名将の条件。〜The Cult of the Manager〜

[ハンマー投げに懸ける人生]
室伏重信
Shigenobu Murofushi

「コーチとして、父として」


真筆に技術を探求し続け、39歳にして日本新記録を打ち立てたハンマー投けの“鉄人”室伏重信。
彼の息子、広治もまた父と同じ道に進み、いまや父を超える記録を樹立している。
スポーツの世界に“親子鷹”多しといえども、このような成功例は稀有である。
実の息子をコーチとして指導する……口にするのはたやすいが、これは我々が想像する以上に
困難な作業のはずだ。現役時代の知議・経験に裏打ちされた確固たる方法論に加え、指導者として
卓越した理論と資質を持っていなければできぬ業だろう。室伏重信はいかにしてこの難業を
成し遂げたのか。そしてこの先、彼ら師弟が進む未知の領域には何が待っているのだろう。

●むろふししげのぶ/中京大学体育学部教授。1945年10月2日、中国河北省唐山に生まれる。日大三島高時代にハンマー投げを始め、ミュンヘン、モントリオール、ロサンゼルスの各オリンピックに出場。最高はミュンヘンの8位。38歳の時、75m96mの日本記録をマーク。日本選手権12勝、アジア大会5連覇を達成。長男・広治はハンマー投げ、長女・由佳はハンマー、円盤投げの選手。著書に『その瞬間にかける』(原生林)。

静観とは見るだけではない。
何を、いつ言うのか、そのタイミングを待つ、
仮に、1年かかったとしても待ちます。
指導者として問われるべきは、私自身がいかに
適切な準備をし続けているかなのです。

 そこでは呼吸さえ、雑音であった。
 午後7時、陽はすでに落ちている。
 車2台がやっと通れる、深い雑木林を抜けると、ハンマー投げ専用のグラウンドに着く。
 照明は薄暗く、今にも切れそうな蛍光灯がまたたき、周囲の沼にいるカエルが低い声でうめく。それ以外は何ひとつ聞こえない静寂の中に、2人の男が立っていた。
 無言で。
 室伏広治は、水分を少しだけ口に含むと、2つのハンマーを左右にぶら下げ、大きな深呼吸をしてサークルに向かった。
 室伏重信は、サークルの真横に立つ。ハンマー投げの「動き」を正確に見るためのポイントはわずかに2か所だけだという。真横か、真後ろ。そうやってもう何万、いや何十万本もの投擲(とうてき)を見続けて来た。
 ハンマーがヒュッ、と鋭く空気を裂いて行く音とともにほんの一瞬だけ、同じ方角を見つめる。鉄球の行方を見届けると、今度は室伏重信がサークルの真後ろに向かってゆっくり歩き、広治は2投目のハンマーを手に持つ。
 2投目が終わる。広治は2つのハンマーを拾いにサークルを出る。室伏はそれを見つめながら、近寄る。
 しかし、見ているだけである。
 無言で。
 そこでは呼吸さえ、雑音だった。親子の絆を強調することは無用な前提であり、言葉は不用だった。
──彼に何も言わないのですか。
「ええ、必要がありません」
──本人も気が付かない点を発見し、指摘されるのではないのでしょうか。
「いえ、言う、ことではなく、見る、ことこそ指導者の役目なのです。思ったことを未消化のまま言うことはあってはならない。技術は、日によって、時間によって、ハンマーにおいては1本1本変わるのかもしれない。それくらい繊細なものの中で安定を築くのです。しっかり見極めねばならないのです」
 広治が4投目を拾いに行く。
 近寄る。一言かける。
「良くなっている」
 それだけである。
──指導とは、もっと積極的なものでは?
「静観することです」
──静観、とは何も言わないこと、と。
「静観とは見るだけではない。見て、チャンスを待つという意味です。仮に選手が間違った動きをしていても、それが後にどういう形で技術に効いてくるのか、これは瞬時にダメだと判断できないからです。何を、いつ言うのか、そのタイミングを待つ」
──では先生からは、話さない?
「たとえ、広治であっても、です。自分からハンマーの話をしたことは一度もない。一方、選手本人が何かを聞いて来た時には、すべてを答えてやらなくてはなりません」
──チャンスが来るまでは待たれると……。
「ええ、待ちます、仮に……」
 6投目を拾い、両手にハンマーを下げた広治が、サークルに戻ってくる。
「仮に、1年かかったとしても待ちます。指導者として問われるべきは、私自身が、いかに適切な準備をし続けているかなのです」
 中京大学教授にして、陸上の指導者。
 前日本記録保持者にして、五輪ベスト8。
 男子ハンマー投げ、女子円盤投げ2種目の日本記録保持者のコーチにして、彼らの父。
 室伏重信は、直径約2mのサークルの中で、自らの肉体と技だけを原動力として世界的にも卓抜した高速の4回転投法を完成させた。16ボンド=約7.2kgの鉄球をいかに遠くに飛ばすかを追求するためだけに、1961年、16歳から38年の年月を費やして来たのだ。
 同時に18年間も、個人種目の指導という一対一の真剣勝負を続けている。室伏の情熱とは、信念とは、一体何によるのか。
 練習開始からどのくらい経過しただろう。
「きょうは、広治の練習が終わるのも恐らく、10時を過ぎると思います」
 気が付くと、蛍光灯の1本は切れ、カエルはいつの間にか鳴き止んでいた。

