第20回東京国際女子マラソン記念大会
'98 TOKYO INTERNATIONAL WOMEN'S MARATHON
(開催/1998年11月15日)

20年目を迎えて


「壁を一度に破ることもできないし、
たった1人で乗り越えることもできない。
何度も失敗し、みんなが自然と力を合わせ、
そうしてやっと、1枚の壁を破ることができる」
──第8回優勝、大会初めて2時間30分の壁を破ったロザ・モタ(ポルトガル)のレース後のコメントから。

 女に42キロなど無理、と言われた時代があった。女性が足を出して走るなんてはしたない、と冷たい目で見られた時代もある。
 しかし、20回もの歴史と、何より実績を積み重ねる中で、女子マラソンは五輪種目となり('84年ロス)、42キロは無理、と言われた苛酷な競技は、女子競技者たちの「強さ」のシンボルになった。日本選手も'91年東京世界陸上以来、ビッグイペントで金メダル2つを含む6つものメダルを手にし、女性ランナーたちは装い、主婦、母親たちが颯爽と街なかを走る、そういう時代が訪れた。
 女性ランナーはこの20回の大会を通じて、性別の限界を越え、差別の壁を越え、何よりも記録の壁を破り続け、尚もスピードの極限という壁にチャレンジし続けている。

女として、という壁を壊した女性の勇気

 スポーツ新聞の記者になり、初めて東京国際マラソンを取材した'85年第7回大会、その光景を、目の前で見ることになった。
 私は取材バスのなかで「男性記者」たちの「一体なにが起こったのだ」という質問を浴びていた。みなどうしていいかわからずにあたふたするだけ。無理もない。そもそもスポーツで、あれほど刺激的なシーンを見ることなど誰もが初めてのことだったのだ。自分ですら、本当に慌てたのを覚えている。
 先頭集団と取材バスが30キロ地点にさしかかったころ、集団にいたビルギット・ワインホルト(旧東ドイツ)に異変が起きた。生理が突然始まってしまったのだ。極度の緊張のためだろうか。集団を抜けてトイレに入れないものか、給水所で着替えをさせられないのか、本当に気が気ではない。しかし彼女はレースを諦めなかった。2位でゴールをした。恋人でもあるコーチの胸に泣き崩れながら。
「あれこそ女性スポーツ感動のドラマだ」。会社に戻るとそう言われた。「感動の写真」を載せるのだとも。反論した。当人にはそんなきれいごとではない、第一写真なんて興味本位です、いや違う、写真を掲載して真面目に取り上げるんだ……とまあ、そんなやり取りだったと記憶する。日刊スポーツは結局その写真を掲載しなかった。反論のせいではない。最後の会議の結果、これがもしも自分の奥さんなら、恋人だったなら、そうやって判断したのだと後から聞いた。
 ロッカーからはついに一度も出て来なかった本人に代わって、2連覇を果たしたカトリン・ドーレが話をしてくれた。
「彼女は本当に勇気を持って完走したんです。どうか誤解しないでください」
 当時はまだ東ドイツがスポーツ大国として、その厳然たる力を誇っていた時代でもある。彼女たちには国際大会で棄権することは同時に、生活を捨てることを意味した。'82年大会でも同じ共産圏だった旧ロシアのツフロが、レース中モモに激しいケイレンを感じながらもゼッケンピンで鍼治療し2位になったこともあった。女性がスポーツ界で勝負をすること、それには大きな痛みが伴うということ。分っていたはずの事を強烈に示されたレースだった。
 この年の5月、イングリット・クリスチャンセン(ノルウェー)が世界最高2時間21分6秒をマークし、記録は急激に進歩した。しかしワインホルトは勇気というシンプルな手法のみで、女子マラソンのソフト部分を進歩させたのではないか。7回大会で起きたことは、女子競技のあらゆる「象徴」として、今も忘れることができない。

