◆私のサッカー手帳

第1回:サントスから三都主への旅


三都主は、代表の記者会見で聞かれていた。
「もし、相手がブラジルだとして、シュートを思い切り打てるのでしょうか」
帰化した先輩ラモス(瑠偉)、呂比須(ワグナー)と同じ答えだった。
「もちろん。思い切シュートを打つでしょうね。その瞬間が楽しみです」

    今日もスタジアムへ

 新幹線から見える景色も、いい加減覚えてしまったような気がする。どんなに正確に覚えたところで、少しの自慢にもならないことが悲しい限りだが、これだけ新幹線で移動していれば、どこにどの会社の看板があって、校庭があって、どんな標語が掲げてあるか、好きな景色、美しい景色、どれも覚えて視線が先回りしていることに気がつく。
 磐田でジュビロ磐田対横浜F・マリノス戦を取材し、浜松から名古屋まで行って宿泊。翌朝、サンフレッチェ広島村清水エスパルスの試合を取材するために「のぞみ」に飛び乗る。これだけ乗っているのに、私の仕事には本当に「望み」があるのかと、いつも苦笑いしたくなるのだが、車窓を眺め、西に行くほどに激しくなる雨を見つめていた。この1か月間だけで、出張は17回になってしまった。サッカーのW杯が行われる直前だから、というのではなく、この仕事がこんなものなのだ。
「婦人公論」の編集部のひとと久しぶりに打ち合わせをした際、「確か会社を辞めるときに、スポーツ新聞にこれ以上いたら時間に忙殺されてしまう。これからはもっとのんぴりと時間を使ってみたいのでフリーになる、なんて言っていましたよね」と、笑われた。赤面しながら「はい、嘘でした。すみません」と答えたが、仕事の速度はなぜか上がる一方である。

 スポーツを追いかけると、こんな情けない事態に陥る。つまり、スポーツのある部分は飛び切り新鮮な生ものであり、スポーツライティングの一面は極めて短い「賞味期限」との戦いでもある。
「スポーツライターとして、スポーツのどこが好きですか」とよく聞かれるが、「スピード」と答えることにしている。
 今日行われたものは、明日もう古くなる。今日の勝者は明日敗者になるかもしれないし、逆襲もある。世界記録が誕生したところで、すぐに塗り替えられる。チャンピオンでさえ何の保障もない。今の地位を守ろう、といったつまらない停滞思考もここには存在し得ない。例えば女子柔道48キロ級の田村亮子(トヨタ)の連勝が98で止まったときでさえ、人々の関心は、積み重ねた98連勝やそれに要した11年もの年月ではなくて、敗れたという目前の現実だけなのだ。彼女の経歴に対して、そんな非礼で、残酷な話があるかと思う。しかし、それを潔いまでに受け止め、たとえ体が倒れても、足だけは前に出そうとするトップアスリートたちの思考や哲学、そして一瞬も停滞しない猛スピードの中で、それらを展開していくための信念やテクニックが、私にとってのスポーツの魅力である。

 駅に着いて、タクシー乗り場で会った記者と一緒に車に乗り込み、広島のスタジアムヘ向かう。
「三都主、どうでしょうね」
 私は答える。
「でも、まだ日本代表になって3か月くらいでしょう。なのにずいぶんと代表で活躍しているような存在感があるね」
「まあ、帰化までの時間が長かったのと、高校からいますからね。でも今回のW杯に彼がいなかったらおもしろくなかったかもしれないですね」
 彼の言葉にうなずいて、私たちは試合会場となっているスタジアムで車を降りた。スタジアムに入ると、清水の白とオレンジ色のユニホームが見える。ブラジル・パラナ州生まれの24歳、94年に明徳義塾高校(高知)に単身で留学、プロを目指し、日本人になることを決意して、昨年11月13日、帰化が認められた三都主アレサンドロ(清水)の、8番のユニホームも。

 日本代表がW杯を勝ち抜く上で、戦術的に言えば、左サイドというポジションから鋭いクロス(サイド展開から、中央にポールを供給する)を、また、その俊足を活かして、相手陣営への突破を期待されている。今年の1月から代表合宿に招集されており、3月のウクライナ戦でまさに代表に「滑り込んで」来た攻撃の切り札である。何よりの持ち味は、サイドを突破していくスピード、そしてゴール前への鋭いクロスにある。サッカーでは、サイドの守備を崩して、ゴールの中央付近にシュートチャンスを生むことは重要な攻撃のパターンになる。しかし、日本代表はこれまで、この「サイド」のポジションに、三都主のような、スピードがあって、しかも、ボールを入れられるようなタイプの選手を、置くことがなかった。
 それゆえに、有効なサイド攻撃は多く展開できなかった面がある。三都主が加人する以前、左サイドを務めた名波浩(磐田)、中村俊輔(横浜F・マリノス)といった選手の専門は、中央でのプレーであり「ゼネラリスト(万能型)」としての能力の高さから、「サイドも」こなすことができた。
 しかし、三都主は、サイドの「スペシャリスト(専門家)」である。例えば、昨年でもアシスト(ゴールになる前のパス)が13本と、リーグでもトップクラスにある。彼のようなチャンスメーカーがいれば、これまでは中央突破に片寄りがちだった得点パターンにも新しい選択肢が増え、事実、加入後は、代表の攻撃にもサイドから崩してのシュートが目に見えて増えている。また、スピードを活かし、ゲームの流れを変える交代選手にもなれるはずだ。

