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					 The Goddesses of Olympic Games 
					女神たちのメダル 
					
						生沼スミエ 
						(メキシコ・ミュンヘンオリンピック バレーボール女子銀メダリスト) 
						
						  
						
					
					●おいぬますみえ/第19回メキシコ・第20回ミュンヘンオリンピック銀メダリスト。1946年10月8日東京生まれ。10歳で父を亡くす。中学でバレーを始めセッターとして活躍。山田重雄氏に見込まれ都立三鷹高へ。'65年日立武蔵入社。'66年世界選手権優勝。'72年半身不随の母を支えての現役生活にピリオドを打つ。その後「日立バレーボール教室」の主任指導員として'78年まで全国を巡回指導。'82年第9回アジア大会で日本初の女性監督就任。同年母を亡くす。現在も日本中を飛び回る毎日。 
					終わらないオリンピック 
					「いろいろと考えたのですが……」 
					 生沼スミエはそう言いながら、しなやかな指の隙間に小さな金メダルの鎖をかけた。背筋は、今も変わらずスッと伸びている。 
					 手にかざした金メダルは、小さなコイン形のネックレス。メキシコ五輪の前年、プレ五輪で優勝した際、ショッピングに出かけた街中で買ったものだという。今ではいくらで購入したかも、どんな店で買ったのかも、もう覚えてはいない。 
					 覚えているのは、自分への最初のご褒美のつもりで買った、その気持ちである。 
					「鬼の大松」こと大松博文監督率いる「東洋の魔女」が1964年東京五輪で金メダルを獲得した後、日本女子バレーは世界をリードするようになる。その地位を守るかのように、生沼ら五輪代表候補たちは、メキシコ、ミュンヘンとも、五輪本番への前哨戦ともいえるプレ五輪では優勝を果たしている。 
					 前哨戦の勝利は、気持ちにどこか緩みを生んでしまったのかもしれない。 
					「ええそうですね。この金のコインを見るたびに、ああこの時、勝ってご褒美なんて思ってしまったのがいけなかったのかな、結局は手にできなかった金メダルと引きかえだったのかなという思いが湧いてくるのです。勝ってはいけなかったのかもしれませんね」 
					 海外で購入した思い出の品は、しかし、切なくちょっとほろ苦い記憶も同時に思い出させるようだ。 
					 本物の銀メダルのほうは、家の中を整理した際、寄付してしまった。1人でも多くの子供たちや、スポーツファンに実際に触ってもらいたい、首から下げてその重みを実感し、メダルを手垢まみれにしてもらっていい、それが寄付の条件だった。 
					──1人でも多くの人にバレーボールを触ってもらい、楽しんで欲しい── 
					   ◇ 
					 ハンドマイクは使わないのです、と生沼はよく通る声で笑い出した。「生沼バレーボール教室」では、何か特別なことをされているのですか、と聞くと、紹介をされた時、まずは大きな声で挨拶をし、自分も懸命に声を張りり上げ、そういう中で生徒たちと打ち解ける、それが唯一のモットー、だと話す。 
					 もっともその紹介も、最近はカクッと力が抜けて、苦笑してしまうようなことも起きるようになったそうだ。 
					「はい、きょうは、バレーボール選手で元オリンピックの銀メダリスト、イキマさんに、いえ、ナマヌマさんに来ていただきました」 
					 これまでに、バレー教室を開くためにすでに2000をはるかに超える地方都市を訪問してきた。1972年のミュンヘン五輪を終えて引退して以来、すでに25年余りになる。2つの銀メダルを獲得するまでの日々よりも長くなった。 
					 スポーツ関係団体の主催とはいえ、「オイヌマ・スミエ」を知らない若い人たちも増えた。 
					「気分が悪くなるどころか、名前を間違えられてもかえって新鮮で……楽しいですよ。自分を知らないんだったら、なおのこと、どうやったらバレーボールを楽しんでいただけるかって必死になって考えますものね。北は北海道から南は沖縄、あと行っていないところといえば、礼文とか、利尻などの島でしょうか。今でも年に何十回も教室を開くんです。雪に埋もれた北海道では、もう1チームも作れないほど、子どもの数が少なくなってしまった村もあります。雪の中をPTAのみなさんの車で巡回しながら、隣町まで遠征してメンバーを集めていただいたり、いつでも楽しく、また温かな出会いに感動がある。こんな幸せな人、ほかにいないんじゃないかっで、最近思うんです」 
					 ママさんバレーの指導員になったきっかけは、中国での親善試合だった。ミュンヘンを終え、バレーボールからはもう去ることになる、と決意して中国に遠征する。そこで見たのは、現役選手たちが、後輩の指導に無償で当たる姿だった。 
					 翌1973年2月、所属していた日立武蔵から日立本社に移り、広報宣伝の肩書きとともに「日立バレーボール教室」を始めた。自分が得た財産を残すこと、2年ほどやればそれでいいのだから、そんな軽い気持ちだった。 
					 引退した当初、ショックだったことがいくつもある。 
					 それまではバレー一筋。まるでタイムカプセルから抜け出したようなぎこちない毎日だったという。良くも悪くも、女子バレーボールは、そうやって外の世界を遮断することによって、「世界」に伍してきた種目でもある。 
					「本当に世間、というものを知らなかった。マネジャーがバスから電車からチケットを準備してくれ、試合のためにホテルと体育館の往復をするだけ。1人で動くようになって、駅で切符の買い方もわからない。道をどう尋ねるのか、喫茶店にもどうやって入ればいいのか、と、まあ驚くようなことばかりでしたね。メダルというのは、ここまで25年の自分の、ある一面に対してのものだったのだ、としみじみと思ったものです」 
					 高校生の時、東洋の魔女の金メダルを観戦した。名将・故山田重雄氏が率いていた三鷹高校、日立、全日本と、10年にわたって山田氏とともに世界と戦うことになる。朝6時から夜中まで、女子バレーが「根性、超スパルタ」と評された時代を生き抜いた。しかし、それは他人の勝手な評価にすぎなかった。 
					 山田氏はとてつもない量の、しかも海外の文献を読み漁り、選手に対して、常に世界を身近に示してくれた。練習とは、科学的な根拠を求めるための手法なのだ、とたたき込まれる。スパルタとはその究極の形。生沼の独特のクイックトス、平行トスも、こうした反復の中から、もっとも科学的で正確なトスとして生まれたものだという。 
					「根性、というものを間違ってはならないと思います。実は、高いレベルの技術があればこそ、根性があるようにも見えるんです。世界で戦うにはそこにたどりつかなくてはなりません。精神論でなく、技術が精神を強くする。ですから、ライバルは相手国というより山田先生でしたし、あんまり手ごわいライバルだからもうみんなで悪口ばかり。でも、五輪が終わって同窓会を開いた時、先生がふっと、こう言ったんです。君たちは、私の戦友だった、ありがとう、と」 
					 母親がスポーツ好きなら、子供も、家族もスポーツに親しめる。地域でスポーツが根付けば、それが五輪という夢を抱く未来の代表選手たちを生む。 
					 生沼の目はいつでも「根」のほうに向けられる。 
					 25歳までの五輪は銀メダル2つ。25歳からかかわった、いわば「根」を育てるオリンピックは今も、これから先も、終わることがない。 
					「そういえば与那国島にもまだ行ったことがありませんでしたね」 
					 バレーボールで埋められた頭の中の日本地図を思い出したのか、別れ際、生沼はそう言って笑った。 
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