9月に33歳になったばかりの弘山が、気温19度、湿度も45%、無風という好コンディションの中、久々に自分のリズムで1万メートルすべてをリードして走り切った。
レース前には、97年以来となる「自己記録」(31分22秒72)をも視野に入れていたというほどの好調さを裏付けるように、リストウォチをしてないにもかかわらず、1000メートルから5000メートルまで3分10ちょうどで刻む正確な走りを見せた。
後半5000メートルは、「一人で押して行くレースはあまり走っていないためにちょっときつくなってしまった」と、6000から7000メートルで3分13まで落ちたものの、一昨年のセビリア世界陸上1万メートル4位で見せたリズミカルなトラック走法が復活。同時に、マラソン転向、シドニー五輪最下位と、ストレスの高い目標を追い続け越えてきた疲労や不安を、一掃するような爽快な走りでもあった。
「本当に久しぶりに、私のリズムで走りきれたように思います。シドニー以来、目標を失いかけたこともありましたが、本当にようやくリズムが戻ってきました」
弘山はレース後、収穫を振り返る。繰り返していたのは「私のリズム」という表現である。
99年の世界選手権での4位を最後に、シドニー五輪マラソン代表を狙ってマラソンに転向。2000年大阪では、狙い通リ2時間22分56秒の好記録で日本人1位になりながら、日本陸連の選考によって3代表からは漏れる結果となった。その後は目標を1万メートルに変えて代表にはなったが、本番は周回遅れの最下位。以後、昨年のシーズンも、今年のロンドンマラソンも、怪我や調整不足に悩まされ弘山の持つスピード、切れ味、粘りといった持ち味が発揮されないまま終わってしまうレースが多かった。
走りそのもののリズム、そして、ランナーとしてどう競技に取り組むかというリズム、その両方の建て直しに成功した最大の要因は、やはり「ランナーとしての生い立ち」を追求して、原点に帰ったことではないだろうか。
もともと、トラックでの抜群のスピードを武器とする弘山は、たとえマラソンを走ったとしても、例えば、高橋尚子や山口衛里のような練習とはまったく違ったアプローチで42キロを目指している。
トラックとマラソン、間にある駅伝と日程に優先されると、どのパートの練習も不足する。しかし、この夏から米国の高地(標高1600メートル)のボルダーで合宿を本格的にスタート。トラックも、マラソンの練習も十分でなく、目標を失いかけた昨シーズンを反省し、「トラックでの走りで練習の基礎を作ってからロードへ積み重ねて行くように考えました」と、この日、第2コーナーで見守っていた夫の勉氏も「はじめにトラックありき」といった大原則を見直したと説明する。
トラックをいわばエンジンの回転数として、マラソン、ロードを両輪に回転させて行く、4WDのような車が、弘山晴美というランナーであり、他のランナーには決して真似のできない強さである。
マラソンは、9月に高橋尚子(ベルリンマラソン優勝、2時間19分46秒)、ヌデレバと(シカゴマラソン優勝、2時間18分47秒)2度も世界最高が更新される「激動」の時期にある。もはや1km3分20を切っていく、トラック並みのスピードで押し切らなくてはならないほど設定タイムが劇的にあがっている。高橋の記録を、「驚異的」と呼ぶにとどまらないほどの実力を、ほかの女子長距離選手が持っていることも、次のシーズンで証明されるはずだ。
「高橋さんのレースはやはり強いなと思うものがありました。私は、いきなりマラソンで2時間19分台というのではなくて、トラックでこの記録が出て、次は駅伝のロードである程度の記録を設定し、そしてマラソンの2時間20分突破が見える、という段階を踏んで行きたい」
弘山はそう話し、出場を予定する来年1月の大阪国際女子マラソンで、高橋、ヌデレバとはまったく違う条件で、女子だけの折り返しコースでの20分突破に狙いを絞りつつある。2000年の22分56秒も、低温、向かい風、なによりも勝負にこだわざるを得ない展開でなければ、20分突破の力は十分に備えていたはずだ。日本で行われる女子だけの折り返しコースは、ペースメーカーも女子、ガードランナーもつかず、しかも給水にも何の手助けもない。それゆえ記録がもっとも作りにくいと考えられる条件となるだけに、20分突破は大きなチャレンジとなる。
この日神戸の競技場に観客はいなかった。しかし31分39秒は今季の世界ランクでも10位相当の好記録でもあり、もっといえばその先に見えるマラソンの数字を占うことのできる価値ある記録でもあった。
あと3ケ月と2週間、2年ぶりに走る大阪女子マラソンでどんな記録が誕生するのか、大きな期待を生むための好記録であった。
11月3日、東日本女子駅伝で次のステップとなるロードが始まる。