The Goddesses of Olympic Games
女神たちのメダル

中田久美
(ロサンゼルスオリンピック バレーボール・女子銅メダリスト)


●なかだくみ/第23回ロサンゼルスオリンピック銅メダリスト。1965年9月3日東京生まれ。'79年故山田重雄氏に見込まれ「山田バレー塾」入塾。史上最年少の15歳で全日本入り。'81年日立入社、日本リーグ新人王受賞。天才セッターの名をほしいままにする。'86年右膝じん帯損傷。'89年ワールドカップベストセッター賞受賞。'92年引退まで3連続オリンピック出場。'96年日立ベルフィーユアシスタントコーチ就任。'97年からフリーとしてテレビ解説や講演活動のほかモデル業も務める。

「年表」どおりの五輪

 オリンピックは、私にとって夢というものではありませんでした。
 結局3回、そう、ロス('84年、18歳)からソウル、バルセロナと3回も出たんですよ、オリンピックに。4年間って、周りが思うような、そんなに簡単な時間ではないんですね。ひとつ終わるとね、ああ遠いな、次はどうやったらそこまで行けるか、と思うくらい本当に長く、苦しい時間でした。
 ロス五輪では、1日4部練習(4回の練習)をしていたんです。まず6時半から練習をし、朝食をとって今度は9時から、昼食をはさんで今度は午後練習をし、最後は夜の練習。現地に入ってから練習を落として調整をして……、というのとはまるで違っていました。
 とにかく4回の練習を淡々とこなしていたんで、それは先生(故山田重雄氏)の考えでもあった、と思うのですが、雑音が全く入りませんでしたね。ここは日立の体育館で、と言われても全く違和感がないくらい、本当に練習だけに没頭していたので、あとで思っても、緊張とかプレッシャーとか、感じないでいられたんですね。そのくらいハードでした。オリンピックを楽しむとか、バレーが楽しいとか、思ったこともありません。そういうものではなかった。
 この銅メダルを胸にかけてもらった時のことは覚えています。ああ重いんだな、とか、うれしいな、とか全然思わなかった。あ、こんなものだったのか、ってそういう感覚だけ覚えています。ただ表彰台の上は良かったですね。
 思えば、バレーを深く知ってキャリアを積んで迎えたはずのバルセロナ五輪が、一番恐怖感がありました。慣れる、ということで言うのなら逆で、最後が一番怖かった。自分の置かれた立場も変わっていたからでしょうね。100%の力を出しても勝てない場所が、オリンピックだということをわかっていたんで、それが怖かった。
 でも、メダルの存在なんて本当はあまり重要なものではなかったのかもしれません。こうやって今、手元に残っているからお見せできるんですが、それでもこれを見て思うのは、結果じゃなくてそこに至ったプロセスのほうです。もちろん、結果を手に入れようとやっていたんですが、今、極端な話、メダルは手元からなくなっても構わない。でも、そこまでの道のりに、深い思い入れがあります。
 私にとって、バレーボールでオリンピックに行くことは、夢ではありませんでした。人生の年表にあらかじめ書き込まれた……必ず通り過ぎなくてはいけない義務でもあったんです。

 年表に書き込まれていた五輪──目の前にいる中田久美がふともらした言葉に、彼女が「バレーボールの天才少女」と呼ばれていた、はるか昔のことを思い出す。
 中学2年の頃、当時女子バレーボールのエリート育成を目的に、人材発掘を行なっていた山田重雄氏(当時日立)にその才能を見出された。中学に入ってから始めたというキャリア自体、テストを受けに来ていた900人もの生徒の中でも最も浅く、しかもアタッカーだった。
 しかし、全日本を目指すために選抜されたポジションは、チームの「頭脳」ともいえるセッターのポジションである。
「驚きました。セッター? 何それ、って感じだったのです。なにしろ900人もいたのですから。選ばれることなんて考えもしなかった。先生があとで言うには、目が違ったそうです」
 当時を思い出したのか、懐かしそうに笑った。
 負けん気、意思の強さ、そして純粋さ。山田氏が900人の中から賭けた「目」は、間違いではなかった。最初に連れて行かれた監督室に、年表が置いてあり、そこには、「中田久美」と書かれていた。不思議そうに見つめていると、監督が切り出す。
「今、おまえは14歳だが、ここ、16歳で全日本のセッターに入る。それでこの18歳のところで最初の五輪だ。次は……」
 年表は隙間もないくらい、ぴっしり書き込まれていた。
「全日本に入ることも、五輪に出ることも、みんなもう『予定』に入っていたんです。夢とかそういうものではなかったんです。あの時からずっと……」
 年表どおり、極めて順調に「天才少女」は時代を刻んだ。16歳になる少し前に全日本に入り、初めてのロス五輪でメダルを獲得し帰国する。すぐにソウル五輪を目指して練習が始まった。しかし、選手生命にかかわる事態が起きる。
 ひざの十字じん帯損傷で、全治4か月の重傷を追う。当時は30センチ近くもメスを入れなくてはならず、リハビリも時間を要した。勢いと、天性のカンや能力で一度は頂点に上った少女の周囲に、「引退」の文字がちらついた。何とかコートに立ったものの、とても以前のような練習をこなせる状態ではなかった。
「おまえなんて、二束三文のセッターじゃないか。安売りしてやる、一山いくらでもってけ!!」
 山田監督の言葉は激しさを増し、それにいつものようにプレーで「反抗」できない自分に腹が立った。
 合宿所を飛び出した。荷物も持たないで。山田監督は引きとめには来なかったが、冷静になると、怖かったのは監督のことではなく、「4年の月日を逃がすこと」のほうだった。
 それからは、ただがむしゃらにやっていただけの競技に、少しずつ違った面が見えてきたという。ゲームの流れ、勝負カン、これらがわかるようになった。
 あの頃は、体育館でよくこんな練習が行なわれていた。
 矢のように降るボールをレシーブし、ネット下の山田氏のもとヘダッシュする。監督が示す指のわずかな動きに村して、息さえできないような状態でも、中田は数字とアルファベットのサインを繰り返す。当時監督から、中田は300種類のフォーメーションを暗記している、と聞かされた。どんなに頭に血が上っていても、疲れていても、彼女はそれを間違わない、と。
「あの怪我ですべてが変わった。ひざは最後まで万全にはなりませんでした。結局2つの五輪でもメダルは取れませんでしたが、それでも、後悔はありません」

 中田はメダリストの肩書きすべてを「ご破算」に戻して、モデルという仕事に挑戦している。趣味程度なのかと見ていたが、そうではなかった。現役時代よりも痩せ、さらに徹底した体重管理、歩き方、服の見せ方を一から学んでいる。年齢からいっても、楽な選択ではない。昨年はエルメスのショーにも出た。
 インタビューの途中、同行してくれた関係者が言った。
「本当にすべてにベストを尽くすんですね。あの年齢で、あんなに自分を追い込むモデルさん、そうはいないでしょうね。ちょっとは楽をすればいいのに……」
 14歳から親元を離れて3回の五輪に出場し、大手術に耐え、300のフォーメーションを覚えていた人に、それは、無理な注文かもしれない。

(婦人公論・'99.5.7号より再録)

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