■ピッチの残像
「長沼氏が6年かけて実現した勝利」
〜両国民をつなぐ橋〜


 6年前の5月31日、2002年の開催地を決定する理事会を出た私は、深い失望感と怒りをどうにもこうにも扱い切れなくて、FIFA(国際サッカー連盟)の会見が行なわれるホテルの廊下を、早足で歩いていた。
 廊下を出ると、すぐ向こうには、起きている騒乱とはまるで正反対の、スイスの美しい湖と山並みが見渡せる。大混乱する人ごみにもまれていると、長沼健・日本サッカー協会会長(当時)に、「こちらにいらっしゃい」と、腕を取ってもらった。

「なぜ日韓共催なんですか、ルールにないのに。FIFAはフェァプレーを言いながらこれでは警告です。日本の負けではないですか」

 FIFAからの共催の提案を受け入れた会長に向かって、こんな無礼な質問をした。会長は招致委員会委員長を兼任し招致活動にかけた数年、何か国を回ったかしれない。

「私への批判は無論甘んじて受ける。しかし、負けかどうか。私は決断が間違いではないことを、全力を傾けて実現しようと思うのだが、どうだろう」会長は言った。

 その後、自宅に脅迫や嫌がらせもあった。「三馬鹿」と雑誌に書かれたこともある。

 長沼氏(現在名誉会長)は31日、ソウルでの開会式に出席するためにチャーター便に乗った。
 6年前会長と握手をし、固い表情でトロフィーを揚げ鄭夢準・協会会長は開会式の挨拶をした。ルールになかった強引な共催は「日韓の新時代の幕開け」「両国民をつなぐ橋」となった。鄭氏は、この6年、長沼氏を「父です」と慕った。2人は並んでピッチを見つめていたのだろう。手をつなぎ泣いたのだろうか、笑っていたのだろうか。
 誰もが信じなかった夢を、6年かけて実現した勝利を噛み締めながら。

(東京中日スポーツ・2002.6.1より再録)

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