[INDEX|物語詰合せ]



2000.6.27UP

       湖を渡る湿った風が、丘のうえの館へまでも寄せてきたものか、夜気は澱みけだるさを誘った。
 館の主たる大王は、その長い生を終えようとしており、連れ添う妃たちのすすり泣く声が、邪気を祓う弓鳴りの合間を縫うように、夜の静寂を侵していく。
 その若き日に神の御先である八咫烏に導かれて、国を造り、守り育て戦い通し英雄と称えられた大王の最期の夜だった。


 その死は安らかだろうかと、鴾津媛ときつひめは想った。
 目前の鏡には、蒼白の面に不可思議な微笑みを浮かべる女が映っている。父の心を問うたのではない。父の死を迎える自らの心が安らかであるかを知ろうとしたのだった。
「大王の死は、鴾津媛の死となろう」
 自らの死を告げると、大王の末娘は、微笑を神の依る巫女姫の哄笑に変えた。
 鴾津媛の髪を梳く奴婢の手が震えを帯びる。女主人の物狂おしい輝きを宿す瞳が、幼い少女を搦め捕った。取り落とされた櫛が、仄暗い明かりの外へ落ちていく。
 日に晒されたことがないかのような白い腕が伸び、漆黒の髪が、生き物のごとく闇に舞い溶けた。うろたえ震える少女の肢体を抱きすくめた巫女姫は、優しげにささやく。
「狂い女の髪を梳くのは、これで最後。かわいい子。明日には、鴾津媛はいなくなる。どこにも」

 鴾津媛は、今しも死を迎えようとしている鴻八束大王ひしくいやつかのおおきみの四番目の子供であり、ただ一人の娘であった。
 その母は、海を越えた異国の生まれで、戦利品として献上された奴婢である。身分は低かったが、鬼道をよくし、神憑りの巫女としても大王に仕えた。
 母亡き後、娘は、母の力と美貌を継ぎ、父大王の傍らで神の言葉を伝え、希代の巫女として生い育つ。ところが、神が少女を愛でたもうたのか、いつしか幼い巫女の心は、うつつから離れて行き、人としては狂い女となった。
 狂気ゆえに親しむ者はいなかったが、巫女としての力ゆえに侮る者もいなかった。
 人々は、鴾津媛の淡い瞳の色を恐れた。
 身を覆う漆黒の髪を恐れた。
 その言葉のすべてに、神の言葉にするように畏怖を見せた。
 脅えた少女の遠ざかる足音を聴きながら、鴾津媛は、独りつぶやいた。
「かわいい……恵那えな 。さようなら」
 あの優しい少女が、好きだった。脅えさせたくなどなかった。できることなら連れて行きたかったのだ。それが、唯一の心残り。
 鴾津媛の双眸から狂気の色は去っていた。
「さようなら。鴾津媛は、今宵限りでいなくなる。どこにも。」
 それは、神託というには、やや楽しげに響いた。最後が掠れたのは、さすがに悲しいという心があるからかも知れない。
 残された灯火を吹き消すと、長い髪を翻し素足のままで館の外へと向かう。
 遮る者はいない。巫女姫が、夜明け前の禊に向かうのだ。

