高橋尚子は二度泣いた
日本中に笑顔をふりまいたヒロインが見せた涙


 結局、あの姓名判断は当たったのだ。
 それも、これ以上ないほどの完璧な形で──。
 そのことを思い出しながら、通路を歩く小出義雄監督の後をどこまでも追った。

「佐倉の田舎のさ、農家のへっぽこオヤジのオレが、こんな金メダルが取れるなんてさ、世界で一等だよ、人間わからないもんだねえ。オレは幸せだなあ、加山雄三みてえになっちまうよ」
 高橋尚子の金メダルで大混乱するシドニーオリンピックスタジアムの通路を、大勢の記者や関係者に囲まれて歩きながらそうつぶやいた。誰か特定の記者や、特定の質問に答えたわけではなかったが、日本女子陸上界史上初の金メダルの衝撃に騒然と人々が動き回り、二人のコメントが凄まじい勢いで行き交う中で聞いた、これがもっとも真実に近い本音であったように思う。
 しかし一方では、この瞬間をほかの誰よりも強く確信し、疑うことなく高橋を育て上げ、スター卜地点となった、ノースシドニーのオックスフォードストリートに立たせたのもまた、愛すべき「へっぽこオヤジ」なのだ。
 17年も前、金メダルという答えはすでに出ていたのである。

 1983年8月のことである。
 当時市立船橋高校の陸上部監督として、小出は愛知県で行われたインターハイに出場した。佐倉高校で始まった陸上の指導のキャリアが本格的に軌道に乗り始めた頃である。世話になった宿で名刺を渡すと、主人は名刺を握り締めて、「ちょっと待っていなさい」と廊下を走って奥の部屋に消えた。数分後、呆然と立っていた小出の前に、紙切れに書いた筆文字とともに主人が正座をした。

 紙にはこう書いてあった。
「天昇院頭領」
 まだ44歳である。戒名をつけてもらうには早過ぎる。面食らっていると、主人は話を切り出した。
「姓名判断を長年やっているんですがね、これほど完璧な名前を見たことがあうません。あなたの名前の総画数、漢字間の画数、すべてが完璧です。こういう人を天昇院頭領と呼ぶのですよ」
「何の話ですか、一体」
 きょとんとする小出に主人は続けた。
「天をまるで龍のごとく駆けめぐり、ついには行き着くところまで辿り着く。何も怖れることはない。自分の信じた道を信じるままに進みなさい。そうすれば、考えうる最高の結果が得られます。どうかそのことを忘れないでください」

 今年2月、名古屋国際女子マラソンを目指した徳之島での合宿中、この話を初めて教えられたとき、では行き着くところとはどこなのか、そう尋ねた。
「金メダルしかない」
 小出は言った。

「あの時オレは、ヨシ、それなら駆けっこに賭けてみるか、と本気で思ったんだ。それまでは、自分に合った仕事だとほ思っていたけれど、勝負というのとはまた少し違っていたからね。だけど、行き着くところまで行けると言われた時、オリンピックで金メダルを取ってみようと思った。あの姓名判断から、すべてが始まったんだな。そうだこの道を進めばいいんだと」

 この道とは、女子長距離、とりわけマラソンに対する情熱を指した。女子にはなぜマラソンがないのか、なぜ長距離がないのか。もしあれば絶対世界一になれるはずだ。そう確信するだけの材料をいくつも揃えていたのである。

    尚子は直子だった

 姓名判断より戦わずか1年前、佐倉高校で、小出にとって初のマラソンの教え子になった倉橋尚巳、そうした意味で様々なことを小出に教えてくれた原点である。
 たった一人の女子長距離部員だった倉橋に、小出はいきなり「フルマラソンを走ろう」と言い出した。マラソン練習も全くしていない、しかも42キロという距離には漠然と恐怖感だけがある。倉橋の親も大反対した。しかし小出はそのとき「大丈夫、絶対に大丈夫だから任せなさい」と説得し、千葉選手権マラソン(1982年)のスタートラインに立たせてしまった。
 結果は、当時日本歴代3位に相当する2時間41分33秒。初マラソンで、しかも17歳の高校2年生がマークしたのだから、インパクトは大きかった。
「女の子を走らそうなんて当時は誰も思ってなかったんじゃないか。だけど世界と戦うにはこれしかないと思った。倉橋のように特に才能のあるわけではない選手に記録を出させた経験に比べれば、オリンピックでメダルを取ることは簡単だと思ったね」

