稲本潤一選手 スペシャルインタビュー
LIFE SIZE 等身大のプレミア生活
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    ◆2章

写真提供=ジェブエンターテイメント
 席につく前に礼を言うと、フルハムの広報のセーラ女史はサングラスを額に上げ眩しそうな笑顔で、「マイ・プレジャー」(どういたしまして)と言った。シンプルなスーツが似合う彼女が、稲本のメディア対応をサポートしている。「彼には、言葉の問題がありますか」と聞いてみた。
「いいえ、ないわ。彼は言われていることは全てわかっているもの」
 彼女はチャーミングなウインクをした。
 ロンドン滞在中、彼女の尽力で、練習見学の許可が下りた。「練習が見られれば」とは日本流ならミニマムの要求でも、プレミアでは、実に間抜けなリクエストになりかねないので注意がいる。フルハムでは練習を公開するのは基本的に年4回、サポーターとの交流もない。
 練習場モッツアーパークへ向かうために朝8時半、井上氏が車でピックアップに来てくれた。練習場までは渋滞を抜けなくてはならない。昨年、稲本も道に迷い、渋滞で遅刻したこともあったのだろうか。
「一度もありませんでした。練習には、必ずチームで一番に着いていましたから」

 気温27度、湿度40%、午前中の強い陽射しに芝が輝く。トップチームの使用するピッチはクラブハウスに隣接し、ユースなどはクラブハウスを挟んだ反対側に5面持つ。椅子席は木造で、手前に引き出したホコリだらけの椅子に、年4回の公開が本当であることを悟る。フランスのサッカー教室の子供たち30人が練習を見学している。
 短い笛の音とともに準備体操が始まった。2列でのランニングは15分間、次にバランスボールを使って柔軟体操が行われる。練習ピッチの横にはプレハブのトレーニングルームがあり、10種類ほどのマシンが置かれていた。この中で20分程度、それぞれの筋力トレーニングが済むと、ウォーターブレイクが入った。子供たちが立ち上がる。
「アレ、アレがイナモトだよ」
「えー、彼って金髪だったよ」
「W杯のあと変えたんだよ、知らないの?」

 踏み台、その後、ダッシュといったサーキットトレーニングが始まる。フィジカルコーチのほか、フルハムには女性のトレーナーが帯同し、チームドクターも女性。男だけの世界で堂々と指揮を取る女性に、稲本は最初「びっくりした」という。
 練習開始から40分、シュート練習が始まり、稲本は攻撃グループに入る。サイドから崩して中央でのシュート、受けてからドリブルで突破してのシュート、2パターンを繰り返すうちに、ティガナ監督が「もっともっと」という仕草とともに、ゴールへの積極性を促している。シュートのほとんどが、「ふかす」ことなく、低く抑えられた弾道とともにゴールをかすめる度に、「オーッ!」と子供たちからも歓声が上がった。
 5対5のミニゲーム30分で、リーグ戦中の典型的な、2時間の練習は終了した。

「おはようございます。それにしても練習に人がいるなんて不思議な気分でしたよ」
 ミネラルウォーターのボトルを握り、笑いながら稲本が階段を上がって来ると、子供たちが眩しそうに彼を見上げる。
 W杯での2点、インタートト杯でチームを優勝に導く活躍を見せたこと、日本人で初めてのプレミアリーグ出場を果たしたことは、知名度とは別の何かを生んだのだと思う。本人が、W杯後に臨んだ「練習と試合だけに集中する日々」も、W杯での2点と決別しての「目に見える結果」も、実は2番目に欲しいものに過ぎなかった。22歳の男として、またサッカー選手として、何より手にしたかったのは、フルハムでの確固たる「居場所」、ただそれだけである。
 昨年一年、アーセナルでは、わずか数センチの幅においてでさえ「居場所」はなかったのだから。通用するとか、しないとか、ボールをめぐる話だけではなかったはずだ。この日、午前中から別れるまでの時間で、自分の居場所を確保し、等身大の自分をコントロールできる、言ってみれば当たり前でもあり、同時に競技者として手に入れるのは簡単ではない日々を、心から楽しんでいる姿を目にすることになった。
「えーと、話はどこにしますか。小さいクラブですから、そんなに場所もないけど」
 パスタ、白身魚に、山盛りのブロッコリーでランチを終えた稲本と、クラブハウス2階の食堂でインタビューを始めることにした。

──プレミアに出場する、2年越し願いが実現したことは、気持ちを楽にしましたか
稲本 ええ、本当に。スッキリしましたね。肩の荷が降りたというか、こういうことなんやと。開幕の前、アキさん(西澤明訓=C大阪)が知人を通じて、絶対出てくれって伝言をくれたんですけど、こればっかりはねえ。ただ、やっと、自分で自分に期待するような気持ちは持てましたね。

──通用もなにも、これだけダッシュすれば、ゲームへの飢えもあっという間に満たされるんじゃないかと思うのですが
稲本 満たしていかないとね。とにかく一発屋にだけはなりたくないんで。どこの国にもいるんです、一発屋。2点取った奴、どこ行ったんやとか、絶対なりたくなかった。

──フルハムでは、セットプレーも蹴るし、トップ下もやる。どのポジションというよりも、中盤という大きな枠の中でのプレーをしているように見えますね
稲本 理想っていうか、自分が目指す形がようやく見えてきた。攻撃もできて守備も上手い、どちらかが劣るんじゃなくて、両方を一緒にレベルアップする、そんなイメージです。俺、武器がないんですよ、何にも。