 鴻八束大王の第二の妃を母に持つ御津王子みいつのみこ浦布狭王子うらふさのみこは、篝火の下、額を寄せ合うようにして、問答を繰り返している。
「考え過ぎではないか」
 御津王子は、大きくなりがちな自分の声を押さえつつ、大柄な弟を見上げる。見上げられた浦布狭の王子は、鼻を鳴らすと、馬鹿にした声音で言い返した。
「考え過ぎ、ね。何事も考えた事もない方に、言われたくはありませんよ」
 二人の王子は、同じ血が流れているとは思えぬほど、まるで違った外見をしていた。御津は鴻八束大王の二の王子にあたり、浦布狭は、三の王子にあたる。
 御津は、中肉中背の母に似た容姿のいい男で、女たちの受けがよかったが、深く物を考える性ではなく、国を支える重臣たちには、軽視されがちだった。
 弟の浦布狭は、母はもちろん美丈夫だった父にも似ず、醜男であり、度外れた大男であった。力自慢の上に頭を働かせることにも人一倍自信があったが、鴾津媛の『神託』ゆえに、それを人に知らしめる事ができないのだと、じれていた。
 戦になれば、臆する事なく先陣を努めるが、残虐な性向が飽くことのない殺戮を求め、手綱を締めようとする将軍たちにまで剣を振るうにいたって、人望というものが皆無であった。
 だが、野望がないというわけでもない。
「父大王のお気に入り末の弟、大船津は、我が。臣の信望篤い長男の津守は、兄上が。一人が、一人を。これで、公平というわけです。…が、もう一人、邪魔者がいる。そうでは、ありませんか」
「巫女を殺すのか」
 父の死を契機に、異母兄弟すべてを葬り去ろうという危険な相談事なのである。浦布狭王子は、殺す、という取り返しのつかない言葉を不用意に漏らす兄を睨みつけた。
「もちろん。皆が、ご大層にありがたがる神託などをする前にですよ。父大王の後継者について我らに不利な事を告げられては、兄と弟を始末しても何にもならない。」
 四の王子大船津は、まだ、九歳にもならぬ子供だったが、浦布狭王子の刺客に井戸に落とされ命を落とした。一の王子津守は、鷹揚で堅実な気質で大王にも臣にも信が篤かったが、御津王子にゆるやかに効く毒を盛られて、明日には息を止める。
「それは、そうだ。しかし、巫女だぞ。その…祟りはしないか?」
 浦布狭王子は、もう一度、わざと鼻を鳴らすと、屈み込むような姿勢で、兄にささやいた。
「あれは、巫女ではありません。ただ少し小賢しい、異国渡りの芸人に過ぎません。あの狂気さえ、装いに過ぎぬ。正気であれば、このような時、父大王の後継者争いで命を永らえぬ事を知っておるだけの事」
 弟の讒言に、御津王子は、目を見開いた。
「なるほど、そういうこともあるか。そうか。それならば……」
 浦布狭王子は、我が意を得たりとうなずきかけたが、御津王子が、言い継いだ事は、まるで意にそまなかった。 
「正気ならば、我が妻にしてやろう。妹とは言え、母は異なるのだし、かまわぬ。あれは、美しい。死なずにすみ、我がものとなれば、我のために神託をするだろう…」

 大王の死を前に、臣にせがまれてした最後の神託は、こうだった。
『神は八咫烏を遣わし、かの鳥は、大王の館の上に三度輪を書いて飛ぶ』
 八咫烏が輪を書いて飛ぶというのは、貴人の死を示す徴。
『そのとき、八咫烏が、若き王を呼ぶ。』
 父大王が死んだとき、神が次の王を選ぶということ。私は知らない。あの兄たちの一人を選んで、他の兄の不興を買うくらいくだらないことはない。
 大王にふさわしい者、父大王に少しでも似ている者などいない。選びようがない。一番ましな長兄でさえ、性格はよくても、鈍重で、父大王の支えにはなれなかったのだ。
 この国の半分は神託が支えて来た。つまり、この狂った巫女姫、鴾津が。
『大王の剣、波凪鳥羽剣を抜き、その肩に八咫烏が憩う者。時いたれば、現れよう。その者、鴻八束の魂を、その身に受けし者』
 これは、口がすべった。老臣たちは、死んでもすぐに、大王が蘇ると聴いて、感涙していたが、浦布狭王子は、小さな眼を精一杯吊り上げて睨みつけて来た。
 しまったと思ったときは、遅かった。こんな失敗は、初めてだ。やはり、もうすぐ狂った巫女姫の役割を終える事ができるという解放感で、浮かれ過ぎていたのかも知れない。
「自由だ」
 かみしめるように言う鴾津媛は、本来生まれてこのかた狂っていたことなどなかったのだ。
 それは、まったく浦布狭王子の推測通り。
 幼子を残して死ななければならなかった異国の巫女の知恵が、狂った巫女姫をいう役を我が子に演じさせたのだった。人並み外れて聡い我が子が、大王の後継者争いに巻き込まれぬよう、また生きて行けぬほど軽んじられぬように。
 母の誤算は、神託の名を借りた鴾津媛の政略や軍略が、半ば国を挙げて頼り切るほど…兄の妬みを誘う程、優れていたことである。
 素足が、柔らかな草の上を、夜露に濡れながらも、軽やかに進む。
「母様。大王が、死にます。鴾津は、兄に疎まれ過ぎました。それにもう、狂った巫女姫ではいられません。お言い付けを破ります。鴾津媛は、死にます。ただの鴾津になって、この国から出て行きます。何もかも捨てて、自由に、自由になります」
 巫女の衣を、毎日禊をする湖の岸に置き、姿を変えて行けばいい。鴾津媛は、死んだと父王に殉じたと、皆思うだろう。神託として、恵那に、他の何人かの侍女にも、そう吹き込んだのだから。
 心が軽かった、十五年育った国を捨てても、母の遺言を破っても、どんなに貧しい生活になろうとも、これからは、心からの言葉を素直に出せる、狂った振りなどしなくていいのだ。友人も恋人もつくれるだろう。とても…とても、寂しかったのだ。今までは。
 かつてない歓喜が、鴾津媛の足取りを軽くした。まだ、もう少し湖につくまでは、巫女姫でいなければならないのに。

