白幡圭史


 「よーっしゃ!」
小さく漏らした言葉とともに、白幡圭史(コクド)は珍しく自分に拍手を送った。たった3回だけ。そしてその直後は、ひざに両手を置いたまま、第三コーナーで待っていた黒岩彰コーチが声をかけても、顔を上げることさえできなかった。
  「白幡よくやったな、がんばった」
 そのちょうど対角線のリンク上では、同窓したリツマ(オランダ)が、オレンジ色の服、カツラに身を包んだ熱狂的サポーターの前で、両手でガッツポーズを繰り帰している。わずか10分前、かつての僚友フルトカンプ(ベルギー)がマークしたばかりの世界記録(6分28秒31)は、肉体と、「魔法のくつ」スラップスケート、そしてもうひとつ、ほんの指先ばかりのシリコンで空気抵抗を最小限にする「魔法のテープ」ストライプスによって塗り替えられ、エムウエーブは「魔法のリンク」に変わった。普段はもの静かなリツマが競技中にもかかわらずリンクサイドのカメラに突進し、「オランダのみなさん、力をくれてありがとう」と、絶叫した。
 長野五輪競技2日前のエムウエーブは、異常な熱気、文字通りの「熱」が漂い、まるで魔法がかけられたようだった。室温はレーススタート時で12・8度。エムウエーブとしてはかなり高い。つめかけた観客は約1万人。気温上昇は観客の人数、熱気によって大きく変わる。日本人は、恐らく白幡がメダル第一号獲得者となる瞬間を見ようと、そしてオランダ人サポーターは、国技といわれるスケート、それも特に長距離に威信と意地をかけて、自らのヒーローたちをブラスバンドを引っ張り出して後押しした。
 人々の熱い息と声が、エムウエーブの室温を上昇させていたのだ。
 メダルはならなかったが、エムウエーブでの自己記録で7位となった白幡には、しかし別の勲章がある。
 ラップタイム、である。
 白幡が長野入りしてから、ひとつの「公約」を揚げてくれた。
 「自分の体内時計は絶対に狂わせない。ラップタイムはすべて1秒以内に収めてみせますから」
 世界記録をたたき出した3人を含む入賞者のラップタイム(400メートルごとの通過タイム)を見ると、公約が果たされたことがわかる。もっとも速い400メートルのラップと、もっとも遅いラップの差。つまりその選手が一体何秒以内にラップを収めたのか、スケート長距離選手の本当の実力なのだ、と言われる。一定の速度、それも0コンマ1秒単位でスピードを調整することのできる能力が、長距離選手の優劣を計るものであり、ほんの一握りのトップ選手の間ではこれを「1秒以内」にまとめると、敬意を込めて「マシン」と呼ばれる。白幡はこの日、すべてのラップを1秒01以内にまとめた。例えばトップのロメ(オランダ)は1秒78で、世界記録を出したメダリストよりも正確にラップを刻んだことがわかる。日本が世界に誇る精密機械は、セイコーだけではない。自らにした拍手の理由はここにあった。
 「ラスト3周は、ラップをわざと上げました。オレのスケートをしてみせる、こうした気持ちを込めることは機械にはできませんね。
根性、でしたから」
 7位に手応えあり、と胸を張った会見の後、白幡は笑った。
 「魔法」はリツマの世界記録からわずか20分後、再びリンクを包み込んだ。世界記録保持者ロメが、自らの記録を8秒も短縮する分22秒20秒をマークしたからだ。ロメは「2,3秒は更新するつもりだったが、まさか…手品のようだ」と、興奮を隠さなかった。
 「実はね、前日ロメに会ったんですよ。オイ、何秒で走るのかい?、って聞いたら、アイツ、うーんわかんないよ、なんて。じゃあ6分22か23秒かい、なんてからかったんです。そしたら、お前は(白幡)クレージーか!てドツカれたんです。お前こそ、クレージーじゃないか、って、さっき言って来ましたけどね」
 世界記録の余韻を白幡も楽しんでいるようだった。
 リツマは言う。
 「もしぼくがシラハタのような肉体(168センチ)なら、長距離はやらなかったよ」
 大会中、白幡に届いたファンメールは、スケート王国オランダからのものだった。それにはこう書いてあった。
 「偉大なるスケーター、シラハタさんへ。あなたの世界一精密なスケートに、我々は敬意を表し、ここにファンメールを送ります」

Number 438より再録)

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