 当時から、女性を強くするのは「気持ち」であると思っていた。同時に、体調の変化にどう対応するかも注意深く見守った。よく言われる生理の前後での体の変調は特に重要だった。脚に出るむくみや、体重の微妙な変動、強さを発揮する子もいればそうでない子もいる、こうした個人差をじっくりと見て、生徒に教えられて勉強したという。ウェイトコントロールに関しても、まったく独自の考えを持っていた。誰もが管理された食事で体重を抑える中、「食べて走る」と言い続けた。貪血やホルモンのバランスが崩れることによって起こる骨の異常などを自分の体調以上に気にかけた。

 この経験が原点になって、市立船橋に転任し、やがて実業団のリクル−トに移籍。有森裕子でオリンピック銀、銅を獲得し、九七年のアテネ世界陸上では鈴木博美が金メダルを獲得した。ビッグイベントを総なめにした唯一の指導者になったが、あとひとつ、どうしても欲しいものがあった。
 高橋に出会った6年前、1994年の夏、小出が本当の意味で惚れ込んだのは、彼女の走る姿ではなかった。名前を見たとき、あの日以来独学で身につけてきた姓名判断で咄嗟に画数を見たという。
 完璧だった。

「オレは最初にキューちゃん〔高橋のニックネーム)にこう言ったんだ。名前は誰が吋けた? と。そうしたら、ご両親が専門家に見てもらってつけたとね。尚子は直子だったらしいんだが、これではあまりにうまく行き過ぎる名前だから少し外したほうがいい、と尚子にしたそうなんだ。うれしかったねえ、この子か、金メダルの夢を叶えてくれるのは、とね。二人ならば行き着くところまで本当に行けそうだと、心ん中て飛び跳ねたい気持ちだったよ」

 今年2月、徳之島での取材を終えて帰るとき、雨の中、小出がこう言って、手を上げて笑ったことき思い出した。
「で、今年は辰年ってわけだ」
 9月24日、シドニーの午後9時、オリンピックスタジアムで金メダルをもらい笑顔で手を振る高橋に拍手を返す横顔を見ながら、こんなことを考えていた。
 占いが当たったのではなく、小出が占いを当てさせたのかもしれないと。

    「変子」と呼ばれた高校時代

 二人の強い絆、師弟愛、こうしたものが強調される中、今後、間違いなく史上最強と歴史に名前を留めるであろう高橋尚子という女子ランナーの実像は影を潜めてしまう傾向がある。高橋の人間像、ランナーとしての思想ともいえる強い意志こそ、金メダルを小出とともに手にした絶対不可欠な要素なのである。

 高橋がまだリクルートで頭角を現す前、髪の毛を染めたことがあった。当時の流行に乗ってただ軽い気持ちで染めただけだったが、小出はまだ十分な実力も持っていないランナーのそんな行為を叱った。
 すると高橋は翌日、何もなかったかのように髪を元の色に戻してこう言ったという。
「私は、監督の望む選手になります。髪を白くしろと言われればします。だから見拾てないでください」
 さすがの小出もあっ気に取られた、と聞いたことがある。

 しかし同じ髪にまつわる、まったく正反対のエピソードを聞いたこともある。
 県立岐阜商業陸上部で指導をした中澤正仁教諭(現・明智商業)の話だ。
「とにかく頑固でした。初めて会ったとき、何だコイツと思いましたから。思い出すのは髪ですね。最後まで譲らなかった」
 高橋は当時、ロングヘアだった。
 山梨学院大で箱根駅伝に出場したばかりの中澤は当時熱血教員でもあった。様々な指導をしていく中で、とにかく長い髪で走る高橋を何とかしようと考えたが、いくら「切れ」と言っても切らない。「結べば大丈夫だから」とか「2センチ切りました」と笑いながら、結局卒業まで髪を切らなかった高橋を、中澤はいつも「頑固」にひっかけて「変子(ヘンな子)」と呼んでいた。
 朝練習に参加したのもおそらく3年で数回だけだったという。ただ、やると決めたときの集中力には恐ろしいものがあった。

 新任教員だった中澤は若さゆえに、組織や既成概念に食い下がろうとした。
「今思うと、結局自分のほうが高橋に躍らされた部分があるのだとわかるんです。何かに立ち向かおうとすると、普段は自分にちょっと反抗的なあの子が、先頭に立って自分の夢や望みを叶えようと懸命に走っている。私にとって、高橋は同志ともいえるような存在であって決して教え子なんかではない」

 染めた髪と元の色に戻した髪。
 切らなかったロングヘア。
 高橋の不思議な魅力をともに物語っているのではないか。

 金メダルを獲得した直後、テレビに生出演するためにシドニーの放送センクーを訪れた高橋に聞いてみた。一体どんなレースをしようとしていたのか、と。そして昨年、このシドニーの代表権を取るはずだったセビリア世界陸上を欠場したときの無念さは完全に晴らせたのではないかと。

