学名のススメ(2)-7

ふじもり@えりー


学名・記載・命名・分類・系統に関する雑論
ちょっとだけ、蛇足。

学名は命名法という国際ルールに基づいて新しいタクソンの設立において用いられる道具である。
一言で分類といっても、現在では古典的な概念としての地球上の動物学的タクソンの解明だけが目的ではなくなっている。
分類は個々の分類学者によって異なるというのはすでに述べたとおりであるが、それが分類に対する考え方そのものが異なる場合がある。
生物界を何かにたとえるとすれば、いわば1つの完成した絵になるかどうかもわからない、絶滅によって現存しないピースがたくさんある不完全な、そしてもしかしたらそのような複数なジグソーバズルをごちゃ混ぜにして積み上げているものなのかもしれないのである。

生物界のジグソーパズルは、誰もその完成形を知らないのである。

人間はただ個々のピースを自然界から見つけ出しては名前をつけて、位置を定め、上下左右のピースを探る。
隣にどのピースがくるかというのは何を重視するかで変わりうる。
それぞれのピースの凹凸の形を重視する場合、ピース間の色の連続性を重視する場合、異なるパズルの場合その由来を重視する場合・・・。

何をもって種(単位)とするか?

というのは非常に難しい問題である。
種以上の階層性についても何をもって属とするか、族とするか、科とするか、上位のタクサを分類する根拠に統一性がない。
ある虫は良く調べられているが故に細分化されていてそのグループの枝は密なものになっているかもしれないし、あまり良く調べられていない虫は、他の種群とのバランスを考えたときに本来亜種とすべき分類が妥当なのに別種になっているかもしれない。
これまでの分類学では目で見てわかりやすい形態的特徴しか調べようがなかった。
現在では分子進化の概念が取り入られて、それぞれの生物が持つ遺伝子の配列に起こるランダムなミューテーション(変異)の蓄積が種を分かつという仮定のもとに、主にミトコンドリアDNAの一部の配列を比較することで、同一種群の変異幅や異なると思われる種間、近縁関係にある種群間の遺伝的距離というものを定量化することができる。
しかし、ほんの全体の1%しか調べないで正しい遺伝的距離を明らかにできるかどうかは疑問であるし、かたちづくりの遺伝子(ホメオティック遺伝子)が分かったところで実際の形をつくるその下流にある分子群の相互作用までは分からない。
所詮、遺伝子配列ですら種という概念を決定づける根拠とはなりえず、ものさしの一つである。
結局、人間がわかる範囲という御都合主義によって地球上の生物は分類されているに過ぎないのである。
定量化できるという点では形態の記述よりはずっとわかりやすいが、進化の方向性や遺伝子配列の変異に法則性があり、それがリンクしてなかった場合は、生物の分類は今以上にわかりにくいものになるだろう。
ましてやミトコンドリアDNAは母系遺伝である。
雑種の第一世代は母親との区別はできないという問題もある。

最近は、学問といえども世の中の役に立たなければ意味が無いと思っているひとが多いようである。
その是非は脇に置いておいて、 分類学が世の中の何に役に立つかといわれると、とりあえず目の前にいる虫を”体長19mm、幅4.3mm、頭部・胸部・エリトラの色は黒、腹面は黄色で・・・”などという冗長な表現をする必要がないように、記号化(関数化)した名前で呼べば便利というくらいにしか意味が無い。
無駄な記憶に時間を使わなくてよいとか、紙面上での無駄を省くという意味では多少の経済効果はあるかもしれない

実は動物命名法を理解しようとする間に沸き起こった疑問がある。
動物界のすべてのタクソンは学名とタイプによって定められていることはすでに述べたとおりである。
しかも、担名タイプの存在は重要である。
さて、ヒトはとりあえずHomo sapiensというありがたい学名を頂戴しているのであるが、カンの良い読者はもうお分かりであろう。

Homo sapiensのホロタイプあるいはシンタイプはどこに所蔵されているんだろう?
しかも、それはどの国のヒト?命名者は誰?

