2003年1月28日

※無断転載を一切禁じます


サッカー

北澤 豪の引退会見より
(東京・稲城市、ヴェルディクラブハウスにて)

 93年Jリーグの発足からヴェルディの黄金時代、94年米国W杯予選以降日本代表を支え続けて来た北澤豪(34歳)が、引退会見を行った。
 クラブハウスには、同僚の選手、スタッフ、クラブ関係者が揃って見守る、北澤の人柄を示すような中で会見が行われ、冒頭、「今日を持ちまして引退することになりました。3年前怪我をした右ひざの状態が悪く完治は難しい。そのため自分が思うようなプレーができず、ファンにはそういう中途半端なプレーをお見せすることがプロとしてあるべき姿ではないと思った。性格上、がむしゃらにプレーできず、中途半端なままというのは自分らしくないと思い、決断した」と、2000年から続いた右ひざ靭帯損傷との戦いが決断の背景となったことを明らかにした。
 今後は、監督を目指して指導者のライセンスを取得するために勉強をし、また一方では解説などでサッカーを多角的に観たいとしている。東京Vでは、今後も地域との交流会や指導などでアドバイザリー的な役割を依頼する意向。Jリーグ265試合3得点、日本代表Aマッチ59試合3得点。身長170センチの肉体を、極限まで使い切った競技人生について「山あり、谷あり、満足している。たかが知れた男だったけれど、応援してもらい感謝している。やるべきことはすべてやって来ました。後悔はない」と清々しい表情で明言。第二のピッチへ走り出す。

    ◆一問一答

──今の心境は?
北澤 今日は良く晴れて……、昨日なら雨でしたから、自分がやってきたグラウンドもしっかり見られてよかった。長いこと考えての決断なのですっきりとしている。

──改めて引退について
北澤 これは次への挑戦、ステップだと思っているし、サッカーから離れてしまうわけではない。

──今、辛いのは?
北澤 (30秒ほど沈黙して)決断はしましたが、グランドを見ればやはり心が騒ぐ。心と体がバラバラな感じはします。ただ、しっかりと考えた結果なので後悔はない。

──ご家族へは?
北澤 辞めると言ったら、(2人の息子から)野球に行くの? と言われて……、(思い出し笑いしながら)監督になると言ったら、でもその前にコーチにならなきゃいけないんだよ、と言われましたね。子供が生まれてから、自分がサッカーをしている姿を心に焼き付けてくれたと思うし、満足してます。家族はこういう決断も気持ち良く賛同してくれて、勢いをつけてくれた。感謝している。

──何がここまでの支えだったか?
北澤 サッカーを誰より好きで愛してきた。それがあったから、この決断ができたのだと思う。今こうして決めたことで、これまでのことも含めて、心から笑えるし、楽しく話ができる。

──どのゲームが印象的か?
北澤 91年、国立競技場でのゴール(キリン杯トットナム戦でのヘディングゴール)です。あれが僕の始まりでもあり、いつでもそこに(原点を)戻して、始めて行ったんで。苦しいことも確かにあったけれど、でもそれをいつもパワーにしてここまで来たので財産だと思う。(若手がまだやれると言っているが)そう言ってもらえるのはうれしく思いますね。

──監督と希望しているようだが?
北澤 そんなに簡単なものじゃないとはわかっている。ただ一番グランドに近いところには戻って来たいと思うし、もちろんここまでやってきたヴェルディの監督、尊敬するジーコさんが率いる日本代表の監督、そのくらい大きなところを目指すための、大きな決断でもあったわけですから。これからサッカーをするでしょうし、また違った目線で見ることも必要でしょう。自分の器も広げなくてはならないし、あらゆることを吸収できる自分を作っていきたい。

──ファンへ
北澤 長い間有難うございました。皆さんの支えがあって、ここまで来られました。体もないし、何かに長けているわえでもない自分がここまで来られたのは本当にみなさんのお陰でした。

──W杯に出られなかったのは?
北澤 もちろん悔しいですし、そのことへのこだわりはありますが、でも、違った形で向かって行きます。そういう悔しさをばねにします。(電話でカズには相談したか)ええ、多くは語らなかったが、自分で決めたことだから、と。ほかの人の影響は、一切ないです。これからは、しっかりと振り返っていくことが大事で、それが今後のサッカー人生にもいい影響をもたらすと思う。サッカーは一人のことではないので、全員が整うようなメンタリティ、あらゆる点を勉強しなくてはならないと感じている。

──怪我をしても、ピッチに立つことがファンのためだとは思わなかったか?
北澤 もちろんそう考えたからこそ、この3年をやって来たわけです。もしかしたら、このままズルズルとやることもできたと思うが、でも、生き方としてそれはできない。これからは、監督になるまでの計算などはできないが、一応、必要なライセンスなどはあると思うんで、それは取らないといけない。色々な角度からサッカーを見ることも大事だと思う。これからも、サッカーに沢山の人が関って、底辺を広げて、Jリーグの100年構想が少しでも短くなればいいですけれど。


