■1460の軌跡

第1回:「彼ら」の答え――プロローグに代えて


5月17日が来るまで、その布製の箱を開けることはなかった。
4年前に封じこめられた「歴史」にだれも興味を持てないにしても、
彼らには内なる決着という名の勝利を手にしてほしいと思う。
フランス組の1460日後を追う連続ドキュメントの第1回。

    ◆布製の「箱」

 足元に置かれて、もう4年になる。時々、原稿を書きながら、伸ばした足が机の下で触れることは何度もあったはずなのに、開けることはなかった。
「6月の軌跡」(98年、文芸春秋刊)のために記した5冊のノート、数十本のテープ、そのテープを起こした何十倍ものメモ起こし、自分ですら判読し難い走り書き、膨大な量に及ぶゲラ。これらが無造作に詰め込まれた布製の箱を開けるのには、その重みの分だけの、ちょっとした勇気が必要だった。
 困ったことに学生の頃、歴史の授業は好きではなかった。
「歴史は鏡とも言う。人間は過去を深く知ることで反省し、未来をより良く迎えることができるからだ」と、先生はその必要性を忍耐強く私に説明してくれた。しかし年号を覚えることに意味を感じなかったし、戦争、紛争といった悲惨な「歴史」もまた繰り返される現実を見れば、過去から重大なものを学んでいるようには思えなかった。
 何より、過ぎ去ったことにことさら興味を持てないのは、性格に問題があるだろう。

 しかし、足元で多少の埃をかぶった箱だけは違っていた。
 たった4年の間だけ箱に詰め込んでおいた歴史は、箱を開ければいつでも息を吹き返すことができたからである。箱を開けなくても、日本がW杯に初めて出場した歴史については、過ぎたことでも、終わったことでもない。むしろ今だからこそ、輝きを増すものであり、玉手箱ではないことは明白だった。4年前の日本代表選手、岡田武史監督、コーチ、スタッフ39人に聞いた重く、普遍的な数々の話の意味は、今になってやっと、本当にようやく理解ができるように思う。
 39人の言葉は重く、常に生き続けている歴史であることは承知していても、彼らの鋭い観察力や繊細な感受性、豊かな表現力に触れた取材を思うと、箱から出て来るのが煙でないだけに開けられずにいた。
 開けて、整理することにしたのは、5月17日の、今大会の代表23人が発表された日である。
 数百人が集まった都内ホテルの会見場で選手の名前が読み上げられていく不思議な瞬間、名前に対する驚きや興奮は少しもなく、これでようやく片がついたのだと感じた。
 名前を呼ばれた選手と同時に、呼ばれなかった選手のことをより強く思った。
 今回も仕事に従事することになったスタッフを思い、同時に、選手たちを心から応援するであろう、今は自分の持ち場で活躍されるスタッフを思った。

    ◆呼ばれなかった名前

 箱の中には、4年前、選手、スタッフの家族から送られた丁寧な手紙が何通かある。
 17日の発表から数日後、私は4年ぶりに、その中の3人から再び手紙を受け取った。
「名前がなかったときには落ち込みました」
 1通に、心を捉えられた。
 便箋を、急いでめくる。
「あの本を4年前に読んだときには、子供がこんなことを考えていたのかと思うと泣けてしまって、最後まで読めませんでした。けれども、落選した夜、本当に冷静に読み返すことができました。そして息子が言っていた意味がよく理解できたように思います。彼の4年間の頑張りは、間違ってはいなかったのだとよくわかりました」
 強く心を揺さぶられた。
 詰め込まれたものは違っても、「足元の箱」を開けられないのは、一ライターだけではない。

 ゲラは処理し、手紙やメモは整理し、ノートはまとめ、箱はようやく足元から消えて、もう伸ばした足がぶつかることはなくなった。
 ファンはそれこそ過ぎ去った4年前のことなど興味はないだろうし、若手の進歩と、日本代表の前進こそ現在のテーマである。しかし、個人として挑むW杯もある。
 再び、あの舞台に帰って来た選手たちには、外に見える勝利とともに、何としても、内なる「決着」という名の勝利をも手にして欲しいと願う。
 勝ち点も、他者との比較もできないが、試合に出ようと、出まいと、事前にはまったく予想がつかなかった98年5、6月、1ケ月で起きたこと、感じたことへの「答え」を、彼らは必ず見つけるはずだ。
 そのどれでもいい。ひとつでも知ることができればと思う。

    ◆ジャムと小石

「特別なお土産なんていらないけれど、世界中にひとつしかない、けれどもW杯に行ったのだという小さな証しを」
 フランスには行けなかった姉に言われ、中山雅史(磐田)は、グループリーグの第三戦、ジャマイカとの試合の前日、リヨンのスタジアム、ベンチのすぐ傍で芝かきわけて小石を拾った。
 お姉さんは後に、「とてもうれしかった。でもね、悪いことしました。忙しいからって、ずっとジャムの空きビンに入れてたんですから」と、笑って教えてくれた。
「誰もが初めての経験の中で、それを伝えられる人がいた方が良かったのか、それともそうすると先入観にとらわれてしまうのか、難しいと思った」と、初体験に敢然と挑んだDF秋田豊(鹿島)は、4年前の経験を、今のチームにはかりしれない重みと、それを気付かせない軽快さで、思う存分伝えているはずである。
 前回の最年少代表、小野伸二(フェイエノールト)は中山が、ライン際で滑り込んで、看板に身体をぶつけながらボールに飛びついたプレーが、18歳で踏みしめたW杯でもっとも印象に残るプレーだと言った。
 昨年はオランダに移籍し、UEFA杯を制し、おそらく「答え」の半分は手にして今大会に挑むはずである。
 ユース世代から世界を自分の舞台としてきた中田英寿(パルマ)はフランスで「世界との差が縮まったのではなくて、なくなっていると思った」と話した通り、4年で世界をリードするサッカー選手であり、アスリートになった。

 あの漠然とした不安とともに挑んだフランス大会から、彼らは、何を答えとしようとしているのだろう。
 4年もの時間をかけて、肉体と頭脳を限界まで使い切り、人々が批判したことさえすっかり忘れているようなときさえ、決して後退を許さなかった精神力を持って、何を結果にしようとしているかである。
 彼らのことだ。
 きっとやり遂げてしまうに違いない。言葉の力など借りずに。

(週刊サッカーマガジン・2002.6.12号(No.870、ウイークリーVol.1)より再録)

 
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