──嫌味じゃなくて?
稲本 いやホンマ。当たりが強いって言われても、日本での話ですからこっちじゃお話しにならない。足はかなり遅いですよ、50メートルじゃ厳しいし、フリーキックも全然。だから欲張りになろうと。ひとつ、ひとつ、全部のレベルを上げていかないと生き残れないって実感できるんですよ。ディフェンスも好きなんでね。アーセナルのリザーブでも俺より下手な奴はいたけれど、俺より強いものを持った選手もいっぱいいる。確かに自分が3段階も4段階もいきなり上がるような感じでしたが、簡単に下りることもしたくなかった。アーセナルと今フルハムでプレーしてるからこそ、やっとあの段階の差がわかる、そういう部分もあります。だから、すべてできる中盤になりたいって思う。ホント欲張りで、できないかもしれないんやけど。

──シュートも打つ、スライディングでボールも奪うし、セットプレーもする。そういう万能の面白さがプレーに出ていますね
稲本 アーセナルではベルカンプとか、アンリが、モーションなしで物凄いシュートを打つんですよ、あれは見て学んだ、っていってもできませんけど、勉強になった。スライディングは、プレミアの選手は上手いですよね。どっちのものかわからない5分のボールを奪い合うのが、欧州のサッカーなんですが、体全体を上手く使って、芝を滑って必ず奪う。そして立ち上がってすぐプレーする。体を張る上手さが日本と一番違うし、一段上のテクニックだと思う。

写真提供=ジェブエンターテイメント
──W杯で感じた差とは、また違う?
稲本 FIFAランキング20位前後の国と対戦した実感は、そう違いがないということだけど、これは国、代表全体のレベルでもある。プレミアでは、自分自身が、アーセナルやチェルシーというトップチームとやったときに、どういうリアクションができるんかっていう話で、ここはまだまだ、始まったばかりだから一年後に答えを見つけたい。

──アーセナルでの日々については、落ち込んでない、失敗じゃないと話していますね
稲本 今だってそう思わなければやれませんから。周りを見返してやろうという気持ちもありますし、自分を支えてくれた人たちのためにも、プレミアを選んだ理由を否定することはできません。自分を信じるのと自信を持てるというのが、全く違うこともわかかりました。自分を信じてない奴なんていないでしょう。でも信じるのはしょせん途中経過で、自信は結果が出たときだけ得られる。これが本当によくわかりましたね。

──面白いですね。ベンゲルに、あるいはアーセナルに対して今思うことは
稲本 感謝です。何はあってもここに連れて来てくれた。自分はチームで一番下の選手だったけれど、自分の実力、位置が一番下だって教えてくれたのはあのチームだった。自分の限界を見たこと、一番下でスタートしたことは、今思うともの凄く大事な経験やね。

──口では落ち込まないといってもねえ……
稲本 ベンチから試合を見るなんてほとんど経験ないわけやし、おまけにベンチどころかスタンドからだし、凄く近い距離がこんなに遠いかって、近くて遠いってキツイですよ。心と体のバランスも崩れてくるし。

──太りやすいって言ってましたよね。試合に出ないのにコンディショニングとは
稲本 本当に難しかった。あれは、今とても重要だったと思うんですよ。一番ひどい時はベスト77キロに対して80キロ。逆に去年来たばかりのときは75キロしかなかった。ベンゲルもさすがにヤバイやろって思ったんでしょうね、痩せろって注意されたんですが、食事をセーブしコンディションをしっかりと考えるようになったかなって。

──ああ、ガランとした自宅のダイニングに、体重計だけポツンとあったんですね。試合をすれば疲れるから休めばいい。でも試合をしなければ休息の目安もわからない。バロメーターは何だったの
稲本 視野ですかね。自分の場合は。見えなくなるんです、周りも、ボールも。体が重いとかではなく見えなくなる。

──去年の今頃は?
稲本 ちょうどリザーブに出てた。

──では来年の今頃をイメージすると?
稲本 どうやろ、かなりぼやけてるけど……。1分1秒でもプレーをしたいと、高校からガンバでデビューしたときみたいな気持ちにはなってるね。ワールドカップももっと出たかった悔しさばかり残っているし。そう、交代させられるのが嫌やね。90分っていう時間がこんなに大事かって思う1年だったから。今でも、90分通して試合をする感覚だけは、体で覚えさすしかないって思ってます。とにかく1分1秒でも多く。

──ここは居心地がいいようですね
稲本 アーセナルのジャグジーはキレイで気持ちよかったんで、懐かしくなるけれど、ここは飯を食える場所がちゃんとあって、居心地は凄くいいし、練習も楽しい。そして、自分に期待されていることがわかる。

──自分を信じることと自信を持つことは違うという言葉、一年が造ったんでしょうね。
稲本 ハハハ、名言やね。

 ティガナ監督がランチを取っていたので「貴重なチャンスをありがとうございました」と挨拶だけした。監督は、ナイフとフォークを置き真顔になる。
「私はベンゲル監督のようなスタイルではないんだ。稲本は使うし、チャンスは多い」
「チャンス」は練習見学のことだったが、監督は稲本を指すと反応したようだ。食堂を出るとき、監督の声に振り返った。
「一年後、何が起きているか楽しみにしよう」
 お辞儀して、同意しますと頷いた。

◆第3章へ続く)

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