 小さな薄暗い森の中、月明かりが木漏れ日となって、弱々しくあちこちを照らし出しいている。鴾津媛には、通い慣れた道だが、人々は、聖域と恐れて、立ち入ることはない。小さな獣たちが、暗闇の中でも生きて命を営んでいる気配があふれている。
  そこに彼は現れた。ほんの少し手を伸ばしたら届いてしまう、そんな間近に来るまで、気配を殺し気づかせなかった。
「鷸!」
 我もなく無防備になっていたところに、不意に男が現れたので、思わず後ずさる。
 男は、知己であった。口を利いたことはない。右目から喉元にかけて、大きな戦傷を負っており、口がきけないのだといわれている。大王から、長兄津守王子に贈られた奴婢で、しぎ と言う名だ。
 名を覚えたのは、随分前のこと。それから、ずっと気に掛けていた男だった。年の頃は、三の王子浦布狭と同じほどと思われる。成人していくばくかは経つが、若い男。
 しかし、その隻眼のまなざしは、猛禽のように鋭く古つわもののように容赦がない。敵に回せば、おそろしく危険な男。
 …だが、
「鷸?」
 無意識に優しげな問いかけになった。
 鴾津媛は、この男に、もしかすると、父大王や恵那よりも、親しいものを感じていたのだ。この世で、ただ一人、鴾津媛が、狂った巫女姫ではないと知る者として。 

