…それは、何も知らぬ旅人にとっては、端から端まで見通せるほどの、小さな可愛らしい森です。
時には、緑の天蓋と、降り注ぐ木漏れ日の美しさに、誘われる者がおります。
時には、道を急ぐ旅人が、村人の忠告を聞かぬ事にして、通り抜けようとします。
古い言い伝えを良く知る者であっても、時には酔い、時には侮り、森へと踏み込んで行きました。
彼らは、外の世界へ戻っては来ません。
一年が過ぎ、十年が過ぎ、百年を経ても、森が呑み込んだ人々は、解放される事がありません。
森は、キルティエンと、呼ばれております。
この世にある貴重な…あらゆる緑があるのだとも、すべての病を癒す湖があるとも、申します。
けれど、それらを求めてはいけないのです。
森の木々は、ゴツゴツと節くれ立った瘤と、底の知れないうろで、人の顔をまね、狂おしく笑います。
切り株は、音もなく暗闇を這いずり回り、侵入者の鼻先を掠めては、惑わせます。
様々な名も知れぬ生き物は、木々の影に、金色の瞳だけを光らせ、うごめいています。
森には、魔物がいるのです。
森が、魔物なのだとも申します。
ある日の事です。
小さな子供が、やってきました。
怖れる様子もありません。
ずいぶん久しぶりの侵入者です。
特に子供は、本当に長い間、森に姿を現した事がありません。
異形の生き物は、息を潜めて見守ります。
魔物達も、人恋しいなどということが、あるのでしょうか。何だが、懐かしかったのです。
深い穴を穿ち、土を盛って埋めてしまおうか。
あるいは、鏡のように緑を映す湖へ、誘い込み沈めてしまおうか。
そのちっぽけな躰に牙をたて、柔らかな肌を切り裂いて、暖かい血を味わうこともできる…。
そろりと姿を現した魔物達に、小さな子供が無邪気に微笑み掛けます。
お友達の為に、薬草が欲しいの…と、あどけない声が訴えました。
魔物達は、怖ろしげに唸り、牙や爪を蠢かします。
子供は、近づいてきた魔物を、じっと見つめました。
赤茶けた毛並みに、触ってみます。
溶けてしまいそうなほど、柔らかでした。
子供は、嬉しそうに微笑んで、魔物を抱きしめました。柔らかな抱き心地が、とても気持ちよいのです。
とがった牙が、所在なげにカチカチ音を立てました。
この森に一人で入った者は、森に呑まれて、外の世界へは戻れないよ、と、かすれた声が、耳打ちします。
それはだめだよ、と、子供は首を傾げます。
薬草を届けなければなりません。
おうちの皆も、心配します。
毎日森に遊びに来るよ。それでは、だめ?
森は、黙り込んでしまいました。
二度と来ないから許してくれと、言われたことはあっても、毎日来るからと、微笑まれた事はありません。
何だか、とっても困ってしまいました。
小さな子供は、毎日森へ遊びに行きます。
雨の時も、風の時もなのです。
子供が、風邪を引いても、家を抜け出して来ました。
ぺたんと座り込んだ真っ赤な顔の子供に、森は、困ったように言いました。
病気の時は、こちらから行こう。
子供は、幸せそうに笑います。
お友達だものね。
森には、魔物がいます。
かつて哄笑した樹木は、愛嬌のある笑顔を刻み、人々の足をすくった切り株は、楽しげに踊っています。
小さな魔物達は、喜んで子供の腕に抱かれます。
…近頃、怖ろしげな異形の木々も、瞳をぎらつかせた魔物達も、小さな友達のために、少し形を変えたようです。
キルティエンには、この世にある貴重な…あらゆる緑があるのだとも、すべての病を癒す湖があるとも、申します。
けれど、それらを求めてはいけません。
気をつけなければなりません。
森の特別は、たった一人の子供だけ、なのです。
END
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