「日本サッカー界のビタミンだった」

◆北澤 豪 データ
・日本代表:59試合3得点
1987 本田技研工業サッカー部入団
1991 キリンカップサッカー91日本代表
90-91日本リーグベストイレブン・得点王
読売サッカークラブ入団
1992 広島アジアカップ日本代表(優勝)
91-92日本リーグベストイレブン
1993 Jリーグデビュー
1994 W杯アメリカ大会アジア最終予選 日本代表
Jリーグベストイレブン
広島アジア大会日本代表
1997 W杯フランス大会アジア最終予選 日本代表
1999 キリンカップサッカー99日本代表
 こらえてはいた涙は最後までこぼれなかった。「今も(これまでのサッカー人生を)心から笑って話すことができる」と話した通り、北澤 豪の引退には──無論、後悔や無念が底に秘められていないはずはないが──爽快感が満ち溢れていた。最新号の「スポーツ・ヤア!」(角川書店)で、引退をどう考えるかについてインタビューをした際も、揺れ動く心境を実に率直に、包み隠さず話している。
「(昨年のJリーグが終了してから)この2か月、トイレに入っても、風呂に入っても、車を運転していても、常に、ここまでのサッカー人生を考え抜いてきた」と話していた。引退についてそこまで熟慮した、その行為に対して「悔いがない」と、胸を張れる爽快感なのだろう。
 会見には、ここまでサッカーを取材してきた記者数十人と、会見場の外にも、クラブ関係者やスタッフ、選手までが立ったままで話す北澤を見守り、クラブハウスの外でも多くのファンが寒い中、立ち続けていた。彼がこれほど「愛されていた」理由はどこにあるのかと考える時、北澤が常に、ヴェルディでも、日本代表でも、逆境にあればあるほど、それを覆すエネルギーを、チームに、ファンに、そして間違いなく仲間にも与え続けてきたことを思う。彼は、サッカー界にとって、はつらつとした活力やエネルギーを司る「ビタミン」ではなかったか。

 本田技研がJリーグへの参加を見送り、ヴェルディへの移籍が決まった91年、三浦知良の紹介で初めて北澤と会って以来、公私での「代理人」を続け、もっとも身近で「北澤 豪」を見てきた田邊伸明氏は、この日、クラブハウスにいながら会見を聞いてはいなかった。聞けば、感情がコントロールできなくなるからだろう。会見のあと、無人のグラウンドを見つめていた彼に、しばらくしてから声をかけた。北澤と会わなければ、現在、稲本潤一(フルハム)らと契約するようなFIFA公式代理人にはならなかったと断言し、しみじみと回顧した。

「本田からヴェルディに移籍する時(91年)、2人で、プロとしての生活をスタートさせるために、経堂(東京・世田谷)の不動産を何件も回ったことを思い出します。サッカー界全体の誰もが、プロが誕生するエネルギーに溢れた時代で、北澤に出会えたことでここまで引っ張られたことは間違いない。彼との仕事を通して、相談ではダメなんだ、交渉にしなければ、と公式代理人を目指しましたから。ヴェルディでも、尊敬し慕った先輩がいなくなってしまい、代表でも、結局W杯のピッチに立てなかった。でも彼から聞いていたのは、いつでも、前を見ている話ばかりだったなと思い出していました。後悔とか、人への恨みとか、疑念とか、そういうのではなかった」

 11月から引退について、相談をしたいのだろうとわかる電話は何度もかかってきた。しかしお互い、どうしてもそのことに触れられず、いつも「他愛のないバカ話を笑いながらして、切ってしまった」という。1月上旬の電話で、「キーちゃん、僕に引退をしろ、と言って欲しいのかもしれないけれど、キーちゃんの引退について、自分は代理人として客観的な仕事ができない。申し訳ないけれど」と切り出すと、北澤は「本当にありがとうございました」と、静かに言ったという。
 引退会見までに費やした長い時間は、プレー同様、決断にも全力を注いだ結果である。

 98年12月、6月2日、代表に漏れて帰国したあと、一切コメントをしていなかった時期に「フランス」について話した時の言葉は今も忘れられない。中央アジアでのアウェーで苦境に立ったW杯アジア最終予選、岡田武史監督は北澤をピッチに呼び戻した。負ければ終わりという崖っぷちでの任務は、国立でのUAE戦で先発フル出場の重責。ホームだからこそ、異様なプレッシャーがかかるこの試合で引き分けたことが、W杯出場への本当の意味での逆襲となったが、W杯代表から落ちることになる。
 しかし北澤は、「代表とは家族だから、自らの損得や自我とは別に結びついていなくてはならない。クラブでのプレーは全く違うものだ」と、爽快な表情で言った。代表は家族、とした彼のコメントとその姿勢は、あの時フランスに残った選手たちに、間違いなくとてつもない無形の財産を残したはずである。ともに代表から外れた市川、オランダでプレーすることになった小野ら10代だった2人はのちに、「練習中、どんな日もどんなメニューでもみんなを引っ張り、温かく心に響いたコメントも、一生忘れられない」と話している。

 率直さや、がむしゃらと自らが表現する懸命さといった、彼がサッカーに注いだエネルギーは、平常時以上に、むしろ非常時にこそ、誰もが頼りにしていた特別な栄養素だったように思う。もちろん、引退を発表した日でさえ、楽しみや期待といった未来へのエネルギーを人々に与えてくれる、とびきり強力なビタミンである。



読者のみなさまへ
スポーツライブラリー建設へのご協力のお願い


BEFORE LATEST NEXT