女のくせに。差別の壁を破ったモタ

 ロザ・モタの笑顔を嫌いな人など1人もいないだろう。もっも苦しいといわれる35キロを越えても、沿道でファンが声をかけようものなら手を振る。笑顔で42キロを走り切ってしまうモタも、じつはボルトガルでは「性差別」に苦しめられたという。
 街へ練習に出れば、必ずとこからともなく小石が飛んでくる。窓から「女は家で皿を洗ってろ」そんな野次を浴びることもいつもだったと聞いた。それでも走り続けた。
「自由を手にしたかった。走る自由、好きなことに情熱を注ぐ自由……女は家で皿洗ってろ、なんてそんな人たちを見返す」と、モタは会えばいつも首をすくめて笑い飛ばしていた。
 '86年大会、彼女は東京の街路樹の間を駆け抜け、難しいといわれるこのコースで大会記録を一気に3分以上短縮してしまった。
 2年後のソウル五輪、モタは2代目の女子マラソン金メダリストとなり、母国の英雄となった。彼女が勝った相手は、先頭集団にいた選手だけでは決してなかったのだ。

記録の壁を破った2人の母親

 カトリン・ドーレは、モタの大会記録を翌年'87年大会で、あっさりと塗りかえてしまった。東京は世界的に見ても難しいコースと言われる。記録専門家の間では、「ループ(折り返しコース)」と、「ワンウェイコース(片道コース)」の記録は分けて考えられる。折り返しコースは往復の条件が激変する可能性があり対応が困難だからだ。
 ドーレはこれを克服して2時間25分24秒と、当時の女子マラソン歴代6位のとてつもない記録をたたき出した。世界最高を望む声は大きかったが、ワンウェイで男女混合が主流の海外レースとは、単に比較できない意味合いもあるようだ。ドーレは当時「このコースではランナーとして様々な技量と要素が試される。だから自分の強さを計るレースになる」と話していた。お嬢さんの写真をバッグに入れていたのを覚えている。
 バルセロナ五輪で有森裕子(リクルート)とマッチレースを展開したエゴロワ(ロシア)も、この記録に続く2時間26分40秒を'93年大会でマークしている。こちらも母親だった。帰ったら子供に会える、それがレース中の励みだと話していた。子供を置いて遠征に出るのは、いつまでたっても慣れることはできない、とも。
 クリスチャンセンがロンドンで世界最高をマークして以来、女子ランナーの競技力と出産の因果関係は長いこと科学者たちの研究テーマであった。ハンディとなるべき条件が、なぜ武器に変わってしまうのか。それは苦痛への忍耐力が上かるからだ、或いはメンタル面での好影響があるからだ、と様々な点が指摘される。東京でものべ9回、2人のほかにもマッコルガンら計5人の母親が優勝を果たしている。

新時代の壁を切り開いた日本女子

 佐々木七恵が日本女子として最初に大会を制した'83年、2時間40分を突破した日本選手はわずかに3人だけだった。
 欧州に独占されていた大会タイトルを、佐々木以来7年ぶりにアジアに奪い返したのは、中国の謝麗華だった。世界的には女性がスポーツで活躍する波はやはり欧米からのもので、マラソンにもそういった傾向は見られた。しかし、日本女子も豊富な練習量、勉強量、競争を柱に世界を追い続けた。東京世界陸上が行われた'91年、山下佐知子が銀メダルを獲得し、有森裕子は4位となった。この頃から日本女子マラソンのポジションは激変した。それからわずか3か月後のこの大会で、谷川真理が佐々木以来8年ぶりとなる日本選手優勝を果たした。コーチとともにコース中を走り、原稿を書く以前に疲れ切ってしまったのも懐かしい。市民ランナー出身の谷川の勝利は日本の底辺の厚さと実力をもっとも率直に表すものでもあった。日本女子は今年、4連覇を狙う。
 アトランタ五輪ではロバ(エチオピア)がアフリカ選手として初のマラソンメダルを手にし、今年4月にはロルーペ(ケニア)がクリスチャンセンの世界最高を13年ぶりに塗り替えた。今、アジア、アフリカ女子選手の黄金期が訪れている。
 東京女子マラソンは、世界のマラソンシーンを常にリードし、女子スポーツ界をリードし、もしかすると女性の時代そのものも映し出して来た鏡なのかもしれない。20回大会で参加者合計2364人。1人のたった一歩が、時代を変え、壁を破る原動力である。これから先も休むことなく。

(第20回東京国際女子マラソン記念大会公式プログラムより再録)

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