5月17日

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サッカー

W杯日本代表メンバー発表
(東京・東京プリンスホテル)

 サッカーW杯に向けて日本代表チーム登録メンバーが、この日発表された。選ばれた23人は下の表の通り。

トルシエ監督のコメント:
「最終のメンバーリストは、私と私のスタッフの考えたプロセスの結果であって、少しの驚きのあるものではありません。4年前からの長い過程の論理的な結果で、この最終リストはとりわけ人間性を持った選手たちのリストです。私は、この長い4年間を通じて伝えようとしてきた、いろいろな人生の価値観を守らなければならないと思っています。このグループは、フィジカル・技術・戦術、そして精神的なバランスを尊重した結果であって、経験の反映によるプライド・野心・才能の象徴だと思います。このグループは、日本を代表するミッションと責任を持たなければなりません。私は、私が選んだ選手たちを完全に信頼しています。私からは、自分のサッカーを信じてやること、選ばれたことに対して自信と誇りを持って、必ずベストを尽くすことを選手たちに望みます。選ばれた選手たちは、残念ながら選ばれなかった選手たちへの尊敬の表現として、最後の最後までこのミッションが終わるまで高い集中力を持続し、責任感を持って欲しいと強く思っています。最後に、日本代表のサポーター、ファンの皆様、代表を支えてくれる友人たち、関係者の皆様、日本代表への強力なご支援を宜しくお願い申し上げます」

小野伸二(フェイエノールト)「2回目のW杯となるので、責任と自覚を持って大会に臨みたい」

■サッカー日本代表メンバー
pos. No. 選手(所属)        生年月日 身長/体重 出場試合 得点
GK 1 川口能活(ポーツマス)* 1975.08.15 179cm/78kg 53 0
12 楢崎正剛(名古屋)* 1976.04.15 185cm/76kg 18 0
23 曽ケ端 準(鹿島) 1979.08.02 186cm/78kg 2 0
DF 2 秋田 豊(鹿島)* 1970.08.06 180cm/78kg 38 3
6 服部年宏(磐田)* 1973.09.23 178cm/73kg 37 2
4 森岡隆三(清水) 1975.10.07 180cm/71kg 32 0
17 宮本恒靖(G大阪) 1977.02.07 176cm/70kg 11 0
3 松田直樹(横浜FM) 1977.03.14 183cm/78kg 29 0
16 中田浩二(鹿島) 1979.07.09 182cm/74kg 26 0
MF 8 森島寛晃(C大阪)* 1972.04.30 168cm/62kg 61 11
15 福西崇史(磐田) 1976.09.01 181cm/75kg 11 0
7 中田英寿(パルマ)* 1977.01.22 175cm/68kg 42 7
14 三都主アレサンドロ(清水) 1977.07.20 178cm/69kg 5 1
21 戸田和幸(清水) 1977.12.30 178cm/68kg 15 1
20 明神智和(柏) 1978.01.24 173cm/66kg 22 3
19 小笠原満男(鹿島) 1979.04.05 173cm/68kg 5 0
5 稲本潤一(アーセナル) 1979.09.18 181cm/75kg 29 1
18 小野伸二(フェイエノールト)* 1979.09.27 175cm/74kg 26 2
22 市川大祐(清水)** 1980.05.14 181cm/68kg 6 0
FW 10 中山雅史(磐田)* 1967.09.23 178cm/72kg 47 21
11 鈴木隆行(鹿島) 1976.06.05 182cm/75kg 16 3
9 西澤明訓(C大阪) 1976.06.18 180cm/71kg 28 10
13 柳沢 敦(鹿島) 1977.05.27 177cm/75kg 26 9
    注)*=前回大会(98年、フランス)でも代表に選ばれた選手。
      
    **=前回大会では選ばれなかったが全日程に帯同した選手。


    ◆質疑応答(2002年強化推進本部・木之本興三副本部長)

──木之本さんの今のお気持ちは
木之本 サッカー界では、誰にも何か言われずに監督が自ら選手を決断するということが伝統的に守られている。監督が、スタッフから十分な情報を集めた結果で判断したと、考えていただいて結構です。