 日本代表の見方にもいろいろある。前回の経験者でもあるベテランが何人いるか、この4年で力を伸ばした若手がどのくらい活躍するか、さらに海外で活躍する中田英寿(パルマ)、小野伸二(フェイエノールト)のプレーの品質と、着目点はいくらでもある。
 しかし、今回は、ちょっと違う着目点を記しておきたいと思う。
「ドーハの悲劇」と言われる93年のW杯予選(94年アメリカ大会)にはラモス瑠偉(89年11月帰化、引退)、98年のフランスW杯には呂比須ワグナー(97年9月帰化、J2・アビスパ福岡)、そして今回は三都主。W杯を戦う「日本代表」は、常にブラジルからの帰化選手がいて、両国はいつも心の中で手をつないで、世界のサッカーを相手にしてきているという話である。

    Å型で几帳面?

 三都主は、環境に溶け込み、誰からも愛され、茶目っ気がある。子供向けのスポーツ誌の取材で話を聞いたときには、真顔で「僕はA型なんですごく几帳面なんですね」などと言うので、「ブラジルには血液型がA型だから几帳面、なんて話はないでしょう」と大笑いした。
 清水ファンの子供たちからも慕われている。サッカー少年である彼らは、三都主を「アレ! アレ!」と、ニックネームのアレックスからとった呼び名で気軽に呼ぶ。ほかの選手なら対応も違うかもしれないが、彼は「一人でも子供が残っているうちは」と、サインや記念撮影は絶対に断わらない。

「だって、僕が小さい時には、父(ウィルソンさん)がプロサッカー選手だったこともあって有名な選手にも会うことがあった。彼らはいつも、とても優しくて、大きくなったらあんな選手になりたい、って思わせてくれたから。僕に会った子供が、なんだあんな人なのか、って嫌いになったり、サッカーを愛してくれなくなったら、それはとても悲しいでしょう」

 ブラジルの最大の産物は、コーヒーでも、大豆でも、自然でもなくて「サッカー」だと、国民は、その明るいイエローのユニホームの色にちなんで「カナリア」と呼ばれる代表チームを誇りにしている。94年の米国大会では優勝を果たし、現在は、イタリア、スペインなど強豪リーグで活躍する、世界のスター選手を生んでいる。
 今回、ブラジルは南米予選で、本命の予想を大きく裏切って大苦戦した。あわや敗退かと思われたが、何とか出場を果たしている。このW杯について、シンポジウムなどに参加すると「優勝はどこだと思いますか」と言われ、1ブラジル」と答えると、会場が失笑に似た笑いで沸くことがあった。それは、「今のブラジルが、優勝なんてありっこないでしょう」といった意思表示なのかと思われたが、甘く見てはいけないと思う。
 彼らが地理的には不利な移動をするとしても、精神的には日本のサッカー界やファンにどれほど温かく迎えられるかを思うとき、私は「優勝」と賭けているのだが。

 三都主は、2001年3月、帰化申請をした。高校から、清水に人った際は、まだ「テスト生」である。Jリーグには、高校からスーパースターと言われる選手たちが集まるが、三都主は「とりあえずテスト生としてどこまでやれるか」を試される選手だった。
 当時、清水のコーチがよく話していた。
「彼の才能は間違いない。ブラジル代表にもなれるかもしれない。ただし、問題は、まわりとどうやって協調し、融合していくかだと思う。一人でボールを持って突進するだけではサッカーはできないからね。まわりを見て、まわりに溶け込むこと、これが重要な鍵だと思うんだ。それができれば必ずいい選手になると思う」
 まわりを見て、とは、単身で日本に留学してきた少年にとっては、何もサッカーだけの話ではなかったと思ぅ。彼の生まれ故郷であるパラナ州・マリンガに偶然遠征していた明徳義塾の関係者が、地元のクラブでプレーしていた彼を見て、「日本で勉強をしながらサッカーをしないか」と声をかけた。そこから家族と何度も話し、悩み、そしてまずは日本のサッカーで成功し、プロになりたいと望んだという。

    帰化選手の共通項

 ラモス、呂比須といったこれまでの代表の帰化選手と違うのは、少年時代に単身で、日本にやって来たことである。彼の当時の夢は、正月の高校選手権に出場して国立競技場でプレーすることだったというから、W杯のために、といった動機は後のものだとわかる。サンパウロから内陸に入ったマリンガという町で、父、母、妹が暮らす。おそらく、日本からは一番遠い距離にあるブラジルにいる家族と離れ、だからこそ家族の絆を大きな支えに、異文化に飛び込み、馴染み、別の文化を自ら作りあげていく。行動をおこす前に、両国の距離をもし計算するなら、環境のあまりに大きな差異をイメージするなら、さまざまな仕事は成し得なかったであろう。
 世界中に知られるサッカーの神様・ジーコがリオデジャネイロから、鹿島の住友金属に「日本にプロサッカーを作る」として来日したときも、欧州のメディアは、それがスーパースターの夢だとしても、真剣には扱わなかった。むしろ、からかい半分だった。