 初めて知ったときも、彼は気配を感じさせずに現れた。そしてあのときも、鴾津媛は、夜明け前の湖で禊をしていたのだ。
 湖面に漆黒の髪が藻のように広がっていた。月明かりを弾く水の感触を楽しみながら、泳ぐ。母が死んでから、二年目になろうとしていた。鴾津媛は、既に十二分に恐れられる巫女だった。巫女姫の禊の邪魔をする者などいない。狂気を装う必要のない貴重なひとときである。
 水から上がるにつれ、華奢な躯が心細く見えるほどに豊かな黒髪が、幼い巫女の裸身に纏わり付いて行く。ほっと、一息をついたとき、癖にさえなっていた亡き母への独白が口をついてでた。
「恵那は、かわいい優しい子。あの子にさえ言ってはいけない。私は、正気なのに。たった一人もそれを知ることがない。あの子は、私の言葉に脅える。母様、いつまで続けねばならないのです……。いっそ本当に狂人だったのならば…」
 このまま生きて行くことなどできるはずがない。遠からず本当に狂うだろう。それは、幸せなのか。そんなことが。生きて行けるとしても。
「母様。そんなのは、嫌…。母様…誰か、助けて。…誰か」
 応えるものが、いないのを承知での弱音だった。いない、はずだった。
 まず、応えたのは、不意の羽音。振り向くと、飛び立つ水鳥を背に人が立っていた。手を伸ばせば、容易く捕らえられてしまうほど間近かだった。
 何故、その気配を読めなかったのか。裸身を見られた困惑と、独白を聴かれた恐怖とで、息を吸い込むなり、身動きができなかった。とっさに声も出ない。
 しばらくの間、鋭くて静かな隻眼の眼差しが、何の感情も示さず、鴾津媛を見つめていた。それは、特に興味があるわけでもなさそうな、敵意のない野性の獣を思わせる風情だった。
 粗末な麻の衣から剥き出された腕に刻まれた、そして、右目を潰し頬から喉元へ走る古傷が、戦士であることを示している。
 館の中で見かけた事が、あるような気がする。だが、貴族ではない。結われていない髪からも、奴婢と思われる。誰のものなのか。もし、異母兄の一人が主人だったら……。
 自分が、目の前の戦士の命を短剣で奪えるものならと、悪あがきのような希望が浮かんで消えた。何にせよ、子供の腕で勝てる相手ではないだろう。肝心の短剣すら、岸に脱ぎ捨てた衣と裳の間にある。つまり、男の足元に。
 悔し涙が、込み上げて来る。今までの苦労が、無駄になるのだ。この男に敵意があれば、その気配に気が付いて、こんな事態は避けられたろうに。皮肉なことに、この男に敵意がなかったばかりに、正体をさらしてしまった。
 だが、こうなった以上、彼が主にこのことを話さない訳がない。
 気が付くと、男の傷痕だらけの腕が差し伸べられていた。鴾津媛の頬を伝う涙を拭うと、濡れて張り付いた髪を撫でつける。泣き出してしまった幼子を、年長者が扱うような仕草だった。
 実際、幾ら賢しくても十になったばかりの鴾津媛は、泣き出した幼子でしかなった。一生懸命にやってきたのに、うまくいかない。名も知らぬ男の腕の中で、情けなくて焦れて泣いてしまう。その行為が更に情けなくて、泣けて来る。
 母が死んだとき以上に、泣いたのではないかと思われるほど、泣き続けた。そのうちに、こうしているのが、心地よくなってきた。甘えさせてくれる大人の腕の中にいることが。
 我に返り、気恥ずかしくなったころ、いつの間にか、素肌に衣が掛けられていた。男が着せかけてくれたのだ。男は、静かに離れて、立ち去った。最後まで無言だった。それは、後に知ったように、戦傷のために口がきけないためだったが、そうでなくても、ただ黙って慰めてくれたような気がした。
 沈黙がよく似合う、痩身の戦士。名は、鷸といった。父大王から長兄へ贈られた奴婢。鴾津媛の秘密をかけらも漏らさなかった。
 もし、彼が兄だったら、どんなによかったろう。それならば、もてる力の全てで彼を守り、助ける。他の兄弟全てを葬っても、大王を継がせるのに。
 手段を選ばない王族の血は、この鴾津にだって流れている。狩られる側ではなく狩る側にだって回れるのだ。
 しかし、鷸は兄の奴婢に過ぎない。
 あれから、鴾津媛は、鷸の静かな眼差しが、向けられるのを何度となく感じた。鴾津媛も彼を目で追っていた。言葉を交わすことも。間近に向き合うこともなかったが、見守ってくれていると感じていた。恋をしているようだと思った。その考えは、おもしろかったが、そんなものではない。
 実際、恋は別の人にした。その人が、鷸のように秘密を守ってくれるとは思わなかったし、何一つ打ち明けたりはしなかった。鷸には、無償の肉親のような情を求めてしまっているのだ。父や兄から受け取れなかった情を。