「今回も前日にこう思いました。たとえどんなに良くないレースをしたとしても、それもまた自分の力を発揮するということなんだ、だから去年、スタートラインに立つことができなかった自分を思えば、今はなんて幸せなんだろう、と。良くも悪くも、自分の力を出すために苦しい練習に耐えるんですから、ある意味では結果なんて私は気にしない。スパートを2度した地点とか作戦とレかをれ聞かれましたが、悔いというものをレースに残したくなかっただけ。走っていて思い切りだけが重要なんです。負けるとか失敗するとかではなくて、まるで不戦敗のようなあのセビリアの思いだけは絶対に忘れません」

 シドニーの勝利では少し涙ぐんだだけだった。
 高橋が泣いたのを2度見たことがある。
 最初は、昨年のセピリアで「圧倒的な優勝候補」と言われ、凄まじい練習をこなし、五輪代表を手中にする寸前腸脛靭帯を病めて欠場したときである。
「最後まで、もがきたいんです」
 そう言って、レース当日まで欠場を決めなかった。出場選手の予定会見にも出席した。その時である。車まで歩きながら、「監督は、記録を狙って金メダルを取ろうなんて自分の強欲をそのまま高橋にぶつけた自分が悪い、最後は陸上の神様の裁きに従うしかない、と言っている」と伝えた。
 すると、急に空を見て涙をこぼした。

「世界中のすべてのランナーが怪我をしても自分は大丈夫なのだと思って、節制と管理をしっかりしなかった自分のせいです。監督に申し訳ないです」

 この時、高橋が大好きだと公言する「走ること」にかける純粋さを感じたのではまったくなかった。それよりも、彼女が走ることにかける執念を見た思いがした。怪我をすることを全く念頭に置いていないのだ。世界中のランナーか怪我をしても自分は、という言葉にはどこか不思議な力があった。無茶苦茶な発言ではある。しかし、彼央の真髄は、実はこの「自分だけはやり遂げられる」という圧倒的な自信と、常識やセオリーといった概念や枠にまったくとらわれない発想と、精神力にあるのではないかと考える材料になった。

 彼女は、単に走ることが好きなのではなく、走ることのみで越えられる、自己の限界を高めていくことが好きなのである。
 小さなチャレンジもあり、大きなチャレンジもある。しかし終始一貫しているのは、常識や自分自身の枠といったものへの挑戦である点なのだ。

 もう一度だけ涙ぐんだのを見たのは、今年3月、名古屋国際女子マラソンのために名古屋入りしたときである。
 2月の徳之島で合宿を行った際、極めて面倒見のいい小出が、島を訪れた記者たち数人にビールと焼き肉を振る舞ったことがある。それは、たった1時間程度の取材のためにわざわざ徳之島まで来てもらいトンボ帰りする記者たちへの感謝であり、それ以上でも以下でもなかった。
 しかし、それを「代表選考で最後に残った議席を、マスコミを懐柔することで何とか有利に手にしようとしている」とする記事が雑誌に掲載された。
 小出によると、高橋はそれを知って泣き出したそうだ。「そういうことを言う人も世の中にはいるんだ」と言って聞かせても泣き止まなかった。
 名古屋でその話を聞くと、この時も涙をこぼした。
「何でそんなことを言われるんでしょう。懐柔なんて……悔しくて。私は自分の力で代表になりますから」

 代表権をかけた名古屋では前半のハーフを1時間12分40秒で通過した。しかしその後のハーフを1時間9分39秒とじつに3分以上ペースを上げている。日本最高記録保持者ならばアドバンテージは当然持っていたはずで、それほどの無理をしなくても良かったのかもしれない。
 しかしこの驚異的なぺースアップは、山口衛里(天満屋)、弘山晴美(資生堂)と2時間22分台をマークしたランナーたちへの意地であり、「マスコミを懐柔しなければ代表になれない」などと言われた屈辱への「答え」でもあった。

 シドニー五輪でこれほどまでに完璧な形で金メダルを手にした今、二人のバックボーンをこうして振り返ることは、何故二人がコンビを組んでこれほどまでに成功したのかを如実に物語るように思う。
 小出の言葉を借りるなら「世界一駆けっこの好きな監督と、世界一駈けっこの好きなランナーが一緒になったらこうなった」ということなのだが、別の言い方もできるのではないだろうか。
「世界一勝つことか好きな監督と、世界一負けることが嫌いなランナーが一緒になったらこうなった」と。