ぜひとも読者に形質人類学者がいたら聞いてみたい質問である。
アダムとイブは大英博物館あたりでホルマリンに漬かって保存されているんだろうなあ・・・。
でないと、Homo sapiensという学名を使う根拠がなくなってしまうではないか。

人間って本当に一種なの?(笑)

人間は記号が大好きな生物である。
毎日毎日記号と暮らしている。
学名だってラテン語というアルファベットの記号の文字列であり、ラテン語の意味がわからない人間にはわかりにくいただの記号の羅列にすぎない。
管理という意味においては、車のナンバーや星のように単純に記号で表したり、それこそバーコード(唯一無二の数字(記号)の羅列という点では電話番号と同じ)でも良かったのである。
もしリンネが二語名法を用いることなく、シリアルナンバーで個々のタクソンを呼んでいたとしたらどういう状況が生まれるか?
002010304095番と229392029943番はホモニムである(笑)。
もし、このような記号化をしていたら世の中の分類学者はみんな廃業しているに違いない。

同定identifyという作業は、何か基準がなければできない。
人間はその歴史のなかで”標準”という便利な道具をつくりだした。
つまり、1秒の標準、1mの標準、1Vの標準などである。
単位の基本となるものさしがなければ、たとえば時計を作る際、メーカーによって1秒が1.1秒であったり、0.9秒であったら大混乱を引き起こすこと間違いない。
もっとも、時間にルースな人はたいした問題にならない。
現在の時間に追われるファストライフというものは正確な時間を刻むようになったがために自らの首をしめているようなものだ。

生物も単位の世界と同じことがいえる。
学名というのは標準だと思えばよい。
あなたが採集した虫が規格化された標準と比べてみて、誤差範囲内に入れば合格として、同じ学名を使用してもよいということなのである。
この規格を定めていえるのが担名タイプである。
同定や分類には、これらの担名タイプをずらりとならべて仔細に検討するのが良いのであろうが、それは実際は不可能である。
たとえば、メートル原器(1mをさだめたものさし)は1個でなくいくつかコピーがあってそれぞれの国に保管されている。
最初のコピーがさしずめ原記載論文であるが、これは部数の分だけ存在するし、複写機を使えば無限に増える。
ただし、写真や文字は劣化し、標準としての機能を果たさなくなる。
ましてや、ご本尊であるタイプは乾燥しているとはいえ、有機物である。
カツオブシムシなどの標本を食べる害虫に食べられてしまうと跡形もなく消え去ってしまう。
原器がなくなってしまうと何が標準なのかわからなくなってしまう。
現にこのような混乱はあちこちで起こっている。
昔は記載という概念も曖昧であったり記述も不完全であったり(全体像が見えてないんだから何が種の違いを分かつポイントかもわからないで記載していたに違いない)、コピーである原記載がまるで役に立たないことがある。
やっぱりタイプを見ないとわからないことがあるのである。
日本のように高温多湿の環境では個人の所有する標本は管理が行き届かなければあっというまに粉になる。
ましてや、当人の死後その標本たちはどういう運命をたどるか?
これまで標本=虫の死骸(!)が家中を支配してきた状況を考えれば、それらの標本は主の死後冷たくあしらわれ、家族によって押し入れの奥に追いやられ、防虫剤も追加されずカツオブシムシの餌食となるのは目に見えている。
タイプの標準としての重要性を認識してか、現在では担名タイプは博物館等の公的機関に所蔵することが定められている。
記載・命名した本人の手元にはホロタイプもシンタイプも残らないのである。
ただし、パラタイプには担名機能がないので残してもよいということになっているらしい。
もし、この規定を守らない場合はその記載は無効となってしまうので注意が必要である。

最近考えていることがある。
人間は地球上ではかなり新参者である。
これまでにも多くの種が地球上で繁栄し、そして絶滅していった。
人間が知ってか知らずか絶滅に追い込んだ種もたくさんある。
共存できれば良いと思うのだが、そんなことはお構いなしで港湾工事をし、人工ビーチを作り、道路はアスファルトで埋め尽くし、山を切り開いて法面を覆い尽くし、ゴルフ場にする。
人間の生活とちいさな虫けらの生活のどちらを取るかといわれれば、それは人間のほうを優先するのが人間の一員として当然だろう。

