笠松昭宏(体操)

アエラ「この人を見よ」より


●かさまつあきひろ/1976年7月22日生まれ。名古屋市出身。'96、'97年と全日本選手権の種目別あん馬で2連覇。身長172センチ、体重62キロ。

シドニー五輪狙う遅咲きの大輪

 不振にあえぐ男子体操界を救うためには、難易度の高い、独創性のある新技こそ必要なのではないか。
 8月、学生選手権を初制覇し、将来の体操界を担う笠松昭宏(22=日体大4年)に最初に聞いた質問だった。
 笠松はうつむき加減に笑った。
「現代の体操競技は、E難度技の開発をすればそれでいいというような、そんな簡単で安易なものではありません。体操の技術自体、すでに人間の限界点に達しているからです」
 ピシャリと言われてしまった。
「体操は日本のお家芸」そう言われていたことなど知らない世代である。確かに、続々と新技を開発できるような時代ではない。'97年に規定演技が廃止。採点はより細分化され、さらに難易度だけなら、スーパーEまで行ってしまった。ならばそんな状況下で、笠松はどんな「企み」を持って世界を捉え、2年後のシドニー五輪での日本再建を狙うというのだろう。狙うは、大技ではなく、むしろもっと細かいところなのだという。
「見逃されてしまうような小さい所での発想の転換とか、独創性で見せたいんです。そこで正確に点を積み重ねる。それが自分の理想の体操競技です」
 玄人受けする演技、と言われる所以である。細く華奢な体、取材中に見せた遠慮がちな表情。どれからもあまり想像がつかないのだが、独自の、確固たる体操理論を骨格にしている。みかけよりも「骨太」な理論は、彼が育ってきた過程によるものだ。強豪クラブで、有名コーチに教わるという、スポーツ界の英才教育とは趣が異なる。早熟と言われる体操界では遅咲きの部類だろう。
 所属していたクラブに男子はいなかった。女子の演技を遠目に見ながら、いつでも1人で器具を準備し、練習をした。コーチもいない。しかしそれが逆転の発想につながった。
「同年代での競争は気にならなかった。自分で好きなようにやれることが楽しかった。だからこそ、体操そのものの勉強をすることもできたと思います」
 自分のオリジナリティにこだわるためには、基礎となる理論武装も怠らなかった。子供の頃から、審判資格者が読むような、分厚い「ルールブック」を夢中で読んだ。AからE難度まで100以上もの技をすべて覚え、ビデオを観て、複雑極まりない採点教本をも独学していた。採点とルール知識には、自信があると、またも控えめな笑顔を見せる。 
「この点数はルールと違う、低い、高すぎる、と思うこともあります。体操をしながら、体操研究も同時にしていますね」
 得意はあん馬。五輪へのステップとなる12月のアジア大会(タイ・バンコク)で、アジア大陸ナンバーワンの座をかけ中国と争う。今春、フランスでの大会では、国際舞台に知名度が低かったためか、名前を間違えられた。掲示板に出たのはなぜか「S.KASAMATSU」。父の名前だった。
 そういえば、彼は、跳馬の「笠松跳び」を生んだ世界王者・笠松茂氏(51=体操クラブヘッドコーチ)の1人息子だったということ、それを書くのを忘れてしまった。必要がなかったからである。

AERA・'98.9.28号より再録)

HOME