 あの時から、随分年月が流れている。でも、鷸がいるからこそ、完全な孤独にはならなかった。最後に会えてよかった。初めて声をかける事ができる。名を声に出して呼ぶのだって思えば、初めてなのだ。
「鷸。今まで…ありがとう。私は、行く。もう、自由に…自由になる。」
 そのとき、思い掛けぬ強さで鷸のかぶりが振られる。あの日と同じように、傷痕だらけの腕が延ばされた。今度は、泣く子を慰めるためでなく、逃亡者を捕らえるために。
 鴾津媛は、いつも、静かだった鷸の双眸が、煮えたぎるような熱情をたたえていることに気が付いて、愕然とした。怒りなのか、憎しみなのか判然としない。
 だが、その激しさは、恐ろしいばかりだった。
 もともと優しげな容姿をしていた訳ではない。
 長身のそげた頬の鋭い眼差しの隻眼の男。それでも、長い間、兄のように、実の兄の替わりに慕っていた青年。
 それが、牙を剥き出しにした狼のように襲いかかって来たのだ。
 悲鳴が堪えられなかった。
 絹の衣のそでが、引きちぎられる。
「鷸っ!何故…っ」
 身を翻しつつも、問わずにはいられなかった。
 鷸の腕を擦り抜けて走る。
 逃げなければ、殺される。あの隻眼は、そう確信させた。やはり、鷸が見守ってくれていたなど、錯覚でしかなかったのか。
 脅えた小動物もかくやとばかりに、森を駆け抜ける。
 ほどなく、薄物の裳は、したばえに裂かれてずたずたになった。
 追う者の足音がしない。
 思わず速度を緩めて、後ろを振り向く。その拍子に、髪が枝に絡まってしまった。焦って、髪と枝の両方を引き抜いてしまう。
 森の中の一切の音が止んでした。
 あらゆるものが、息をひそめている。
「鷸」
 鴾津媛は、自分の声に未練を感じて、いまいましかった。
 裏切り者。今更。兄の刺客になるなんて。私をあんなに憎々しげに見るなんて。
 風が、すっと、動くのを感じた。鍛え上げられた腕に胴をさらわれる。懐かしく思っていた腕の中は、やはり暖かかった。それが、何より酷いことのような気がする。
「え」
 すぐにも、剣を突き立てられるとばかり思っていたのに、何か全然違うことが起こった。
 闇に溶けそうな漆黒の髪が後ろに引かれ、鴾津媛は、鷸の腕の中で、のけ反るような姿勢になっていた。軽い衝撃の後、それが肩先で断ち切られる。
 頭がずいぶん軽くなった。髪って、重かったんだな。長年伸ばしていたかみが、生き物のようにうねって落ち闇に溶けて見えなくなる。もったいない。
 一瞬、間が抜けた事を考えたが、次の瞬間別の恐怖に叩き落とされた。
 押し倒されたところに、鷸の長身がのしかかって来たのだ。胸元に指先が掛かり、耳障りな高い音がして、衣が引き裂かれた。
「な…何でっ 」
 何でも何もなかった。これは、もしかしてあれか。でも、そんなばかな。
 間抜けな異母兄御津王子あたりなら、こちらも驚かない。そういうふうなことを、匂わされたこともある。夜這いされかかったこともある。
 だけど、これは、鷸だ。あり得ない。
 裂けて足にまとわりついていた裳に鷸の手がかかる。既に上半身は、剥き出しにされていた。猶予なんかない。もしかして、鷸は、分からないのか。私は…
「やめろっ馬鹿鷸っ。私は…俺は、男だっ 男だって見てわかんないのかっ」
 あまりの情けなさに、ひさしぶりに涙が滲んでしまい、目を瞑る。
 俺は、狂ってもいないし、巫女…姫なんかじゃないんだ。知っていて黙っててくてれたのかと、感謝してたのに。酷い。お前がいるから、今の今まで、未練たらしくこの国に止まっていたものを。
 確かに、この国をあの異母兄弟たちに任せる事が心配だったこともあるけど…。この国が私を拒むなら、生かしてくれないなら、仕方がないじゃないか。
 短くなった髪を梳くように撫ぜる大きな手を感じた。目を開くと涙がこぼれた。驚いたことに、鷸は笑っていた。もちろん声はない。
「どうして」
『捨ててはならないものを、捨てようとした。お前は、行ってはならぬ』
「え」
 何故か、鷸の声が聴こえた気がした。 
 鷸は、館の方を指さす。夜は明けていた。この森の中の小高い丘からは、全てが、よく見渡せる。ふと、気をそらされた隙に、傍らから鷸の姿が消えた。取り残されて呆然としていると、大王の館の上空を巨大な鳥影が、三度輪を描いて飛んだ。
「八咫烏…。亡くなられたのか。鴻八束大王…父様。父…」
 馬鹿鷸の奴。あいつが近寄ると、おかしくなる。涙が止まらない。
 何とか立ち上がる。髪は短くなり、衣は裂かれてほとんど裸だった。もうすぐ、夏になるところだ。肌寒いということはない。それに、湖の辺では、裸身は、それほど奇異な格好ではない。このまま、予定通り、立ち去ることもできる。
 だが、できなかった。
『若き王よ』
 何となく分かってはいたが、やはり声が聴こえた。館から人々が出てくる。こちらを目指しているようだ。
 鴾津は、ぼんやりと、自分の格好を何と説明すればいいのかということを考えていた。
 ここまでしたら、女と間違う者もいなかろうなと思う。
 気が付くと、死した父大王の傍らにあるべき波凪鳥羽剣が、丘から見て一段下にある大岩の天辺におかれている。
 邪魔な裳の裾がないので、身軽に飛んで岩の上に降り立った。鞘を払い剣を抜くと、白刃の輝きに人々が気づく。
 どよめきが、起こり、老臣たちは、膝を落としてしまった。まるで、物語の一場面を演じているようだ。
 人々の口から、鴾津には、聞く前から分かり切った言葉が、語られる。
「おおっ。真に。鴻八束大王様。鴾津媛様のお体を借りて蘇りなさいましたか。お若いころの鴻八束大王様そのもののお姿。これからも、我らをお導きください」
 最初から男なんだ、といっても聞かないだろうけどね。神妙な顔をしつつ、鴾津は思った。
 もし、本当に女だったら、父親の魂が入って男になったなんてことになったら、改めてまじめに狂うぞ……。
「鴻八束大王の魂は、我のうちにあるが、我は我。鴾津と呼ぶがいい」
 鴾津は、平伏する人々を前に、空に向かって腕を伸ばした。 八咫烏が舞い降りる。
 隻眼の神の鳥。それは、神託を最後まで演じると、役目を終えたとして飛び立とうとした。
 だが、新しい大王は、許さなかった。
「行ったら、……泣くぞ」
 八咫烏は、大王の肩から転げ落ちそうになった。
「俺だって、自由になるのをあきらめて、この国の面倒を見るんだぞ。お前もここにいるんだ。…鷸?」 