 現場である競技場以外での取材を、室伏親子は嫌う。練習こそ勝負の場である。練習という日常で安易に言葉を発することは、メディアに対応することは、集中力を分散させる。また、話したことを相手がどう解釈するかで、親子がもっとも嫌う「過大評価」も生まれる。
 そのリスクを徹底的に排除する。
「この信念は、競技者として絶対に譲ってはならないのです。もちろん、男としても」
 これまで取材の中で、常に言われて来た言葉を思い出しながら、学生のために作られた新築の本格的なトレーニングルームを横切って、廊下の中ほどにある研究室に向かった。
「1人で何でもやるもんですから、助手もいらないんですよ。お茶を入れるのだって手馴れたものです。きょうの話は何でしたか……名将? 何ですか、私がですか? 考えたこともないですね。まあ、どうぞ」
 握手で迎え入れてもらった後、出された緑茶をすすり、周囲を見渡した。
 研究室の本棚には、陸上の本だけでなく、トレーニング理論や、サッカーなどの異種目に関する本も並ぶ。作業部屋には、ビデオデッキが3台。複雑に入り組んだコードの間に、何本ものテープが置かれている。
 室伏重信は、日本記録保持者である長男・広治、長女・由佳(4月に円盤投げ日本記録を樹立)だけの指導をしているのではない。中京大でゼミと講義を受け持ち、投擲部門に属する学生など40人もを指導している。投擲種目において日本記録保守者3人を出し、昨年のアジア大会(12月、バンコク)には、5人もの代表を送り込んでいる。
 現役引退からは13年が経過しようとしている。しかし、日本人の肉体にとってはそれこそ圧倒的に不利なはずの投擲競技において、ハンマースローワー・室伏の掲げた「理論」は引退で消滅するどころか、逆に輝きを増し続けている。そして昨年、広治が父の記録を塗り替える78m58cmの日本記録を樹立し、輝きはさらに、増した。
 机の上から、ごつい指が小冊子を抜き出した。4月に発表したばかりの論文である。
 タイトルは『投擲競技・競技力向上のしくみについて』──何の装飾もない、無骨なまでに簡素なタイトルに、むしろ指導者としての揺るぎない信念が現れている。本格的な指導に従事して18年、この仕事を室伏はどう定義して来たのであろう。
「土からじっくりと、器を作り上げる。絵画でも同じかもしれません。幾本もの線を真っ白なキャンバスに描き、デッサンをし、色を塗る。指導は私にとって、こうやって芸術品を作ることに等しいのです」
 ならば、いい「素材」に巡り合うこともまた、重要なテーマとなるはずだ。指導は、それが団体でも個人でも、素材を見極めることがもっとも重要な前提になる。
 そして、体力、体型、センス。この3点が見極めの材料であると、室伏は指摘する。
 第1の体力については、その選手が瞬発的な能力の持ち主なのか、あるいは持久系なのかの分類を、日ごろの動作、あるいは運動によって判断する。
 次に体型である。見た目の大きさではなく、ポイントは、「体幹」と言われる胴の部分である。まさに読んで字の通り、体の幹は、スポーツ選手のほとんどすべての基本的な運動能力を司る根源となる。手足が細く見えても、体幹ががっしりし、筋肉の量が多ければ、背筋、腹筋と後に鍛えて行くことが可能になる。体幹を使いこなすこと、これが記録向上のカギになる。
「力はあってないものである」──これが、投擲競技におけるいわば「室伏流」とでもいうべき逆転の発想である。
 また、少しの指導で体幹を使える選手もいる。すなわち第3の要素、センス、である。
「簡単に言うと、人間の体を臍(へそ)から動かして行くということです。難しいですが」
 ひとつのサンプルとして、広治には、すべての素質が備わっていたのだろうか。
 広治の体は中学3年の時点で、183cm、67kg。指導者としての見極めでは、とてもハンマーをやれる「体型」ではない、3つの要素は揃ってはいないと思ったという。
 しかし、「センス」は光っていた。成田高校2年の冬、新世界記録保持者で、室伏の友人でもあるリトビノフ(ロシア)が来日し、「広治には非常にセンスがある」と言われた。翌年には、世界記録保持者のセディフの住むフランスへ単身修行に出した。すぐに興奮した声で国際電話がかかってきた。
「絶対に親父を超えるぞ、と彼に言われました。彼らの予想通りになったわけです」
 この話の途中、広治が研究室をノックした。練習前にビデオを観るそうだ。
 いつものように、シャイな笑顔とともに差し出した握手に、力がこもっていた。
 目の前の広治に尋ねたいことは山のようにあった。しかし「高い位置を目指す競技者として、男として、絶対に譲ってはならない信念」と言われ続けた言葉が、頭をかすめる。
「広治は、おそらく、もつとも徽妙で、もっとも難しい時期にいるはずです。私たちにとっても今は、既知であり未知であり、その間を行ったり来たりしているのです。慎重にならざるを得ません」
 父から継いだ4回転投法でたたき出した78m57cmは、五輪、世界選手権においても入賞記録に相当する。もし80mに手が届くならば……それは、メダル圏内を意味する。ハンマー投げで、日本人がメダルを奪おうかというのだ。今は8月の世界陸上を目指し、高い階段に足をかけている。
「だから、一度の失敗も許されません」
 失敗は許されない……その一言に、ビデオを観る広治を残し部屋を出た。

