五輪、南米選手権、代表挑戦の年!


 横浜フリューゲルス、MFサンパイオ(ブラジル代表・30)のアンダーシャツには、「神さま、みんなへありがとう」と、太いマジックでローマ字が書かれていた。
 元日の天皇杯では、清水を下して2度目の優勝を果たした。残念だが、賜杯と引き換えに、クラブはこれで消滅する。しかし、ロッカーから祝賀会に向かう選手たちは、泣いてはいなかった。
「サッカーをやっている限り……」
 サンパイオは続けた。
「ぼくはいつでも、フリューゲルスのみんなに会うことができる。だからお別れの言葉を言う代わりに、今年も世界中、いろんなところで会おう、そう言うつもりなんだ」
 ブラジル代表として出場した昨年のW杯では、3得点とチーム2位の数字をマーク。期間中は、チームメイトで親友でもある山口素(29〉と、ほぼ毎日、携帯電話で連絡を取り合った。
 サンパイオの言う「いろんなところ」は、すでに具体的になっている。
 1999年6月末、「日本代表」は南米大陸に足を踏み入れ、初めて公式トーナメント『南米選手権』に出場する。タイトルをかけた南米選手権に、中北米大陸以外の国が招待されたのは初めてで、今年のサッカー界ではシドニー五輪予選と並ぶビッグイベントになるはずだ。
 招待状を受け取ったのは'98年6月26日。W杯期間中、リヨンでジャマイカ戦を迎えた日だった。試合前、関係者から、「ちょっと群がある」と、日本サッカー協会の小倉純二副会長(当時・専務理事)は耳打ちされ、VIP席についた。副会長自身、耳元でささやかれた話を、すぐには信じることができず、ただ笑っていたという。
「アルゼンチンとクロアチア戦を見た彼らは、日本に非常に感銘を受けた、それが招待の理由だ、と言うんですね。冗談と思うくらい驚いて、日程も未定だからまた今度、と返事を保留したんです」
 '98年12月に行われた選手権の組み合わせ抽選(パラグアイ、ペルー、ボリビア、日本)に出席した副会長は、こう振り返る。
 副会長は'95年、日本代表の強化と、その存在をもっと世界に知らせたい、との目的から、サッカーの聖地・イギリスのウエンブレースタジアムに遠征させるチャンス(アンブロカップ)を作った。日本代表が初めて欧州でのAマッチに挑んだ試合の評価は、決して低くはなかった。
 そして今年は南米である。
 サンバイオが指摘したのは、この南米選手権のことである。
 過去5回の優勝を誇るブラジル代表選手ですら、選手権を「ある意味で、W杯よりもシビア」と表現する。それは、異常なほどの熱狂に包まれ、世界中のどの試合とも違ったものだという。
 日本が地元パラグアイと戦うパラグアイの首都アスンシオンのメイン競技場は約5万人を収容できる。サッカー専用スタジアムで観客席がピッチのすぐそば。日本がW杯では経験することがなかった完全なる「アウエー戦」が、ここで実現される。
「ぼくは、その大会でヤマ(山□)、ナラ(楢崎)たちと会いたい。だから自分もブラジル代表にまた選ばれるよう精一杯やる。そう、南米大陸は日本代表を待っている」
 選手権に招待されたのだから、顔見せや、エキシビションなどと中途半端な姿勢では済まされない。
 '95年のウエンプレーでは「日本独特の美しい絹糸のようなパスを出す」と絶賛された山口は、「もう一度代表に戻り、ぜひ挑戦してみたい」と言い、楢崎正剛(22)も「'99年最大の目標のひとつ。めちゃくちゃ楽しみ」と口を揃える。
 3敗に終わったW杯の本当の意義や評価が問われるのは、じつのところ1999年の試合内容にかかっているのではないか。世界のトップクラスに近づくためにも、南米選手権を無駄にはできない。
 横浜Fのサポーターが国立競技場に最後に掲げた横断幕には、こう記してあった。
 それは、2002年に向う日本代表にとっても、いいメッセージだった。
「いろんなところに行って、いろんな夢を見ておいで、そして最後に……君のそばで会おう」

週刊文春・'99.1.14号より再録)

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