12月31日


 今年も終わります。ビッグイベントが続いた今年を締めくくったのはアジア大会でした。女子マラソンの高橋尚子の金メダル、伊東浩司の100メートル10秒00を現場で取材した記者が、こんなコラムを大晦日に送ってくれましたので掲載します。

増島みどり


☆special column☆

 第1種接近遭遇;目撃。第2種接近遭遇;存在を示す明らかな証拠。第3種接近遭遇;実際の接触(スティーブン・スピルバーグ監督『未知との遭遇』より) 。

 いくつかの日本新記録を生んだバンコクのアジア大会では、少し前なら想像さえもできなかったような未知の領域への突入体験を競技者と観客が共有した。女子マラソンで日本選手として初めて2時間25分の壁を破る21分47秒でゴールした高橋尚子と、男子100メートルでこの先は9秒台しかない10秒00を記録した伊東浩司。アジア35億人を驚かせた2人のランナーが、かつては極限視さえされた域に到達した背景には、日本の陸上界が「未知」へと積み重ねてきた第1種・2種の接近遭遇体験がある。

女子マラソン世界最高タイム
2時間20分47秒
'98年4月 テグラ・ロルーペ(ケニア)
男子100メートル世界記録
9秒84
'96年7月 ドノバン・ベイリー(カナダ)

 13年に渡って君臨してきたクリスチャンセンの女子マラソン世界最高が歴代2位に落とされたのは、今年のロッテルダム・マラソンだった。ロルーペにおよそ5分遅れてゴールしたのが浅利純子。浅利にロルーペの姿は見えなかったに違いないが、同じレースを走った体験は「目撃」にも相当した。そしてその直前の3月には高橋自らが朝比奈三代子の持つ2時間25分52秒の日本最高を4年ぶりに更新。
 終盤に驚異的なスパートをみせての25分48秒は、世界と戦うための資格でもある“アンダー25分”の「存在を示す明らかな証拠(根拠)」だと言えた。
 男子100メートルは、'91年世界選手権東京大会でカール・ルイスが9秒86で国立競技場のゴールを駆け抜けたシーンが日本のスプリンターたちの記憶に焼きついている。ベイリーの記録は、さらに関心の高いアトランタ五輪の場で「目撃」された。同五輪では走り幅跳びを専門とする朝原宣治が、日本人としては28年ぶりに準決勝に進出。翌年には10秒08を叩き出し、将来の9秒台ランナーの「存在を示す明らかな証拠」をみせたのだった。こうした経験の上に、高橋と伊東による「第3種接近遭遇」は実現した。
 室内競技会を除けば「走る」競技で最も距離が短く時間のかからない男子100メートルと、最長距離を走り時間も最もかかる女子マラソン。対照的な両競技で、日本選手がアジア人の可能性を高めアピールしたのは興味深い。2人の記録と世界との間に横たわる“溝”は、

    高橋;1分
    伊東;0秒16

である。これを今後いかにして、どれだけ埋めていくかの戦いになるが、大会を終えて2人が語った「時間」のとらえ方もまた好対照だった。
 伊東は3個の金メダルを獲得した直後のバンコクで、コンマ1秒の重みをこう語っている。
「日本で10秒3で3本走ることはあったけど、今回のように10秒0台で走り続けたのは初めて。1本走ると倒れてしまうというか、ちょっと動くとケイレンしてしまう感じ。こういう中で朝原は戦い、なおかつ調子を維持していたんだとわかった。もし僕が(五輪や世界選手権で)100メートルに出なくていけないケースになったら、ちょっと考えさせられますね」。バンコクでの伊東は、予選から決勝までを10秒03(追風参考)、10秒00、10秒05で走った。マラソンと違い、トラックレースは一発勝負ではない。誰もがまずは、決勝までをトータルに考え「勝つ」ことを大事にする。日本レベルでは10秒3で決勝までたどり着けても、世界ではそうもいかない。足への負担がまるで違う10秒0台のレースを重ねていくことの過酷さが、記録への挑戦より先に口をついた。
 一方の高橋。マラソンも「記録より勝負」に変わりはないが、12月25日に東京で開いた記者会見では、積水化学の小出義雄監督から威勢のいい発言が次々となされた。
「バンコクでは目標は(2時間)18分って言ってたんだけど、アレ(アジア大会)を見たら16分って思った。もう2分アップ。たった2分しか違わないじゃない。5キロを16分10秒から30秒でずっといければ、それくらいの記録は出る。高橋には『鈴木博美('97年世界選手権女子マラソン優勝=積水化学)も2時間18分ですぐくるよ』って言っているんです」
 本人はもちろんこんな破天荒なコメントは口にするはずもないが、小出監督に全幅の信頼を置く高橋なら「16分」と暗示をかけられれば、その気になることは想像に難くない。
 足を引きつらせる10分の1秒と戦っていく伊東に、2分を「たった」と言い切ってしまう高橋陣営。同じ1秒でも記録のレベルが上がるほど更新は難しくなるが、小出・高橋の師弟には臆するところはない。伊東についても、長年トレーニングや走法改善にともに取り組んできた小山裕史氏は「9秒台前半も可能」だと話している。日本人、アジア人にとっての大いなる第3種接近遭遇を成し遂げたスプリンターとマラソン走者が、今度は世界の誰もが経験していない真の「未知との遭遇」に向かって走りだす。

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