The Goddesses of Olympic Games
女神たちのメダル

田村亮子
(バルセロナ・アトランタオリンピック柔道女子48キロ以下級銀メダリスト)


「金メダル」というライバル

「りょうこ、5人全員に勝てれば、あれをもらえるとよ」
 小学2年生の田村亮子は、恩師のその声で、神社のある一箇所に釘づけになった。境内の横の表彰台に置かれたメダル──8歳で生まれて初めて目にした金メダルに、道場に通ってわずか4か月の少女は、なぜか強烈に魅せられてしまう。
 よし、あれを家に持って将ろう。
 1回戦が始まった。
 境内の脇に敷かれた畳は冷たく、硬かった。参加者の中でただ1人の女の子、しかも身長は一番低い。
 母・和代さんは、畳の横で、か細い娘の姿を見守りながら心配でならなかった。
「あんな硬い畳にたたきつけられて怪我をしなければいいのに……」
 しかし、畳にたたきつけられたのは娘ではなかった。ドスン、と音がすると男の子が動けなくなっている。救急車で病院に運ばれて行った。2回戦に勝ち、そして3回戦。またもドスン、という音がして、男の子が動けないでいる。2台目の救急車が来る。決勝では90キロはある、無差別級の男の子を、またも背負い投げで倒した。
「柔道を始めて最初に手にしたメダルが、この金メダルなんです。男の子5人を全員背負い投げで倒して、病院送りにしてしまいました。懐かしいです。思えば、このメダルから、金メダルへの戦いが始まったのかもしれません」
 そんな宝物を、紺のビロードの袋から出し、日付けを確認した。「秋季大会、櫛田神社 昭和58年10月23日」
 1988年、ソウル五輪で女子柔道が初めてオリンピック種目(公開競技)に採用された。のちに女子柔道界を背負って立つ少女が、金メダルを首からかけられ、夢見心地になっていた日から、5年後のことである。

「最初はお兄ちゃんがやるなら自分もやってみようかな、そんな軽い気持ちで始めました。けれども、先生(稲田明氏)がこう言ったんです。亮子は小さいから、きっと背負い投げが有効になるよ、それがすごい武器になるはずだ、まずはそれを覚えような、って。それで、相手の脇の下に一旦もぐり込むような形での背負い投げを繰習しました。スピードもその頃からつけるようにしたんです。すると、面白いように人を投げられるんです。自分よりもずっと大きい人でも倒せる。もう夢中になりました。楽しくて仕方なかった。
 どんなに体が小さくても、女の子でも、やればできる、クラスで一番のチビだって負けないんだって。そうやって自分のコンプレックスを跳ね返せることがうれしかったのかもしれません。とにかく自分よりも強い人に全部勝つこと、これしか見えなかった。当時テレビで見ていた一番強い人は、山下先生(泰裕、ロス五輪金メダリスト)でした。性別も年齢も、階級もあったもんじゃありません。よし、あの人に勝つぞ、ライバルは山下さんだって。今思うとあの一途さって何だったんでしょうね」
 性別や体格など目に入らぬほど、純粋に愛した競技だったのかもしれない。小学校5年、11歳で初めて全国規模の大会に出場した時でさえ、身長がわずか121センチ、体重は25キロだった。
 いつの間にか、練習に向かう前、必ず柔道者にアイロンをあてるようになっていた。誰に言われたのか、なぜ始めたのかわからないが、「危ないから」、という母の言いつけも聞かず、柔道著にアイロンをかけていた。その習慣は今も変わらない。五輪でも世界選手権でも、必ずそうして試合に臨む。
 初めて世界の舞台を踏んだのは15歳の時、地元での福岡国際女子柔道で、まだ白帯だった。準決勝で当時世界チャンピオンだったブリックスと対戦する。
「先生には、相手と目が合ってそらしたら負ける、勝負師は目をそらすな、と言われました。そうしたら本当に試合前ブリックスと目が合った。初めての国際試合だったこともあったんで、もう思い切りにらみつけてしまいました。技ありで決勝に進んで、決勝は1本勝ち。あの時ですね、オリンピックという存在を具体的に考えられるようになったのは。自分にとって最高の舞台なんだと思えた」
 2年後17歳でバルセロナ五輪を迎える。国内には敵なし。しかし、決膠ではノバック(フランス)に敗れた。試合直後、すぐにこう口にした。
「アトランタでは絶対に金メダルを」
 4年後を目指して始まった壮絶な戦いも、ティーンエイジャーには負担にはならなかった。バルセロナの決勝で敗れて以来、'96年アトランタ五輪までじつに84連勝。しかし、落とし穴は思わぬところにあった。決勝で、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の無名の高校生に敗れてしまう。
 4分間、何もできずに終わった、そのむなしさだけが残った。4年間積み重ねた連勝記録は一体何だったのか。シドニー五輪など、果てしなく先のことに思え、マスコミからの質問にも答えられなかった。「金メダル」と、口にすることのプレッシャーは、これまでの2度の五輪とは、比べものにならないからだ。自分が、本当に目指しているものは何なのか。
 初めて立ち止まった。
「一から考え直したんです。自分は本当に強かったのだろうか、と。そう考えたら、連勝は単なる数字の積み重ねに過ぎず、結局は力を維持しているだけだった、決して向上しながら積んだ勝利ではなかったということに気がついたんですね。勢いや、周りの期待に流されてしまった面もあった。そう認められたことで、新たな一歩が頼み出せるように思いました。環境を変え、柔道への取り組みかたを変え、もう一度やり直そうと。目標を簡単に口に出すことを控え、代わりにその思いを体中に溜めていこうと思った。正直にそう思えるまでに、アトランタから1年以上かかっていました」
 昨年、トヨタ自動車に入社。日体大大学院に通い、練習方法を根本的に変えた。出稽古で大学、道場、警察と見知らぬ環境を転々とする。その緊張感の中で男性を相手に組む。同い年の練習パートナーもつけた。'98年は意識的に試合数を絞り、あえて試合勘を試すような形にした。
 そして迎えた五輪前年の'99年1月。今年最初の試合は、初めて国際舞台を踏んだ福岡から始まった。前人未到の大会9連覇を達成したが、彼女の口からは、シドニー五輪で金メダルを狙う、というコメントは出ては来なかった。
 女子個人種目史上、わずか4人の連続メダル。2つの銀メダルに、しかし満足はできない。

 田村は8歳で初めて手にした金メダルを、ビロードの袋にしまいながら言った。
「オリンピックとは、自分にとってライバルです。そして、金メダルはもっとも手強いライバルなのです」
 ならば、ライバルとの死闘に決着はつくのか。
 20世紀最後のオリンピックで。

(婦人公論・'99.2.22号より再録)

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