 厳しい表情を崩さず、八咫烏とともに、はるか彼方を見つめている大王が、人々には、年は若くても頼もしく見えた。
 巫女姫だった時の神秘の力と鴻八束大王だった時の勇猛さを併せ持つ希代の大王なのだ。
 そして、鴾津彦命と名を改めた大王は、生涯、神の鳥八咫烏とともにおり、強く聡い王として国を治めたという。

 真に蛇足というものだが、鴻八束大王の一の王子津守は、毒殺され、四の王子大船津は、井戸に落とされ溺死した。
 犯人と目される二の王子津守と三の王子浦布狭は、何事か原因の分からぬ兄弟喧嘩のすえ、刺し違えて死んでしまったということである。
 人々には、異国の血が入ってようと、元が狂った巫女…姫だろうと、選択の余地がなかったというのが、この茶番の裏幕と言えなくもない。
 もっとも、このことで不幸になったものは、あまりいなかった。
 もうひとつ、鴾津媛の奴婢、恵那は、大王の求婚を受けるまで、この後三年もかけている。
 神憑りの女主人が、権力者鴾津彦命大王になっても、気の弱い恵那にとっては、恐ろしいことには変わらなかったのである。

 昔々の物語でございました。
 めでたしめでたし。

【完】

 

[INDEX|物語詰合せ]

       

《解 説》

初期も初期、ン年前の作品の再録。予定頁数で書き終えられてびっくりしたものです。こんな短編は、2度とかけないでしょう。
当時の同人誌では、漢字にすべて読みかなをつけてありました。


・鴇津媛………ときつひめ
・鷸………………しぎ
・御津王子……みいつのみこ
・浦布狭王子…うらふさのみこ
・鴻八束大王…ひしくいやつかのおおきみ
・恵那…………えな
・八咫烏………やたがらす