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木村公宣(アルペンスキー)


●きむらきみのぶ/1970年10月24日。青森県出身。東輿義義塾高校インターハイ3勝。近畿大学へ。'91年、ザ−ルバッハ世界選手権複合回転で日本人初の5位入賞。同年、札幌ユニバーシアード回転、大回転優勝。'96年、通算4個目の全日本タイトルを獲得。実家は代々続く呉服屋。

大怪我を克服した
回転のスペシャリスト

 有酸素とはいえ、一般人などはるか及ばない重い負荷をかけながら、アルペンスキーの木村公宣(28歳、ロシニョール)は、黙々と自転車をこいでいた。
 1本が30分。またすぐに次のセットに入る。これを1日8本こなすのだという。
 これだけではない。
 合間には、昨年手術した右膝への負担を軽くするために、上体、大腿、と工夫をこらしたウエートトレーニングのメニューを消化し、さらに、長い遠征を戦い抜くための基礎となるランニングも欠かさない。
 激しいトレーニングを見ながら、この練習では彼が一体何の選手なのか、まさか回転のスペシャリストとは分からないように思った。同時に、一体、これは、彼にとってオフシーズンなのだろうか。それとも実はこちらが、オンシーズンなのだろうか、そんなことを考えた。
「オフ、が、のんびり休む、というイメージならば、オフとはいえないでしょうか」
 木村は笑った。
 冬季種目の選手たちが、いわゆる「オフシーズン」を過ごすために日本に戻って来る季節である。冬季競技の選手たちは、そのほとんどを欧州の、あるいは北米の山の中で過ごし、気温の上昇とともにほんの一時期だけ、故郷に戻る、まるで渡り鳥のような生活をする。もっとも、羽を休めるどころか、鍛えなくてはならないのだが。
 スピードスケートの選手がスケート靴を履いていない姿を、ジャンプの選手がヘルメットをかぶっていない顔を報じられることが少ないのと同様、ストックを握らないアルペン選手と話すチャンスは、そうない。
「以前、内臓疾患で入院をした時にはどこがどう悪いのか分からないからとても苦しかった。今回は目に見える分、苦しくたって回復が分かりますから。むしろ幸せでしたね」
 1998年、W杯で史上3人目の表彰台(スイス、3位)に立つ。しかし1か月後、42年ぶりのメダル、と期待された長野五輪では13位。そして3月の全日本選手権を前にした繰習で大怪我を負う。
 右膝外側靭帯断裂、後十字靭帯損傷、右腕2か所骨折、右脛骨骨折……。昨年11月からのシーズンは、選手生命をかけるような壮絶な怪我からの、カムバックシーズンであった。
 しかし目前の木村は、悲壮とは正反対の、いや、悲壮を経験したからこその、悠然たる表情を絶やさなかった。
 もっとも辛かったのは、意外にも肉体的なものではなかった。体内時計、その狂いだった。アルペンの選手は1000分の1秒の差までも、自らの肉体で刻む。怪我は治ったが、行った、と思うとタイムが出ず、不振と思うと記録がいい。その誤差は、復帰のためのシーズンを乗り切って、ようやく調整された。
「来季に向けて課題が多い分、あれもやろう、これもしたい、とスキーに対して、子供の頃のような、新鮮な気持ちを持てるようになりました。またやり直しです。オリンピックの借りを、オリンピックで返すためにも」
 雪を求めて、4月末にはもうオーストリアヘ飛び立った。
 故郷・弘前の桜は、見ていけたのだろうか。

AERA・'99.5.17号より再録)

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