虫には悪いが「人間のために死んでくれ」というのはまったくもって人間のエゴであるが、人間という史上最強の環境適応能力をもった生物の特性なのだから仕方が無い。

せめて、種が絶える前に地球規模でタイプを保存する公的機関をつくり永久に保存するというノアの箱舟プロジェクトとでも言うべき計画が実行されれば良いと思うのである。
まあ、世の中の役に立たない(=金儲けにならない)という理由でこんなプロジェクトは日の目を見ることは無い。
せいぜい物好きな生物学者がヒトゲノム計画よろしくすべての生物の遺伝子配列を調べ上げてDVDあたりに所蔵しておくのが関の山だろう。
もはや遺伝子配列を調べるのはロボットがやる作業であり、お金と時間とサンプルさえあれば誰でもできることなのである。
ヒトゲノムでノウハウを蓄積した、設備の整った企業などでは造作もないことである。
しかし、セレラジェノミクスのような営利企業は儲けにならないことはやらないので、やっぱり物好きな生物学者のヒマツブシに頼ることになる。
あと何百年かしたら遺伝子配列さえあれば生物を作り出せる時代がくるかもしれない。
そうすれば絶滅した種だっていつでもよみがえらせることができる。
ジュラシックパークは決して夢物語ではない。
残念なことに現在そしておそらく今後も酢酸エチルで〆て乾燥した標本からはゲノムDNAもミトコンドリアDNAも採取することは困難であり、現存するタイプから遺伝子配列を決定するのはちょっと無理だろう。
タイプこそが唯一の標準なのにその遺伝子配列を知ることができないのははなはだ不満が残るところである。
酢酸エチルで〆ずに、とりあえずエタノールに付けて一部の組織を取り出して遺伝子配列を解析し、残りをタイプとして保存する習慣が果たして定着するだろうか?
残念ながらジュラシックパークと違って私の夢物語は夢で終わるに違いない。

学名の話からだいぶ逸脱したのでこの辺で終わりにしたいと思う。

 

さいごに
長々と学名について簡単な解説を行った。
ここまで読んでこられた方はよほど根気があると思われる(笑)。
なるべく平易に解説したつもりだが、短い時間のなかで書き上げたので言葉足らずや曖昧な記述もあったかもしれない。
その点はお許しいただきたい。
まあ、こんなものでも、普段あまり気のとめない学名というものについて考えるきっかけにくらいはなったのではないだろうか。

現在使われている生物の学名の中には、かのリンネが命名した虫もたくさんある。
いまから200年以上も前の学名が変更されずにいまだに使われているのである。
自分の名前が200年もたって、そして今後も使われつづけるということは本人もきっと驚いているだろう。
いつかは自分の名前がついた虫が(たとえ一時的であっても)存在したら嬉しいだろうなあとは思うが、

学名は分類学者の虚栄心を満足させるために与えられるべきものではない

ただ、いつかは世界の誰もが認識していなかった虫を見つけ出し、自分がその虫に名前を与えることで日の当たるステージへあげてやりたい。
そんな風に思うこともある。

私はフィールドに出て採集することが大好きである。
体が動く限りフィールドに出て採集をしてみたい。
(虫採りが下手でぜんぜん採れないもんだから登山ばかりしているという話もあるが・・・)
他の人があまり採ることができない珍品と呼ばれている虫を採ることができるというのは誇らしく思えるだろう。
でも別に珍しい虫でなくてもよいのである。
どのみち、私には珍しい虫は採れないからだ。
ただ、これまで自分が見たことがない虫をはじめて手にしたときに

頭の中に沸き起こるクエスチョンマーク???、そしてタクサのラビリンスに迷い込む。

手元の資料をひっくり返してはあーでもない、こーでもないと考えつづけ、もやもやとした雲が次第にまとまっていってあるときピンと閃いて、

ん?この虫はAに良く似ているけれども、実はBと呼ばれている虫(と同じ)だ!

と分かった瞬間が楽しくてやまない。
これだから虫はやめられないのである。

(参考文献)

国際動物命名規約(第4版) 動物命名法国際審議会著 (2000)
日本産コガネムシ上科総目録 藤岡昌介著 (2001)
(謝辞)
この小文をまとめるにあたって、事前に読んでいただき私の愚かな間違いを見つけてくれたり、貴重な参考意見を言ってくださった私のPidonia師匠であるAK氏、弐十粍倶楽部他の多くの皆様に感謝します。

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