──選手は欧州で心身ともに大変疲れているようですが
木之本 私がコメントする立場にない。欧州遠征も監督が構想通り進めた結果です。全員一丸となっていい結果に向かって頑張ってほしい。

──ベテランの復帰について
木之本 やはり、4年、3年半、その間にJリーグの試合、代表の試合、合宿を見て、チームにそういう(ベテランの)力が必要だと判断したのだと思います。

──発表後に、リザーブを備えている国もあるが。
木之本 50人が代表チームの(潜在的な)メンバーであると、監督は就任し続けてから言っている。仮に怪我があった場合には、すぐに連絡できて招集できるホームの利はある。そういう気持ち(外れた選手の心構え)は持ってもらう。

──経緯は
木之本 まず3時15分頃、電話で聞いて(発表のリリースを)作った。選手各クラブのみなさんには発表の5分前に、ファックスで連絡をした。

──木之本さんの感想は
木之本 私は順当な結果だと考えている。そのために国内のリーグを重ねてきたわけです。秋田さんと中山さんですし、彼らも当然、臨戦体制には入っている。そういうことでこの人選になったと思う。

──なぜ中村俊輔が外れたか
木之本 基本的には、落ちた方のコメントは一切言わない。これが強化本部とトルシエ監督との取り決めになっている。

──このメンバーで大会をどう考えるか
木之本 ホームとして、一次予選突破が最大の目標です。Jリーグをあげてそう願っている。


    ◆発表までの経緯

 発表後、トルシエ監督と直接電話で会話をした加藤・強化推進部長が、やりとりや経緯についての詳細を明らかにした。
 これによると、パリから加藤部長の携帯電話に連絡が入ったのは、予定していた3時から15分遅れた3時15分だったという。そこで、監督は淡々と選手の名前を英語で伝達。監督はFWから「フォワード4人……」といった形で選手名を呼び始め、今回のメンバー23人でもっとも最初に名前を呼ばれたのは、中山だった。FWから、MF、DF、GKの順番だったそうだ。
「間違いがないかを復唱し、パリでも広報(加藤プレスオフィサー)が確認をしてくれているので大丈夫なのですが、やはり緊張はしました。監督は淡々と名前だけ言っていました」と、加藤氏は説明。ここで名前を書いたリストを作成し、選手の所属クラブへは発表5分前に連絡するという、情報の管理、秘密漏れを徹底的に防御した形式を取った。

 ノルウェーのオスロで合宿を終了した際、試合後、監督がミーティングを行い、「ここにいる選手全員に優劣がつけられるものではない。みな素晴らしいサッカー選手であり、私が監督でなければ選ばれる選手が大勢いる。そのことを忘れないでほしい。今は、全員がとにかく疲れているので、17日に選ばれた選手はとにかく体をゆっくり休めて、リフレッシュしてから出てきてほしい。落ちた選手へのコメントは、マナーとして、失礼をしたくない」と、選手に伝えていたという。
 また、FWとしては日本で例のない背番号「10」を渡された中山については、基本的に「番号はこれまで使ったものを尊重する(※注:このため、中田、小野もそれぞれ7と18)」「空いた番号を使う」「10番の重圧に耐えられる選手」と協会側で選んだもので、監督の指示ではなかったそうだ。
 監督は18日のフランス対ベルギー戦を視察し、その後20日に帰国。21日から、25日のスウェーデン戦に向けての合宿に入る。


「700分の23」

 代表の名前が次々と明らかになっていく不思議な瞬間、ホテルの広間で感じたのは、中山や秋田といったベテランが入っていることへの驚きや、いよいよ23人が決定したのだという臨場感ではなく、喪失感のほうだった。
 4年前の6月2日、合宿を行っていたスイスのニヨンの正午、岡田武史監督が「外れるのは……」といって、カズ、北沢、市川の名前を呼んだときにも、まったく同じ感覚だったことを思い出し、胸が痛んだ。あのときは、ついさっきまで、アジア最終予選で80%にも湿度が及ぶ中でフラフラになって戦い、卵や椅子をぶつけられてバスに乗り込み、ジョホールバルで出場権を得るまで崖っぷちを何度も踏み堪えてきた、その先頭にいたはずの2人が突然いなくなった。誰ならいいという問題ではなく、誰でも、いた人間がいなくなることがどれほど大きな「喪失感」をもたらすのか、正直、想像できなかった。もちろん、「プロだから当たり前、なに、あまっちょろいことを言っているんだ」と片のつく話だろう。しかしこの日、あのとき、とても「プロだから」では扱いきれなかった気持ちが、4年ぶりに蘇った。
「落ちた選手のことは話したくない」と監督は話し、協会もそう決めているとする。落とした選手の論評などすることもないし、選んだ人間の苦悩の表現として、マナーとして、少しも間違ってはいない。
 しかし、取材する者としては、選ばれた選手の論評や可能性ではなく、選ばれなかった選手のことを想いたい。選ばれた23人は、Jリーグの登録する選手約700人のほんの数パーセントにも過ぎないのだ。
 選ばれた選手には心からの祝福で十分だ。