「高い技術を追求する人間に、
精神は後からついてきます。
逆に、精神から入ったら、
競技者としての壁は越えられませんね」

 こんなシーンを見たことがある。
 国際大会で広治がまずまずの記録で上位に食い込んだ。生中継されており、試合終了と同時に、実況レポートが入った。室伏がレポーターに答え、感想を述べている。当然のことだが、室伏の「感想」は常に、難しい技術論であり、それが彼の誠実さなのである。
 そこへ、息子が通りかかる。
「息子さんに、何か言葉を……」
 ある期待、を込めた女性の高い声とは裏腹の、抑制の効いた声で、父は言った。
「回転の軸が定まっていなかった」
 こういう時に、父が息子にかける一言として周囲が期待しているのは、「回転軸」の話ではない。もっと甘いものである。
 このシーンは、室伏親子を象徴するものだ。
 スポーツ界における、いわゆる「親子鷹」と呼ばれる人々を多く取材してきたが、彼らは、どんなことがあっても「感情」に流されない。息子が日本記録を出しても、アジア大会で、日本人としては年ぶりに息子が金メダルを獲得したときでも、「技術」という厳しい現実だけを介在に、話をする。一般的な親子の絆や甘い答えなど、彼らからは望むべくもない。
 しかし、室伏の指導者としての明確な哲学はこの技術の追求一点に集約されており、そこが多くの指導者との違いでもある。
 指導の入り口では、人間性が先か、技術が先か、そんな前提がよく議論される。「礼儀あってこそ、技術が育つ」という者も多い。
 室伏は逆である。
「その流儀ではストレスが溜まってしようがない。こうやったら伸びる、という技術のヒントを教えるのが指導者であり、自分の器以上のものになってもらうことが前提です。その厳しさと向き合ってこそ、人間が育つ。高い技術を追求する人間に、精神は後からついてきます。逆に、精神から入ったら、競技者としでの壁は越えられませんね」
 この結論は、自身の苦い体験にもよる。
 メキシコ五輪選考会を前にした大スランプの際に、先輩たちの練習をヒントに、雪の中、1日8時間もかけて300本を投げ込んだこともある。体力的にも、スクワットで255kgと重量挙げの選手と変わらぬ力があった。しかし練習量と体だけでは、記録は伸びない。大スランプ脱出のきっかけは、残るひとつの要因「技術」にあった。8ミリフィルムを使った技術分析を始め、体にしみこんだ従来の投げ方を、体が忘れるまで投げなかったという。
 そういう競技者である。指導者となっても、決して言葉や精神の力に頼ろうとはしなかった。
「同じ競技をし、日本記録を持ち、指導者でもある。しかし、父の存在を疎ましいと思ったことなどただの一度もなかったのです。自分から聞く以外、あれこれ言われたこともありません。今では、指摘されることどれもにも納得できます」
 息子はそう言う。
 父は、子供に嫌われるようなことがない平均的な親だったと自己採点をする。子供の頃、体を動かして暴れまわっていた息子を叱りつけた以外、親子喧嘩はしたことがない。どこにでもいる父親と同じに、名付けにも凝った、と父は小さく笑った。広く治める、という意味、そして海外でも呼びやすい名前になるだろう、と広治とつけた。
 名は、体を十分表わしたようだ。
「由佳は女の子ですから、当然ながら父親としては息子への厳しさとは多少違います。でも2人とも、夢中になれるものを見つけてくれた。本当に何でも良かったし、私は手伝っただけです。運動能力は高いから広治が3人くらいいればね、野球にテニスに、といろいろやらせて面白かったかもしれませんが。ただハンマーなら、私が日本記録を投げた38歳まで、まだ10年以上も投げられるはずです。短命な競技でなくて良かった」
