2003年5月25日

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陸上

高橋尚子が黒部名水ロードレース・ハーフマラソン出場
(富山・黒部市)

 4月上旬から、全国を回って市民マラソンに出場していたシドニー五輪金メダリスト、高橋尚子(佐倉AC)が、6月23日からの米国・ボルダー(コロラド州)での高知合宿を前にした最後のイベントに出場し、ハーフを1時間21分45秒でゴールした。オープン参加のために、順位はつかなかったが、女子の一般では3位にあたる記録だった。
 これで国内でのイベント出場はすべて終了、大島などで脚力を基礎から作って、連覇をかけたアテネ五輪の出場権をかけた11月の東京国際女子マラソンに向けてボルダーで本格的に始動する。


「いくら昔やってたからと言って……」

 4月上旬、佐賀の桜マラソンでスタートし毎週続いた、高橋の「仕事」、市民マラソンへの出演はこの日をもって終わり、ファンが走る彼女を次に見るのは、五輪代表をかけた大一番となる、11月の東京国際になるはずだ。
 誰もが、市民マラソンだからお遊びだろう、毎週走ってはいるけれど、ゼッケンはあっても公式記録には入らないジョッグだろう、本気じゃないんだから……そんな風に思っているだろう。
 しかし、彼女はこの日のハーフを、おそらく、全力で、大まじめに、本気で走りきったはずである。シドニー五輪や、女子として初めて2時間20分を突破したベルリンマラソン(2001年)のハーフ通過タイムが1時間9分から10分台だから10分以上遅いことになる。

「みなさん(報道陣)にとっては、なんてことのない20キロかもしれませんが、私にとっては最高の20キロでした。10キロと20キロは全く違います。やはりイメージの世界が違うんですね。今日走れてようやく、30、40とイメージができるようになっていくはずです」
 笑顔で爽快感を見せた後、世界最高2時間15分20秒のラドクリフと争うが自信はあるか、と聞かれて、「雲の上の存在としか思えない」と真顔で答えた。

 何かタイトルのかかった試合ではないから、「最高の」と彼女が言う意味はよくわからないだろう。佐倉アスリートクラブの招待イベントのひつとで、小出監督と2人でレース後の抽選会に参加するような一日である。しかし、高橋は、このレースで前日からの不安で、十分過ぎるほど緊張をし、「途中は本当にきつかった」と言い、小出監督は10キロと18キロ地点で「無理をするな」と、わざわざ給水に出て、声までかけている。
 肋骨を骨折した時期、つまり昨年の10月以来初めてとなる20キロは、五輪で金メダルを取るような選手、もしかすると、そうだからこそ、市民ランナーの笑顔や気楽さとは対照的な「慎重さ」や「細心」に満ちていたように思う。

「Qちゃんを見たかい? まだ真っ白(日焼けしていないので)だろう。今日は、こんな暑さだから、給水をして、ちゃんと様子を見て最後までできるかどうか確認したんだ。表情で大丈夫だと思ったよ。何しろ、半年以上走ってないからね、20キロを。そりゃあ、いくら昔やってたからと言ってもさ……」

 監督がそう話したところで、記者たちからは「カントクゥ、昔やってたじゃなくて、今もやってるんでしょうが」「Qちゃん、引退してたんですか?」と突っ込まれて、その場が大笑いとなったが、世界の頂点に立ったランナーと指導者の「レース後」の感想は、遠慮や謙遜といったものとは無縁の、率直さだった。
 監督によれば、どれほど鍛えたとしても、筋肉も心肺機能も、ランナーが脚を止めれば2週間で「普通」に戻ってしまう。そして高橋はその「普通」の状態から、世界の頂点に立とうとするプロセスを楽しもうとする。
 だから怖い。

 この日のレース男子10キロの部では、20代の男性がゴール直後に亡くなる非常に悲しい事故が起きた。ご冥福を祈るしかないが、高橋、小出監督とも、会場からの車での移動中にその話しを主催者から聞き、肩を落として富山空港を後にすることになった。
 金メダリストで世界最高記録前保持者の高橋が、周囲には理解想像し難いほど恐れた自らの限界と、市民ランナーたちが懸命に打ち破ろうとしている限界は、もしかするとそう遠くないところにあるのではないか。
 違いがあるとすれば、それが一体どこに、どんな風に存在しているものなのか、彼らは精密に理解し対応でき、私たちには全くわからないということだけなのかもしれない。



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