 この日選ばれなかった選手の、「彼」はひとつのシンボルではなかっただろうか。テレビでは、車に乗り込む名波 浩(磐田)が「実力がなかったということです」と笑っていた。名波は、98年フランス大会が終了したあと、カズ、北沢、井原といった選手が代表から世代交代していく中、間違いなく意識をして、2002年までの先頭に立った。
 彼にインタビューした際、「6月2日」のことについて「何も感じなかった」と言った。もちろん、何も感じていないわけはないはずだが、それでも「あえて」何も感じなかった、としていた。
「本当に、カズさん、キーちゃん(北沢)のお陰で僕らはサッカーをやってこられたと思っている。けれども、それだけではダメなこともある」
 それだけ、とは、つまり感情に流され安易な言葉を吐いてしまうことだったと思う。あのとき、そして今も、中田英寿も一切コメントをせず、しかしあの大会が終わった直後からこの4年で、自らの目標をかなえるだけでは終わらない「何か」を日本サッカーにもたらした。
 名波はおそらく、4年前に感じた気持ち、「偉大なる敗者」たちの気持ち、プライドに本当の意味で応えるために、今度は自分たちが先頭に立って、この代表を引っ張るのだと決めていたのだ。そんなことを言葉にする選手ではないし、まして、それがもっとも苦手な男でもある。
 しかし、フランスのあと、ベネチアに行き、自らのプレーのクオリティを上げ、代表を、磐田を、引っ張っているプレーこそが、すべてだった。

 今22歳、フランスでは代表から落ち、今回も途中までは消極的な面もあった市川が昨年初めて候補に選ばれたとき、名波は「イチ、いくつになった?」と聞き「いいなあ、あと3回出られるんだもんなあ。伸びしろのないオレなんて悲しいもんさ」と、笑いながら声をかけた。今年30歳になる口下手なプレーヤーの、もっとも雄弁な励ましただった。
「若いんだから、なにを消極的になっているんだ、もっと積極的にやれよ、そういう代わりだったと、そのときすぐにわかりました。自分はなにを消極的に考えているんだろう、そう思い直しました」
 市川は昨年、名波の一言が自分にもたらした重みについて、そう教えてくれた。
「次は、きっと、伸二(小野)の世代のチームになるだろうね。上手いよ、彼らは。まあ、彼らが好きなサッカーをできるような、そんな土台を作っていければと思う」
 フランスでの第3戦、名波はそう話していた小野と交代した。
「いいか伸二、1点取ってこいよ!」
 交代する瞬間、小野の肩をたたいてそう言った。名波にとって、あの瞬間は、選手交代ではなく、もっと重い「交代」を意味していたのかもしれない。

 ひざの怪我はどれほど深刻だったか、今になれば誰もがわかるはずだ。選手として決断を要する手術、痛みを伴う治療、思うように治らないイラ立ち、止まってくれない時間。この1年は辛かっただろう。
 4年と4年の長い橋を、名波は素晴らしい仕事でつないだと思う。彼だけではない。多くの選手の、落選した選手たちのこうした「仕事」を、今日だけは深く考えておこうと思う。
 21日から合宿がスタートする。ここまで何度も何度も乗り換えをして、路線をつないできた列車は、今日をもって乗り換えも路線変更も最後となった。
 特急列車がゆっくりと、やがて加速し、1か月、猛スピードで駆け抜けて行く。



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