 シドニー五輪への青写真も、実際の戦略にも繚習方法にも、すべてにそれが滲み出ていた。小出と高橋だからこそ可能になった金メダルへの戦略とは、つまるところ、「取り方」にあった。
「生身の人間だから最後まで計算できないものもある。しかし、金メダルは取れる。あとはこぼさないようにすることだ。どういう取り方をするかなのだ」
 この夏、すでに高橋の練習と仕上がりに揺るぎない確信を抱いていた小出は、知人にそう話した。初めて聞く小出の自信にあふれた言葉と表情に、それを聞いた知人は鳥肌が立ったと打ち明けた。

    常識破りのスパート

 小出と高橋が、史上もっとも難関と言われたこのコースに対して掲けた戦略は二つ。記録と駆け引き。コースはスタートから1.5キロで50メートル下るもので、ここでかなりの筋力を使い、さらに後半34キロからの十回にも及ぶ細かなアップダウンで、脚は完全に言うことをきかなくなる、そういうコースである。
 二人が設定したひとつ目の戦略は、2時間21分台という、オリンピック新記録にして、自己ベストのとてつもない記録をターゲットにすることである。
 5月の下見で、世界記録など狙わないとは言ったが、その反面、「結果的なタイムはともかく、実際に2時間23分を切るマラソンをしなければ勝てないだろう」と小出はみあきった。

 シドニー入りしてから、小出陣営がもっとも警戒した世界最高記録を持つロルーペ(ケニア)、ロバ(エチオピア)が会見を行った。この時、おもしろいほど際立ったのは記録予想だった。
 世界有数のランナーはこう予想した。
「常識約に考えて、この難コースで記録は出ない。後半があるから誰もが慎重に行くでしょう。2時間25分から27分が優勝記録ではないか」

 この時点でじつは「勝負」はあったのだ。
 23分、あるいは22分台をターゲットとした高橋と、これよりも3分から4分も遅い「常識」こだわったアフリカ勢と、どちらが主導権を握るかは明らかであった。スタートラインにさえ立てば、後は負けるはすなどない。難コースだから、後半が苦しいから、という「一般常識」になど一切左右されなかった二人の勝利は、すでにこのとき決まっていたのかもしれない。

 このタイムをターゲットにするために取ったアプローチもまた、これまでにない新しい、常識を破るものだったといえる。
 まず3,500メートルの標高、ティンバーランドと言われ草木も生えないような環境の中での高地トレーニングである。高地トレーニングそのものは決して新しいトレーニング方法ではないが、高さが尋常ではなかった。これまで小出が、有森裕子、鈴木博美らと行ったのは、2,300メートル程度であったからだ。

 この高さを最初に聞いたメディアは唖然とし、それを伝え聞いた医学の専門家は眉をひそめた。「高ければいいわけではない」と、高さ信奉だと批判する学者もいた。
 しかしそんな話を気にする小出でもなけれは、高橋でもない。「でたらめ監督」と自ら称する一方、小出は小さな文字で手帳を書き潰すような男でもある。手帳の中身を聞いたとき、「失敗の引き出しだよ」と笑って教えられた。

 高い地点に上がれは、低酸素で苦しくなる。結果、心肺機能は平地に戻った時に上がるが、今回のコースで必要になる「後半の脚作り」には適していない。苦しければ距離を稼いで脚力を鍛えることができないからだ。
 二人が実際に行っていた練習は、高地と平地との「インターバル方式」という新しい方法だった。医学的な見地からも、人間の体は標高三千メートルを越えた頃から体内のむくみを調整しようとホルモンが活発に動き出すというデータがあるという。発想の転換があるとすれば、これまでは高地に設けた拠点から降りて、また上っていたのだが、今回は、拠点自体を以前よりも上げて、そこから数日間だけさらに高い3,500メートルまで上がったことである。下て脚も作り、さらに上で心肺機能も鍛える。そして、そこまで標高の高い地点で死ぬ思いでトレーニングを終えた充実感を自信に変えさせる。

「オレは何度も言ったと思う。シドニーでは世界中のマラソン指導者を驚かせるんだって。誰もやらないような練習をやって、それで金メダルを取る。それでないと意味がないんだ。セオリーとか常識とか全部壊すためにマラソンをやっているんだ」

 有森とは標高1,600メートルで銀メダルを奪い、鈴木とは標高2,300メートルでの練習で世界陸上の金メダルを取った。安全策はすでにいくらでも持っている。しかし高橋とはそのどちらでもなく、さら高い地点までリスクをかけて上がってみせた。その発想に、小出義雄がマラソンの指導者として勝利にこだわる、すさまじいばかりの執念と自信がある。
 20年もかけて金メダルを狙おうという男の気迫がある。

