The Goddesses of Olympic Games
女神たちのメダル

伊東 恵
(ソウルオリンピック水泳シンクロ・デュエット日本代表)


●いとうめぐみ/第24回ソウルオリンピック日本代表。1966年3月6日東京生まれ。5歳で水泳を始め、小学校2年の時、当時活碓していたも“藤原姉妹”の演技に憧れてシンクロを始める。'85年、'86年日本選手稚デュエット優勝、'86年世界選手権デュエット銅メダル。'88年青山学院大学卒業。同年のソウルオリンピックを最後に引退。現在はシュノーケリング、エアロビクスなどのスポーツを楽しむかたわら、コンピュータグラフィックデザイナーを目指し勉強中。

メダルを手にできなかったメダリスト

「エッ、今、何と……」
 伊東恵は、コーチからかけられた言葉に思わず振り向き、聞き直したという。
「メグ、思いきり楽しんできて!」
 何気ない、ただの励ましに大きなショックを受けた。
 ソウル五輪を控えた1987年11月から約5か月間、伊東は、カナダのカルガリーにある名門クラブに単身留学をした。帰国前に出場した試合で、カナダ人のコーチは、伊東が演技のためにまさにプールに出ようとした瞬間、笑顔で「楽しんで来て」と肩をたたいてくれた。
 8歳でシンクロナイズドスイミングを始めて以来、初めて聞いた言葉だった。
「英語でしたが、本当にエッ、と驚きました。なぜなら、日本では楽しむなどという言葉を聞いたことがなかったのです。演技に出る瞬間まで、ここと、あそこに注意して、間違えちゃだめよ、と。ですから、あの一言で、身も心も本当に軽くなり救われたことを覚えています」
 今は、選手自身が「楽しみたい」と公言する時代だが、10年前の日本のスポーツ界では、そんな言葉は日常のものではなかった。
 コーチにしてみれば親心である。しかし、コーチの言う通りに、コーチの要求にできるだけ応えよう、そう思って懸命に練習を積むうちに、選手の肉体、精神が追い込まれることもある。シンクロは当時、女子種目の目新しさと華やかさから注目されていた。しかもメダルだけを期待された中で彼女たちが背負っていたものは、水中でさえ軽くなるようなものではなかったのだろう。
 留学中、カルガリーの街で黒地にえんじ色の模様が入ったシンプルな水着を購入し、小指の先ほどの小さなスパンコールを、何百個も手製で水着に縫い付けた。ひとつ、ひとつ、まるで自分の心を紡ぐように。
「この留学がなかったらどうなっていたかわかりません。辛いこと、気持ちの変化、楽しもうと演技したこと、すべてが詰まっています。シンクロをしていた自分にとっては一番大切な水着です」
 メダルよりも? 伊東は笑った。
「ええ、メダルよりもずっと」
 3人で臨んだソウル五輪、デュエットで補欠になった伊東は、銅メダルを手にすることはなかった。
「メダルを手にできなかったメダリスト」である。

 ソウル五輪では小谷実可子−田中京のデュエットが、ソロでは小谷と、シンクロチームは合計3つの銅メダルを獲得した。現地での記者会見で、補欠だった伊東も間違いなく銅メダルを首からかけていた。会見での写真も残っている。
 しかしそれは、「借り物」だった。
「補欠にもメダルがもらえるが、今はなくてあとになる。だから今は、実可子の(2つの鋼メダルのうち1つを)を借りて会見に出ましょう、となったんです。もちろんみなさん、何もないのはかわいそうだと思ってくださったのですから……けれども、正直に辛い思いもしました」
 親心が、あとに、小さな、しかし長く続く痛みを伊東に負わせた。
 例えば、バレーボールや野球などの団体競技では、補欠にもメダルが授与される。これは「ベンチ入りメンバーに登録された=出場のチャンスがあった」という実演に対してのものだという。
 伊東は、デュエットの自由演技予選には出場せず、規定(自由と規定の成績で自由演技決勝ペアを決める)には出場したが、日本人で小谷、田中に続き3番手。
「規定上位2人でペアを組む」というチームの方針から補欠に回る。
「シンクロの補欠には、メダルは授与しない」──IOC(国際オリンピック委員会)とFINA(国際水泳連盟)の規定が判明したのは少し経ってからだ。
 帰国後は、会見や報道を見た人々から、メダルを見せてください、メダルはどこにあるんですかと聞かれ、事情を説明するたぴに胸がチクリと痛んだ。そういう経験への反動なのか、以来、職場でも友人との会話でも、「シンクロで五輪に出
た」と、口にすることは一度もなかった。
 しかし、8歳から始めたシンクロで何よりも大切だったのは、ソウル五輪に出たことでも、メダルの有無でもない。勝利だけにこだわったのではなく、青山学院大の授業も欠席はしなかった。好きで続けた競技と、困難を乗り越えたプロセス、これらの密度は、メダルを実際に手にしようとしまいと、関係がなかった。
 シンクロは華やかさとは裏腹の、過酷な競技である。水中では水鳥のように、足を絶えず動かしながら水をかく「まき足」を続け、2分近く息を止める。何よりも、激しい運動を繰り返しながらも、浮力を保つための体脂肪を減らしてはいけない。ダイエットの逆。彼女たちは、何も口にできないほど疲労しながら、半ば泣きながら食事をする。
 小谷とのデュエットで優勝したパンパシフィック大会('85年、ハワイ)以後、そんな食生活や責任感、勝利へのストレスが絡み合って、拒食的な症状にも見舞われた。幸い軽いもので数か月間で復帰したが、その後は以前には出ていたはずの得点も、プランクゆえに抑えられてしまう。予選前の気分転換に、と留学したカナダで、気持ちを立て直した。
「雪に埋もれたロッキー山脈をドライブすると、大自然の雄大さに、私は何をちっぼけなことで悩んでいるんだと考えました。ここがダメ、あれが足りないというのではなく、ここは良かったんだから、そこを磨けばもつと良くなる、そう思うようになりました」
 五輪選考会は2位で通過。あとは五輪のためでなく、競技の集大成のために、猛練習さえ楽しめた。五輪本番はスタンドからプールを眺めていた。3人で練習したデュエットの振り付けが、音楽に合わせながら自然と出てしまったことだけを覚えている。2人のメダル獲得は、素直に喜ぶことができた。

 メダルを手にできなかったことで、伊東はさまざまな思いを封印しなくてはならなかった。大好きな競技を選んだのに、引退してもなお、苦痛も背負うような矛盾も、簡単に整理がつくものではない。決してうれしくはないだろうこの取材に応じてくれたあと、丁寧な手紙を受け取った。
「当時の思いをこうやってお話しできて、何だか肩の荷が降りた気がします。銅メダルを手にできなかったことは、神様が私を選んで与えて下さった、もっと大切なメダルだったのかもしれません。これからももっと明るくいけそうです」
 最近、海でのシュノーケリングが楽しくて仕方ないという。あまりに見事な潜りと泳ぎに、伊東の「正体」を知らない人々が、あ然としたまま聞いてくる。
「昔なにかやってたんですか」
 伊東はシンクロを、という言葉の代わりに、茶目っ気たっぷりに笑い返す。
「いいえ、特別には何も……」
 そして、浮力十分の海面で、青空に向かって、スッと足を上げて見せる。

(婦人公論・'99.4.22号より再録)

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