はキャンセルされた。製造されたのは二機だけだった。 

 今度はジェットエンジンの大陸間爆撃機開発の決定が下された。一九五○年中に、スターリンは数人の設計者と話し合い、この型の飛行機の開発を急がせた。彼はトゥーポレフに大陸間ターボジェット爆撃機を開発するように求めた。しかし、トゥーポレフは自分にはできないと答えた。Tu16をベースにしてなぜ大陸間爆撃機を製造できないのか、とスターリンがたずねると、トゥーポレフは、ミクーリンAM03エンジン一基では要求される航続距離を達成するのは不可能だと答えた。「それなら、エンジンを四基載せれぱいい。誰がきみを止めているのかね」と、スターリンにたずねられて、トゥーポレフは説明した。たんにエンジンの数を増やすことでは何にもならないだろう。ターボジェットエンジンはひじょうに大量の燃料を食う。燃料消費量をどうしたら減らすことができるのか、これを解決するのが難しい、と。スターリンからの圧力にもかかわらず、トゥーポレフはこの計画を引き受けるのを断った。トゥーポレフはすでに大陸間ターボプロップ爆撃機Tu95の開発に取り組んでいた。これは一九五二年一月二日に最初のテスト飛行をした。しかし、エンジンの問題が生産を遅らせ、この爆撃機は一九五五年まで配備されなかった。「ベア−」というNATOのコードネームをもらったTU95は、最高速度が高度一万二五○○メートルで毎時約八○○キロ、11トンの爆弾積載量で一万二五五○キロの航続距離をもっていた。

 しかし、ターボブロッブ爆撃機はスターリンが望んでいたものではなかった。トゥーポレフがターボジェット爆撃機の製造を断ったあと、スターリンは、一九四六年にその設計局が閉鎖されていたミャシーシチェワに目を向けた。戦時中、トゥーポレフの「シャラーシカ」〔囚人をスタッフとする研究・設計所〕の一員として長距離爆撃機の設計をしたことのあるミャシーシチェワは、すでにジェットエンジン搭載の戦略爆撃機について構想を進めていた。モスクワ航空大学の自分の学生たちの協力を得て、彼は四基のジェットエンジンを搭載した高速の後退翼戦略爆撃機の設計に取り組んでいた。空軍はこの計画にひじょうに関心を

もっていた。そして一九五○年末、空軍と航空工業省を巻き込んだ徹底的な議論のすえ、スターリンはミャシーシチェワに新しい設計局を与えることを決めた。正式の政府決定は一九五一年三月二四日に署名された。

 ミャシーシチェワは自分の設計局をモスクワのフィリー航空機工場に組織した。103MあるいはMia4として知られる新型爆撃機は、一九五三年一月に最初のテスト飛行をした。そして翌年、メーデーのパレードで赤の広場の上空を飛行した。NATOから「バイソン」と呼ばれた103Mは、ミクーリンAM03エンジンを四基搭載していた。同機は毎時約一○○○キロの速度をもっていた。しかし、その航続距離は九○○○キロを超えず、スターリンが望んだ一万六○○○キロには、はるかに及ばなかった。AM03エンジンで大陸間爆撃機を設計するのは不可能だという点では、トゥーポレフが正しかったことが証明された。それにもかかわらず、103Mの量産が開始された。一方、ミャシーシチェワは空中給油能力を伸ばすことに努力した。同機は一九五五年に長距離空軍に配備されたが、数は少なかった。


参考サイト

Russian Aviation Museum(CATALOG ROOMに写真とデータリストがあります)

Russian and Soviet Military Aircraft

つづく