「常識的な発想を嫌う監督と、規定の枠を破ろうとする選手が一緒になれば、こんな怖いものもないだろう。しかし小出にしても、高橋の発想にずいぶんと引っ張られたようだ」
 順大時代の恩師で、小出が今も迷ったときにすぐに相談をする帖佐寛章(日本陸連副会長)にそう聞いたことがある。
 6月、小出がゴルフ場にいた帖佐に国際電話を寄越したことがある。電話が来るのは何か良くない話、帖佐が胃の痛む思いで電話を取ると、小出は切り出した。
「私はオリンピック前に今の状態で負けたり、自信を失うのは怖い。だから出るなと説得したが、高橋はどうしてもと言って聞かない。札幌ハーフマラソンヘの出場を都合してもらえませんか」
 帖佐はその時、この師弟関係のおもしろさに改めて気がついたと話していた。
 高橋が98年、アジア大会で日本最高を作った際も、二人は数日前にレース展開をめぐって対立している。
「暑い中だから安全に走ればいいという小出と、行けるところまで行くと譲らない高橋。たしか部屋にこもってしまって、周囲も呆れるほどの強さだと驚いた」
 当時の陸連関係者がそう話していた。

 様々な勝因がある。しかし、もうひとつ金メダルの勝因を挙げるならば、常識を破る駆け引きがあった。
 34キロから続くもっとも苦しいアップダウンの繰り返しを最後のスパート地点に選んだことは、試合前日の強い自我ではないだろうか。試合前日、高橋は自分から「あの地点でスパートします」と小出に告げたという。近くに宿泊していたから道を熟知していた。確かにそれもある。しかし、誰もが尻込みするような細かい起伏の繰り返しを金メダルへの勝負どころに選ぶ発想には、どこまでも強く、ある意味で鬼気迫るものがある。

「私はアップダウンが好きなんです。だから、行くならあの坂で、とずっと待っていました。結果的には、サングラスを取り去るために、それがシモンさんに当たらないように前に脚を出したことがきっかけになりましたが、あそこで行ってダメならもう仕方ない。そう思っていましたから」

 多くのランナーが脚を止めた地点でスパートした高橋の五キロのスプリット(35から40キロ)は、このレース中2番日の16分47秒に跳ね上がっている。普通ではない。これを成し遂げるための辛く厳しい練習と、やり抜くと決めたら絶対に護ることのない精神力。両方がなければ不可能なスパートであった。
 小出に言わせると、そのスパートの切れ味は「鉈(なた)」であり、重さは「ボクシングの強烈なパンチ級」ということになる。
 金メダルそのものよりも、「いかに」それを手にするのか、そのアプローチにおいて新しく、しかも徹底したものであったか。二人の師弟愛、高橋の笑顔と小出の人なつっこい笑顔とジョーク、これらは、「マラソンに命をかけても構わない」と言い放つ二人の怖さであり、崇高さに覆いかぶせる「隠れ蓑」の役目を果たしているのかもしれない。

    世界最高記録への挑戦

 金メダルを獲得した翌日、小出はこんな話をした。
「高橋に記録だけを追わせたらどうなるかって、これも楽しみだ。記録の出やすい簡単なコースで世界最高を狙うなんてそんな考えはまったくないよ。全然考えていない。今回は、脚の筋力をテーマにして棟習を追い込んできているから、脚が多少張ってるくらいで走らせてそれでいい。でも記録になると、今度は脚を弛めて(筋力を多少弾力のあるものにして)スピードに対応する。筋肉への知識は畑仕事で覚えたんだ。ホラ、農家のオヤジはどんなにきつい農作業でもマッサージなんて受けないだろ。そのためにやってみたい練習が山のようにあるんだ。今回高橋が金を取ったことでまたひとつ確信した。物事は決め付けては絶対にいけない。常に新しい発想とチャレンジをしなければ。楽しみだねえ、次のレースも」
 楽しみなのは小出だけではない。
 何しろ、日本女子陸上史上初の金メダルという夢が達成されたにもかかわらず、世界最高の夢もまだ続くのだ。

 小出が金メダルを首にかけた高橋に出した、いわば最初のメニューは「休養」のお塗付きであった。
「2か月で8キロは太りますからね、あの子は。それでたっぷり肉つけてまた絞る。好きなものも一杯食べて、体をまずはゆっくり休ませるんです」
 隣でサインに応じていた高橋が笑いながら言った。
「監督、大きな声で言ってください。みなさんに聞こえるように!」
 夢を描く人と、夢を実現させる人。
 夢はしばらく終わらない。

(文藝春秋・2000年11月号より再録)

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