 不思議なのは、まるで職人の道を生き抜く、師匠と弟子のような関係に見えながら、実際には鉄球をいかに遠くに飛ばすかを、まるで謎解きでもするかのようにアイディアをぶつけ合い、楽しんでいる、親友同士にも見えることである。「ハンマーは楽しいことが多い。一度やってみるといいですよ」と、まったく同じことを、別々に言われた。
“楽しむ”とは、真剣勝負の中にしか生まれ得ない。芸術家と、煌(きら)めく素材の関係も、これに似ているのかもしれない。
 昨年、自分が1984年にマークした日本記録を、広治が塗り替えた。その瞬間の心境は、うれしかったのか、あるいは、競技者として、父として、男として、さまざまな意味で、寂しかったのだろうか。どちらでもなかった。
「感動でした。投擲にタレントを見つけにくい日本で、もちろん広治さえ、あと20kgくらいは体重も足りないんですが、それでも、世界クラスで戦える素材、勝負を挑む素材に巡り会えたんだという確信が持てた。同時に自分は指導者として何と幸せ者なのだろうか、と。心から感動できました」
 意外だが、親子3人の間では、まだシドニー五輪の話は出ていない。まだ早い、それがコーチとしての判断である。
 微妙なズレが必ず生じる繊細な技術探求の中で、今は、ワンランク上の「安定」を求めている段階である。例えば広治の一昨年は、年次の自己最高は76m台で最低が71m台。昨年は最高が78m台で、最低は73m台。幅は5mで最低ラインが着実に上がっている。もし今季の最低を75m程度に設定できるならば、最高、つまり80mの大台も計算圏内に自然と見えてくるはずだ。
 指導者は美術品を作る芸術家にも似ている、と最初に聞いた。では、いつ、完成、と判断できるのだろう。広治は、すでに完成した美術品ではないのか。しかし、室伏は、不動の境地までは完成とは言えないのだ、と首を振った。
 彼自身26年にも及ぶ現役生活の最後に、一度だけ「不動の技術」を感じたことがある。
「これが不動、というものか、と強く感じました。迷いもなければ、妙な意識もない。本当にスーッと引き込まれるように自然に回転できた。あの境地を選手が感じられれば、その時が、指導の終わりかもしれません」
 少年時代は相撲の世界を目指し、偶然からハンマーに魅せられ、日本記録を作り、今、息子と娘が投擲を続ける。息子は自分の記録を塗り替え、さらに上へ、上へと駆け上がって行こうとしている。
 あの薄暗い、冷たい風が吹くハンマー場で、あと何年指導を続けるのだろう。
 ふと息をついた。
「寒いんですよ、冬はね。精紳的にもきつい。頭の血管が切れそうになりますよ」
 ジョークではない。本当に、それほどの忍耐と集中力を要するということなのだ。
 あと6年、60歳までが、最後の勝負になるのだと言った。

 帰り際、振り返り、暗闇に浮かぶ美術品を遠くから眺めてみた。その時、逆三角形の「美術品」が、ペコリと頭を下げて叫んだ。
「ありがとうございました。気をつけて帰ってください。暗いし、遠いですから!」
 高い技術が人間をも育てる。名将は、その信念を、息子を通して完璧な形に仕上げつつある。
 2人の握手の感触が蘇った。
 相手の手に確実に込める力加減も、ハンマーのせいでゴツゴツした堅い指も、まさしく同じものだった。
 分厚く、温かみのある手の感触までも、まさしく親子のものだった。

●むろふしこうじ/1974年10月8日、静岡県沼津市で、ハンマー投げ日本記録保持者の父・重信とルーマニアのやり投げ選手だった母の間に生まれる。走り幅跳び、三種競技などを経て、成田高校入学後にハンマー投げを始める。'98年4月、群馬リレーカーニバルで父の記録を超える76m65cmの日本新記録を樹立。その後も記録を伸ばし、現在は78m57cm。'98年バンコク・アジア大会で金メダルを獲得。ミズノ所属。187cm、90kg。

Number 472 より再録)

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