The Goddesses of Olympic Games
女神たちのメダル

小野清子
(東京オリンピック 体操女子団体総合銅メタリスト)


●おのきよこ/第18回東京オリンピック銅メダリスト。1936年2月4日生まれ。秋田県出身。病弱だったことから体操を始める。'58年東京教育大(現・筑波大)卒業後、慶應義塾大学体育研究所勤務。'60年ローマオリンピック出場。引退後は文部省中央教育審議会委員などを務め、スポーツを通じた青少年の健全な育成を目指す。中曽根首相(当時)に請われ参院選出馬、'86年初当選。現在は(財)日本オリンピック委員会評議委員、自民党都連・女性部長などを兼任。小野喬氏との間に2男3女がある。

35年目のママさんメダリスト

 クッションの中では、優しそうなお母さんが赤ちゃんを抱き、隣では、女の子が、2人に何かを語りかけている。
 自らデザインした絵柄に繊細な刺繍。披露してもらった手製のクッションには、第2子を妊娠していた小野清子の生活、夢、平凡な、しかし幸せな日々を願う気持ちまでが、一緒に縫い込まれているかのようだ。
 女子体操界のエースは、「鬼に金棒、小野に鉄棒」と言われた鉄棒の名手、小野喬氏と結婚する。1961年に長女を出産。そのわずか4か月後の10月、秋田国体に出場するという「ウルトラC」をやってのける。
 その勢いのまま、'62年にはプラハ世界選手権にまで出場。しかしその後、第2子の妊娠が判明する。体操もこれでやっと辞められる、と、肩の荷が降りた。第一線からの引退を決心したのと同じ頃、このクッションに針を刺し始めた。
「妊婦って意外と時間がありますからね。長女がお腹にいる時にはクロスステッチをしましてね。こういう刺繍は、1か所失敗すると、すべて糸を抜いてやり直しをしなくてはならないんですよ。とても根気がいる。ですから2番目がお腹にいる時には、我が心の精神修養、というわけで刺繍に挑戦したのです」
 元々の根気と器用さはさらに磨かれ、十分な精神修養になったようだ。そして1963年夏、長男が誕生し、まさに、クッションに描いたような一男一女の幸せな家庭が築かれた。
 ただし、クッションにはデザインできなかった、予想し得ないことが起きた。引退するはずが、幼い2児を抱え、東京五輪に出場することになったのだ。
「本当に今思うと無茶苦茶です。当時、その大変さが前もってわかっていればねえ……2児の母親がオリンピックなんて、冗談はやめてよ、となるでしょうね」
 昔のことを思い出すと、しんみりするどころか大声で笑い出してしまう。
 そのくらい大変な経験だった、そういうことだ。
 ママさん選手──おそらくそんな表現さえ浸透していなかった35年も前に、小野は2児を抱えて、銅メダルを手にした。「嵐の前の静けさ」を思い出させてくれるクッションは、孫たちのいたずらから逃れるために今も大切にしまってある。

 東京五輪前年の'63年夏、長男が優生した時、長女はまだ2つ。日本で開かれる五輪、ローマ五輪を経験した後の4年間で選手として円熟期に入ったこと、これらを理由に出産直後の小野に復帰の説得が盛んにされた。引退を決意したはずが、気持ちは揺れた。
 挑戦してみようとは思ったが、簡単なものではなかった。
 たとえ長男を預けても、長女は連れて出なくてはならない。かばんには、練習用具のほかに哺乳びんを入れ、ミルク、オムツを詰める。背中に子供を背負って練習に行かなくてはならない時もある。
 練習中も、平均台から落ちると、退屈で母親のそばに来ていた子供の上に危うく乗ってしまいそうなこともあった。跳馬の助走を始めると、子供が隣を一緒に全力疾走し出す。競技者としての練習に没頭するのは難しい。子供は泣き出す。
 五輪を前に1次、2次と行なわれていた選考会でも、散々だった。最終選考を前にした2次で、平均台から落ち、段違い平行棒でも落下。補欠にも入れない9位にいた。
「なんでこんなことをしているの、子供たちを泣かせてまで、一体何のために? ってね、もうパニック状態です。辞めようと思いましたよ、それは何度も」
 子供が泣き、母も泣く。とても競技どころではない。もう体操なんて……、そんな苛立ちを傍らの夫・喬さんにぶつける。ヘルシンキからすでに3度の五輪を経験していた「鉄棒の神様」喬さんは、妻を励まそうとも、五輪の素晴らしさを説こうともしない。代わりに妻のほうは見ずに、全然違うほうを向きながら、ボソッとこんな言葉をつぶやく。
「そうか、確かに大変だもんな。でも、子供が泣くのが辛いからって辞めるのはねえ、子供はそのうち泣かなくなるんだし、せっかくやり始めたのに」
 小野は振りかえる。
「男の人って、女とはちょっと違った思考回路なのかしらね。なにか、ボソッとこう言われるとね、反論もできないし力が抜けるというか。主人とは、お互いが邪魔にならないことが一番の愛情、と話してました。ああいう何気ない言葉でやってこられたのかもしれない」
 娘さんには後に、「ママはオリンピックで子育てどころじやなかったんでしょう」と冗談めかして言われることがあったという。哺乳びんとオムツをかばんに詰めて、背中に赤ん坊を背負い練習に通った毎日。「証拠写真」を撮っておかなかったことが悔やまれて悔やまれて仕方ないのだと、笑い出した。
 日常のすべてを練習にした。街灯をバックにいかに美しいシルエットを出すかを考え、町を歩きながら平均台のイメージトレーニングをする。開き直って挑戦した最終選考会、3種目終わったところで6位に滑り込んだ。
 当時浸透していなかった表現は、「ママさん選手」という言葉だけではない。
 '50年代、海外遠征をした当時には、「ハングリー、そんな言葉さえも使われていなかった。何しろ、すべてが足りない、それが普通のことだったのだから。'58年にモスクワで行なわれた世界選手権も、帰りは「ハンガリー動乱」の影響で遠征が中断される。何とかシベリア鉄道を乗り継ぎ2日かけて、ナホトカまでたどりつく。そこから日本まで送り届けてくれたのは、なんと日本の海洋調査船だった。
 スポーツ指導者の中には、経験主義だけで若い選手を「ハングリーさがない」などと批判し、環境整備をないがしろにする傾向さえある。
 小野は経験から正反対の考えを持っている。
 選手たちの環境を整え、単なる経験主義ではなく科学的な指導を重視する。
「おチビちゃんたちこそ宝物」という幼児指導に、優秀な指導者の養成を組織立てた。各省、関係者に働きかけ、学校中心から、地域祉会に核を持つクラブ組織作りを実践した。
 35年前、一緒に銅メダルを獲得したママさん選手・池田敬子とともに、メダルを獲得できるような母親が一人でも増えることを願う。願うだけではなく、これを実現しようと、議員バッジを外した今も環境整備のために、走り続ける。
 東京五輪から35年が経過したが、ママさんメダリストは以来1人もいない。

 アジア大会では、日本からの応援の少ない種目を積極的に選んで、日の丸を抱えて行く。たとえ1人でも大声を張り上げて応援をする。
「たった1人だって観てくれる人がいれば、選手にとってそれは大きな励みになる。だから辞められないの」
 スポーツウーマンたちの、熱烈にして史上最強のサポーターでもある。

(婦人公論・'99.4.7号より再録)

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