 物理的な距離がこれだけありながらも、探く、特にサッカーにおいては、強く引き合う両国の磁力を、私はいつも不思議に思う。帰化選手たちの共通項でもある、家族の強い絆にも同様に惹かれる。彼らの夢には、距離と時間が、必要になる。それは子供を最も遠い国に送り出しても、一途な夢を実現させようとする家族、それを実現する子供たちの情熱、といったストーリーでもあるのだが。

 前回大会の予選中、最愛の母をガンで亡くした呂比須は、「日本人としてW杯に出ることは僕の、母の夢だった。だからここに残ります」と言った。
 当時、日本代表の岡田武史監督が、呂比須の母ルジアさんが亡くなったことを知って、合宿中に「帰国して、お母さんを見送るように」と話したとき、ロペスはそう言った。現場で取材をしていた誰もが驚いた。「日本では親の死に目に会えずとも、と言いますよね」と、ブラジル人のロペスが口にしたとき、不思議な、しかしどこか温かな感覚にとらわれたものだった。

 三都主の帰化、代表への合流を呂比須とともに喜んでいる人に、ラモス瑠偉がいる。現役は引退したが、テレビ解説やキャスターとして依然、サッカーへの情熱は変わらない。
「自分はいったい、なに人なんだろうと思ったこともあるし、自分が日本人であっても、他の人がそれをどう思うかはわからない。サッカーをやりながら、サッカーで結果を出しながら、自分の誇りを築くしかない。W杯に行って、きっとそれが確認できるんじゃないか。応援しているよ」
 三都主にとって、来日以来憧れの的だったラモスは、こんな激励をしている。

 実は私にとっても「ブラジル」は特別な国である。ブラジルからの帰化選手を見ると、私は、自分の祖父がブラジルで外交官をしていた不思議を強く思う。彼らと、空中でスレ違うかのような感覚を覚える。違う時代、違う夢を、はるかに超えて、約2万キロの距離をつないだように。
 祖父は1945年に死んでしまったので、会うことはなかったが、母は祖父がサンパウロ領事館に勤務していた当時、リベロンプレッタという街で生まれ、一家は戦争が始まる前年、帰国することになった。
 今も外務省には資料があると言われているが、祖父の故郷・秋田の地元紙には、祖父ら、ブラジルに渡った同郷人の資料記事があり、その中に、祖父は「水稲栽培の先駆者」として記されている。外国語大学を出たのに、なぜバイオか、これは母もまったくわからないというが、現地で、カテテ米と名付けられた米を作ったという。外米のように細長く、水分の少ないものではなく、日本米に近い味は、移民した日本人だけではなくて、ブラジル人からも好まれたそうだ。

 地球儀では正反対にある両国。しかしその距離を超え、互いの文化を超え、新たな価値観や財産を交換し、そこに根付かせること。「帰化」には、自国の国籍を捨て、他国の国籍を得て、他国民となること、という本来の意味がある。しかしサッカーならばむしろ、次の意味のほうがふさわしい気がする。
「渡来した動植物が、その土地になじんで、自生・繁殖するようになること」(『岩波国語辞典』)
 三都主は日本代表がフランスで3敗を喫した年に清水のレギュラーに定着し、翌年には、史上最年少で、Jリーグの年間最優秀選手となった。2001年、日本人としてW杯に出場するという、次のステップにある夢を実現するために、帰化を申請した。あのとき、コーチが言った「まわりを見て、溶け込んだら素晴らしい選手になる」といったのは本当であったと思う。

    ブラジルを敵として

 さて、ラモスも、ロペスも、日本代表として、初めての会見で、同じことを聞かれていた。そして、同じことを答えている。
 三都主も、同様だった。
「もし、相手がブラジルだとして、シュートを思い切り打てるのでしょうか」
 三都主も、先輩2人と同じ答えだった。
「もちろん。思い切りシュートを打つでしょうね。その瞬間が楽しみです」
 代表チームに、三都主が存在することは、かってラモスや呂比須がそうであったように、日本人が感じる以上の日本人の誇りや、存在感といったものを与えている。
 三都主は、父ウィルソンさん、母マリアさん、妹アリーネさんの名前をすべてスパイクに刺繍してW杯に臨む。3人を初めて一緒に、自分の選んだ国「日本」に招待して。

●三都主アレサンドロ/1977年7月20日、ブラジルのパラナ州マリンガ生まれ。24歳。身178cm、体重69kg。グレミオ・マリンガ、明徳義塾高校を経て、97年、清水エスパルスヘ。Jリーグの個人タイトルは99年MVP、ベスト11。

「婦人公論」1108、20002.6.7号より再録)

 
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