■セブンアイ
 
チャレンジャー


 先週の日曜日、高橋尚子(スカイネットアジア航空)の取材を終えると、国立競技場を駆け出し、品川駅前のホテルに向かった。
「尚子さん、びっくりしたねえ。どうなっちゃうんだろう、オリンピック。リクレンの選考はまたもめるんだろうかねえ」

 こちらの職業など知るはずもないから、ドライバーには日曜日の世間話だが、答えると面倒になりそうなので「日本陸連の知名度もたいしたものですねえ」などと笑ってはぐらかす。K1に転向し、12月31日のボブ・サップ戦に向かってトレーニングを始めた元横綱の曙のインタビューをするホテルは、偶然にも、高橋が「足が棒になってしまった」と悔やんだ、レース28キロ地点に近かった。

「ずっとチャンピオンでいるって、ストレスも、プレッシャーも全部一番ってこと。まして勝って当然の横綱のストレスは、本当にハンパじゃない。無意識にいつでも気を張り詰め、一瞬でも抜くと崩れそうになる」

 転向についてはいろいろと「裏話」は囁かれているが、少なくとも曙の答えに「裏」はなかった。借金だの、相撲界とのトラブル、外国人力士への差別だのと、初対面だというのに、随分と失敬な質問をぶつけたところで、彼の体と、恐らくそれ以上に大きなハートは、それらを包み込んでしまう。

 綱を張った男が、「やる」というのだから、膝の具合など聞くのは野暮な気がした。
 トレーニングやルールへの戸惑い、周囲の好奇の目といった、相撲時代とは別のプレッシャーは強く感じるが、不思議なことに横綱時代に苦しんだ「疲れ」を感じないという。肉体も、精神も極限まで追い詰められているが、少しも辛くない、と笑った。

 ホテルの玄関で車を待つ間、聞いてみた。ストレスとプレッシャーは違いますか、と。
「違う。チャレンジャーになれた今、それが本当によく分かるね」
 車の窓を開け、手を振る曙を見送りながら、ホテル前の国道を見つめた。わずか数時間前にはこの道を埋め尽くしていた大観衆も、声援も、フラフラになりながら走った高橋も、もういない。しかし、横綱になった男が苦しんだのと同じ「勝って当たり前」の重荷を、6年もチャンピオンでいた31歳の女性が背負い続けたことを、自分は忘れていたことに気が付いた。
 そして、敗れた高橋が、実はチャレンジャーになれたのだと思い、なぜかホッとした。

(東京中日スポーツ・2003.11.21より再録)

BEFORE
HOME