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航空偵察の始まり

 このような航空偵察はどのような経緯で、いつ開始されたでしょうか?下記の本に具体的に記述されています。この本は1960年5月1日に、U-2 型戦略偵察機がソビエト領で撃墜された事件の経緯と、その後の冷戦時における、アメリカとソ連のもっとも険悪な状態のドキュメントです。そしてこの本によると、1950年秋にはトルーマン大統領の承認をえて領空侵犯偵察がおこなわれていました。さらにU-2撃墜事件で露見してしまったように、アイゼンハウワー大統領はさらに深く領空侵犯偵察に関わっていたのです。

 この本ではアメリカのソ連に対する領空侵犯偵察の目的を下記のように説明しています。

1960年5月1日

ーその日軍縮への道は閉ざされたー

マイケル・R・ベシュロス著 篠原成子 訳

朝日新聞社 1987年刊

pー95 

奇襲に対する最大の防御は、敵の軍事能力と意図を知ることである、ということはわかっていた。これに関してはソ連の方に明らかに分があった。彼らはどこの安物雑貨店でも米国の橋、工場、高速道路、港、航空基地、ミサイルの発射所、核実験場などの地図を購入できた。ソ連の工作員や外交官たちはありとあらゆる種類の米国の機密を収集した。これらの諜報活動のあるものは巧妙に仕組まれていて、機密を盗み出すためお金をもらった米国人の例などがそうである。またあるものはぞんざいなやり方で、ニューヨーク市付近の軍事基地の上空を飛ぶため、ソ連の空軍武官から七百ドルもらった航空写真家の例などがそうである。FBIはこれらの事件をもちろん調べるが、自由社会で機密をどの程度隠しおおせるものだろうか。

 ソ連となると、モスクワの電話帳さえ機密扱いだった。もし米国の軍幹部がソ連の重要施設のありかを知らなかったら、戦争が勃発した場合どうやって爆撃目標を定めるのだろうか。もし彼らがソ連の軍事開発の輪郭や進捗状況を知らなかったら、ソ連が米国をだまして見当はずれの兵器を作らせ、米国の国防に損害を与えることも可能であろう。ソ連が攻撃してくるのが早い段階でわからないことには、西側が奇襲に無防備な状況がずっと続くことになろう。

 そこで最も可能性の高い策として考えられたのが、必要な情報を空から収集するというものだった。一九五一年、MITで開かれた航空偵察についてのビーコン・ヒル夏季研究において、ランドは空軍のエースであるジェイムズ・ドウリトル将軍の講義を聞いた。将軍は、ソ連領空をかなリ奥まで飛んで航空写真を撮ったり電子機器で偵察することについての「重要性と、それらがほぽ不可能に近い」という話をした。ランドの記憶によれば、自信たっぷりの空軍関係者は、そのような偵察機や機器が完成するのに優に十年はかかると断言した。ランドはそんなことを信じなかった。彼は自分のとりしきっている委員会に、古い古い知識を新鮮な新たな見方で見直すようはっぱをかけた。

 さらに領空侵犯偵察に関するアメリカ大統領トルーマンの承認時の様子が描かれています。

pー97

 一九五○年秋、空軍参謀次長のネイサン・トワイニング将軍は、統合参謀本部の会合に上司であるホイト・バンデンバーグ将軍の代理として出席していた。トワイニングが後に語ったところによると、会議の議長だったオマール・ブラットレー将軍がトワイニングに向かって「きみが領空侵犯飛行計画についてトルーマン大統領に話をする」役に「選ばれた」と述べた。その計画とは、今までよりもっと奥深くまでソ連領空を侵犯するというものだった。トワイニングは書類と地図を持参して大統領の執務室へ出かけていった。トルーマンはそれらに目を通して言った。「参謀本部は全員これがいいと言っとるのかね」

「はい、そうです。われわれはこの計画を直ちに始めたいと強く望んでおります。その重大性は承知しておりますが、情報を得るには、これしかないと思います」

 トワイニングの話によると、大統領は認可の署名をして言った。「いいかね、参謀本部の席へ戻ったら、バンデンバーグ将軍へ私からだと次のことを伝えてくれたまえ。『それでは何で今までこれをしなかったのかね』と」

 いらつく巨人の頭の周りでブンブンという蜂のように、西側のパイロットたちはソ連の国境沿いの領空への侵入を重ねた。トワイニングによれば「ある日などは、四十七機の飛行機がソ連領空を飛んでいたが、彼らからは何も言ってこなかった。誰も苦情を言うものはいなかった」

 しかしこれらの飛行機が全く攻撃されなかったというわけではなかった。一九五一年十一月、乗員十人の海軍の爆撃機が、ソ連の攻撃を受けシベリア沖で姿を消した。一九五二年六月には、乗員十三人の空軍のB29が日本海で遭難した。同年十月、B29の八人が日本付近で死亡した。国務省は同機が「ソ連領空を侵犯したのかもしれない」ことを認めた。一九五三年七月、十六人を乗せたB50が日本海で墜落した。生前のスターリンは、ソ連領空への侵犯をいとも簡単に許していることに腹を立てていたと伝えられている。


つづく