[INDEX|物語詰合せ]


1999.2.1UP

       …それは、何も知らぬ旅人にとっては、端から端まで見通せるほどの、小さな可愛らしい森です。

 時には、緑の天蓋と、降り注ぐ木漏れ日の美しさに、誘われる者がおります。
 時には、道を急ぐ旅人が、村人の忠告を聞かぬ事にして、通り抜けようとします。
 古い言い伝えを良く知る者であっても、時には酔い、時には侮り、森へと踏み込んで行きました。
 彼らは、外の世界へ戻っては来ません。
 一年が過ぎ、十年が過ぎ、百年を経ても、森が呑み込んだ人々は、解放される事がありません。
 森は、キルティエンと、呼ばれております。
 この世にある貴重な…あらゆる緑があるのだとも、すべての病を癒す湖があるとも、申します。
 けれど、それらを求めてはいけないのです。

 森の木々は、ゴツゴツと節くれ立った瘤と、底の知れないうろで、人の顔をまね、狂おしく笑います。
 切り株は、音もなく暗闇を這いずり回り、侵入者の鼻先を掠めては、惑わせます。
 様々な名も知れぬ生き物は、木々の影に、金色の瞳だけを光らせ、うごめいています。
 森には、魔物がいるのです。
 森が、魔物なのだとも申します。


 ある日の事です。
 小さな子供が、やってきました。
 怖れる様子もありません。
 ずいぶん久しぶりの侵入者です。
 特に子供は、本当に長い間、森に姿を現した事がありません。
 異形の生き物は、息を潜めて見守ります。
 魔物達も、人恋しいなどということが、あるのでしょうか。何だが、懐かしかったのです。

 深い穴を穿ち、土を盛って埋めてしまおうか。
あるいは、鏡のように緑を映す湖へ、誘い込み沈めてしまおうか。
 そのちっぽけな躰に牙をたて、柔らかな肌を切り裂いて、暖かい血を味わうこともできる…。

 そろりと姿を現した魔物達に、小さな子供が無邪気に微笑み掛けます。
 お友達の為に、薬草が欲しいの…と、あどけない声が訴えました。
 魔物達は、怖ろしげに唸り、牙や爪を蠢かします。
 子供は、近づいてきた魔物を、じっと見つめました。
 赤茶けた毛並みに、触ってみます。
 溶けてしまいそうなほど、柔らかでした。
 子供は、嬉しそうに微笑んで、魔物を抱きしめました。柔らかな抱き心地が、とても気持ちよいのです。
 とがった牙が、所在なげにカチカチ音を立てました。
 この森に一人で入った者は、森に呑まれて、外の世界へは戻れないよ、と、かすれた声が、耳打ちします。
 それはだめだよ、と、子供は首を傾げます。
 薬草を届けなければなりません。
 おうちの皆も、心配します。
 毎日森に遊びに来るよ。それでは、だめ?
 森は、黙り込んでしまいました。
 二度と来ないから許してくれと、言われたことはあっても、毎日来るからと、微笑まれた事はありません。
 何だか、とっても困ってしまいました。


 小さな子供は、毎日森へ遊びに行きます。
 雨の時も、風の時もなのです。
 子供が、風邪を引いても、家を抜け出して来ました。
 ぺたんと座り込んだ真っ赤な顔の子供に、森は、困ったように言いました。
 病気の時は、こちらから行こう。
 子供は、幸せそうに笑います。
 お友達だものね。

 森には、魔物がいます。
 かつて哄笑した樹木は、愛嬌のある笑顔を刻み、人々の足をすくった切り株は、楽しげに踊っています。
 小さな魔物達は、喜んで子供の腕に抱かれます。
 …近頃、怖ろしげな異形の木々も、瞳をぎらつかせた魔物達も、小さな友達のために、少し形を変えたようです。

 キルティエンには、この世にある貴重な…あらゆる緑があるのだとも、すべての病を癒す湖があるとも、申します。
 けれど、それらを求めてはいけません。
 気をつけなければなりません。
 森の特別は、たった一人の子供だけ、なのです。

END

 

 [INDEX|物語詰合せ]

     

《解 説》

 1998.8.30に作った便せんのおまけ?短編です。この森の話は、通常、漫画で描きちらしています。私の過去の作品を知らない人へごあいさつ用の毒気の少なくてでも私らしい話〜と探して、でてきたのがコレです。いかがでしたでしょうか?