The Goddesses of Olympic Games
女神たちのメダル

山本宏美
(リレハンメルオリンピック スピードスケート女子5000m銅メダリスト)


●やまもと(やまなか)ひろみ/第17回リレハンメル冬季オリンピック銅メダリスト。1970年4月21日北海道生まれ。家族7人で早朝マラソンをするようなスポーツ一家に育ち、兄の影響で3歳でスケートを始める。駒大苫小牧高を経て'89年王子製紙入社。同年世界ジュニア大会で国際デビュー。左足じん帯断裂手術で足首にプレートを入れた'93年、全日本選手権3000・5000メートル(日本新)優勝。'95年引退。翌年、王子製紙アイスホッケー部の山中武司さんと結婚。1女がある。

スケート靴を履いて見えた景色

 記念になるような物も、オリンピックにちなんだ思い出の品も、もう一切ないのだと、山本宏美(現姓山中、28)は柔らかな徽笑みを浮かべた。
「こだわりが全然なくって……本当にごめんなさい」
 リレハンメル五輪で、日本人女性としては冬季五輪史上3人目のメダリストとなり、しかもスピードスケートでは橋本聖子に続いて2人目、長距離種目(5000メートル)では男女通じて初のメダル獲得者だというのに。
 目の前にいる山本は、娘の背中を優しく抱きながら、苫小牧の社宅の玄関に立っていた。整頓された2DKの部屋のどこにも、メダリストどころか、スケート選手だったことが分かるような写真さえ、ひとつも置いてはいない。
 銅メダルは実家に預け、あの時愛用していたダイヤモンドのピアスも、なぜか片方が行方不明。過去を完全に仕舞い込んだその潔さがかえって、競技者としての、かつての心意気を表わしているようにも思えた。
 玄関で別れの挨拶をしようとした時だった。靴箱の上に置かれた五輪マスコットに、無造作にピンクの「腕章」がかけられているのが見えた。インコース・スタート、アウトコース・スタートの識別をしやすくするためにする「腕章」である。

 1994年2月25日、リレハンメル・ハーマル五輪ホール。5000メートルに出場した山本は5組、アウトコースからのスタートを切った。
 最初の200メートルを22秒10と、静かに滑り出したが、乳酸が体内にたまり、苦しくなり始めると言われる中間点から、1周(400メートル)のラップをグイ、と上げて34秒台を刻んでいく。室内リンクとはいえ、自己記録を実に11秒も短縮してフィニッシュした時、メダルでは? と思う気持ちよりも強かった思いがある。いや、正確にはメダルどころではなかった。
 ともにオリンピックのレースを走り、鼓動も、息使いもすべてを聞いていてくれた「腕章」を、持って帰ろうとしていたのだ。
「これはレース後すぐに回収するんですね。ですから、見つかってはマズイ、とゴールしてすぐにウェアを着込んで隠したりして……ドキドキしていたんですよ。何とか持って帰ろうと」
 腕章を人形から取ると、山本は吹き出した。オリンピックから5年経った今、手元には銅メダルではなく、色槌せた腕章だけが残っている。

「オリンピックって、何なんですか。そんなにいいものなんですか?」
 アルベールビル五輪に出場できずに終わり、2年後のリレハンメルに向けても調子が上がって来ない。練習は、以前よりも増えている。それでも結果が出ない日々に、山本は五輪経験者や、友人たちにそう聞いて歩いていた。
 変則開催のため、目前に迫ったオリンピック、それは3度目の挑戦となる五輪だった。しかし「出場したい」と心から思うことのできない自分がいた。自己新記録、勝利、それらから見放されている、と感じでいた'92年12月、左足首のじん帯に違和感が走った。
 左足首じん帯の断裂。競技を続けるのなら、手術を要する、と医師に宣告された。
 入院したのは翌年2月12日、オリンピックのちょうど1年前である。
 3歳でスケートを始め、才能はすぐに開花した。白老中学で全国大会に優勝し、高校進学後も「橋本2世」と注目を浴びた。オリンピックヘ、という周囲の期待を負って王子製紙に入社する。好きで仕方なかったはずのスポーツが、いつの間にか重荷になっていた。
 手術をしなければ現役は無理と言われた時、これでスケートをやめられる、引退理由ができた、そう思うと悲しくなかった。むしろ安堵感が強かった。
「3歳でスケートを始め、本当に楽しかった。でもいつの間にか、楽しさよりも、勝つことが目標になり、スケートがそのための手投のようになってしまった。競技者なら勝ちたいのは当たり前ですが、でも、そういう中にいて、がんばろう、もっとがんばろう、と。思えばいつでも、力を入れることだけを考えていたんでしょうね。スケートが好きだったことも忘れていた。入院した当初はとにかく眠りました。大好きな読書もたくさんできた。入院患者さんと、気ままなおしゃべりもできる。あの時初めて、休んだんです。心身とも」

 病室での日々は、「力を入れないこと」を初めて教えてくれた。力を抜いて見えたものがある。競技者として、自分の「技術」と向き合うことだ。選手生命最大の危機はこの時、選手としての新たなスタートに転じた。
 歩くことも満足にできない。しかしそれさえ新鮮だった。どうすればスケートに結びつく正しい歩き方ができるのか。体重移動は? 呼吸方法は? 純粋な向上心が湧いた。練習前、ウェイトトレーニング場の埃を掃き、雑巾をかける、そんな気持ちの余裕も生まれた。
 ヨガで自律訓練法を身につけ、スケートの命ともいえる体重移動を自分で意識できるようになった。手術後初めてスケート靴を履いてみた日のことは、今も忘れない。たった2センチほどの高さから見えた景色が、以前とは違っていた。
「スケートを履いて見えた景色がまるで違っていました。姿勢も、視線も変わったということです。自分の体重が親指にしっかり乗っていることが分かるんです。あの景色が見えたとき、なぜか確信しました。絶対オリンピックに行ける、メダルも取れる、と。'94年1月、欧州遠征からリレハンメル五輪に向かうために北海道を発つ時、自然とみなさんにこう言っていました。メダルを持ってここに帰ってきます、と。よし、世界中で一番スケートを楽しんでここに戻って釆ようと心底思っていました。歩けなかった日々から、3度目の挑戦でつかんだオリンピックは私にとって勝負の場ではなかった。たとえレースが苦しくても、それが楽しくて仕方なかった」
 技術と向き合った抵果、世界の長距離選手でもただ1人と言われる、独特な「ピッチ走法」が生み出された。フィニッシュして見えた記録は7分19秒68。自己記録を11秒17も短縮していた。
 頑張らない五輪選手を待っていたのは、表彰台だった。

 実はオリンピックは子供の頃の夢だったのだと、後に、幼稚園の担任に教えられた。作文に、「おりんぴっくせんしゅになりたいです」と書いていた。
「もっとも、本当はマラソン選手で、と思っていたのですが」
 山本は笑う。
 夢さえ忘れ、夢をあきらめ、力を抜いた時、夢が叶った。
 オリンピックは自分の発表会──。
 悩んでいた頃、皆に聞いていた質問の答えは、これだった。

(婦人公論・'99.3.7号より再録)

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