4月14日
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柔道
第25回全日本女子柔道選抜体重別選手権
(神奈川・横浜文化体育館)
第25回全日本女子選抜体重別選手権の48キロ級1回戦で、田村亮子(トヨタ)が16歳の福見友子(土浦日大高)に破れた(1分38秒に大内刈りで効果)。田村はこの大会12連覇をかけており、昨年7月にドイツのミュンヘンで行われた世界選手権で5連覇を果たして以来、約8か月ぶりの試合だった。国内では98連勝、国際試合を含めれば96年アタランタ五輪(決勝でケー・スンヒ(北朝鮮)に敗れて銀メダル)以来65連勝中だった田村の記録が途絶えた。しかし、田村を倒した福見は2回戦で真壁友枝(住友海上)に敗れ、48キロ級は真壁が27歳にして初優勝を遂げる結果となった。
田村より1学年上で、初優勝を果たした真壁友枝(住友海上)「勝って観客席に“ありがとうございました”と手を振るのが夢でした。田村さんが1回戦で負け、もちろん驚きましたが、これは自分には関係がないんだ、自分に集中しよう、と言い聞かせて決勝に臨みました」
――久しぶりの敗戦となりましたが
田村「悔しいというよりは練習不足でした。いい刺激になったと思います」
――福見選手ついて
田村「いい選手が出てきたと思います」
――先にポイントを取られ、焦りはあったか
田村「ひざのケガについては言い訳にしたくないが、今回は練習環境も50%ぐらいだった。次は調子を整えて、いい準備をしていきたい」
――これで連勝が途切れたが
田村「ここまで来ることができたことのほうが、柔道選手としてよかったと思う。いろいろな方々の力もあったし、先輩のみなさんのお陰でここまで来られたのです。心境としては、連勝が止まったとは考えてません」
――まだ早いが、今後について
田村「周りの雑音に惑わされないように、いい練習環境を作り、いろいろとやっていきたいです。正直、この大会も直前まで出るか出ないか迷っていました。これからは、この刺激をバネにもっといい柔道を目指していきたいです」
試合後、記者会見に臨んだ田村は、毅然とした表情でインタビューを終えると立ち上がり、「ありがとうございました」と報道陣に深々と一礼して会見場を去った。
1回戦で田村を破った福見友子(土浦日大高)「田村さんが世界チャンピオンだともちろんわかっていても、柔道でそこまで意識していなかったです。勝ったのは本当にうれしい。(2回戦で真壁に敗退したことについては)もっと力をつけて行かなくてはいけないです。
田村さんとの対戦では、効果を取ったあと、そこから取り返されるのではないかと気が抜けなかった。常に先に行かないとダメだと思い、組み手から入っていった。勝ってうれしいけれども、そこで満足してはいけないと思い、余り表情は変わりませんでした。田村さんとの対戦は初めてだったので、いつもと違うかどうかはよくわからないです。ただ、スピードはありました」
「一番欲しかったものを手にした日」
横浜文化体育館に湧き起こったのは、悲鳴であり、絶叫であり、ため息だった。日本選手相手、国際大会でも1996年のアトランタ五輪決勝後から8年続いた連勝が止まった瞬間、会場中の視線はただ1点に釘付けにされていた。一礼すると、田村は、結んでいた髪のゴムをふりほどいた。
田村亮子が敗れる日が4月14日であることは、半分予想され、半分はまったく予想されなかった。
予想された部分は「もしかしたら」といった曖昧なものではあった。高校2年の福見は、高校選手権を制して勢いに乗っており、体も恵まれ、左で組む技に切れが出てきたところだ。何より幸運なことに、「初対戦」で挑むことができる。怖さも、一度組んだら絶対に忘れることができないと相手が言うほどの恐怖感も、福見には一切関係なかった。考える必要がなかった。つまり田村には、現時点で考えうるもっとも嫌な相手だったと思う。
一方、予想されていなかった、いつも通りの部分を言えば、この大会12連覇を狙うチャンピオンなら、ひざの怪我が万全でなくとも勝つことはできる。老獪な手を使えば、12連覇は田村のものであるし、技術的な幅の広さからいっても、福見と田村の比較は不可能であるから。しかし田村は開始から1分38秒、福見の大内刈りで効果を奪われ、ポイントを取り返すことができなかった。
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5分間福見を見ながら、田村がバルセロナ五輪に挑んだ同じ16歳のころを思った。そして福岡国際女子柔道で中学生でデビューした田村と、その柔道を思い出した。福見よりも身長ははるか20センチ近くも低く、体そのものが小さく、華奢だった。しかし当時もすでにわかっていたことだが、体の小ささ、か細さ、非力さに比べ、彼女の魂はやたらと太く、強靭だった。
敗れた瞬間、あまりの長きに渡って彼女が負けていなかったことがどれほど異常な状態であり、本来スポーツにおいて、こんなことは起き得ないストーリーだったのだが、それが日常化していたことの怖さに、目が醒めた気がした。同時にデビュー以来、800メートルを走るかのようなスピードと苦しさを伴った日々を、走り続けたことを思ったとき、なぜか心からほっとした。失礼を承知の上で、勝負師にとって自分を倒す相手がいないことがどれほど孤独で辛い戦いかを思い、「これでよかった」とも思った。敗れるか引退する以外、もはや彼女の連勝記録という「過酷な財産」を止める手段がなかったからである。このまま勝ち続けることは、来年の世界選手権や、2004 年のアテネ五輪へのプラスの材料とはとても思えなかったからである。
「いい選手が出てきました。いい刺激になりました」
彼女が、会場でなわれた会見でしたコメントは、田村がこの何年、連勝記録を更新するたびに喉から手が出るほど欲しながらも、しかし勝ち続ける限り決して手にすることも引き換えにすることもできなかった「願い」への、実に率直な気持ちが表現されていたと思う。
普通のアスリートたちと同じように、敗戦をバネにするという、実にシンプルで当たり前の願いである。
「環境が50%だった。雑音に惑わされた自分が弱かった」と田村は言った。肖像権をめぐる、JOC、全柔連といった周辺の慌しさは確かに勝負をかける段階では歓迎すべきものではなかったはずだ。ひじの怪我も良い状態ではなかった。
しかし、負けは負けで、それ以上でもそれ以下でもない。ショックは本人が解決するもので、安易な慰めをすることもないし、同情も全く無用だろう。まして、世紀の勝利を挙げたはずの福見は、直後の2回戦で真壁に寝技であっさり敗れてしまった。
勢いがあっても、運があっても、それでも15歳の少女が大会で優勝をもぎとり、連勝記録を10年に渡って築き上げて来たことがどれほどのものだったか、皮肉な形ではあるが、それを誰もが悟ることになった、田村の、そして福見の敗戦だった。
試合後、中華街のホテルで祝勝会が残念会に変わって行われた。
「いい薬になったと思います」
そう挨拶したという。
会見で言った、外から受けた「刺激」は、わずか2時間後、すでにどこかに処方すべき「薬」に変わっている。
明日から、何をなすべきかすでに決めたということである。
ここからが、本領というものである。

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