天上の姫、雲上の鬼を追い求めて

〜疲労困憊の夏期登山採集〜

[ブナ林からの眺望]

えいもん



 

1.無謀な採集行?

天候不順のうちに盆休みが過ぎ、クワガタ採集にいそしむ者にとって 空模様と同様に心の晴れない夏の日々が続いていたが、 8月も下旬に差し掛かる頃、ようやく日射しと暑さが盛り返してきた。 仕事の都合でまとまった休みがなかなかとれずに悶々とした気分でいる中、 久しぶりに快晴マークとなった天気予報を見て、 ゲリラ的に単発の休みをとることにした。

8月下旬といえばヒメオオやオニの採集シーズン。自宅からできるだけ近い場所で採集することを 標榜している自分としては(→くわ馬鹿2002年秋号「近場採集のススメ」)、多少の困難を伴うとしても、 神奈川県内の山を目指してみたいところだ。 しかし、神奈川県内でのヒメオオやオニ狙いの採集など、自分はこれまで試みたことさえ なかった。そもそも、県内でヒメオオをヤナギやカンバで採集したという話を聞いたことがない。 闇雲に出撃して、果たして都合よく見つかるものなのか。我ながらかなり無謀な気がする。 ただ、採集が困難であるとしても、それを自分で体験してみること自体に 価値があるであろう。心の中に若干の葛藤を抱きながら、特別保護地区を慎重に避けつつ おおまかな登山ルートを決め、夜明け前に起き出して高速を飛ばした。

2.登山開始

山間の日の出は遅いが、街灯の明かりは既に消えかかっていた。道中、ミヤマでも拾えないかと ところどころで探してみるも、結局それは叶わないうちに登山口に到着した。 まだ十分に早朝と言える時間だったが、身支度を整えて、早速登り始める。自身初の本格的な登山採集である。

ヒメオオを探すなら、1000m以上の高みを目指さなければならない。山間のヤナギでも、 標高がそこまでに至らないところでは、どんなに多くのアカアシが採れようが、ヒメオオが見られることは まずないようだ。この日の登山口の標高はせいぜい600m。 長く急な登り道を覚悟しなければならない。

3.想像以上に辛い山道

まずは開けた沢沿いを歩いていく。河原にヤシャブシの若木が群生していたので、試しに手当たり次第に 揺すぶってみたが、実の他は何も落ちてこなかった。足元にはところどころに割ってみたくなる ような材が転がっていたが、標高が低いうちから時間と体力を使うことは得策ではないと思い、 尾根を目指して先を急ぐこととした。

沢沿いから林の中に道が入り、植林帯を抜けると、ひたすら急坂が続くようになる。 好天がかえって災いして、高い気温が山登りにはきつい。時折セミの鳴き声が聞こえてくるが、 山のセミではなく、ミンミンゼミ。余計に暑さが感じられてしまう鳴き声だ。

[山道の林]

登り道の林

周りの植生は、ブナも見られるが、その他にもいろいろな広葉樹がある。しかし、ヤナギや カンバは見当たらない。密度の濃い林内で日陰も多いため、この山道沿いでは クワガタは期待できないだろう。そもそも急な山道を登るのが精一杯で、途中で探索を始める余裕などなかった。

4.ブナ帯に辿り着く

ふーふー言いながら、1000mを越えた尾根までとりあえずたどり着く。早くもへばり気味だったが、その思いが吹き飛ばされる ほど、そこからの眺望が素晴らしかった。やはり、少しくらい暑くなろうとも、好天の日を選んだ甲斐があったというものだ。 他に登山者はまったくいないので、静かで孤独な休憩となった。周囲には、潅木が多く探索できるようなブナ林がまだ 見当たらない。もう少し登っていかなければいけないようだ。しばらく休んだ後、登山を続ける。

[尾根からの眺望]

素晴らしい眺望

先行者の気配はなく、シカの足跡がくっきりと残る道を、とにかく登る、登る。すると、尾根伝いにブナ林が広がるようになる。 雰囲気はいい。しかし、ヤナギなどのクワガタがつきそうな木は相変わらず見当たらない。 道は当然のように登り坂が続く。苦しい。適当に小休止をとりながら、あせらずに進むこととする。

[ブナ]

稜線にブナ林が広がる

途中で、湿気が多くて割りやすそうなブナの倒木があった。オニがいそうな材だが、時期からすればもう成虫が 抜け出た後かもしれない。とりあえず、少しだけ割ってみた。すると、直ぐにクワガタの幼虫のものらしき食痕が現れる。 オニかと期待したが、食痕を追って出てきた幼虫は、スジのようであった。採集しないで埋め戻す。他に見えている同じような 食痕もスジなのであろう。それでもう割るのをあきらめた。とりあえず全くのボウズは回避できたという安堵感と、 ここまで登ってきて目ぼしいものは果たして見つかるのかという焦燥感が、微妙に織り交ざった気分だった。 しかし、まだ時刻は朝のうち。先は長い。

[スジ幼虫]

残念ながらスジ幼虫

5.鬼との遭遇

またしばらく登山。ところどころで若いブナの木や樹種不明の広葉樹を揺すってみるものの、 何も落ちてはこない。クワガタがつくような樹液の出ている木はないのだろうか。

やがて、立派なブナの立ち枯れに出会う。まるで台場クヌギのような形をしたブナだ。 日当たりも風通しも文句のない位置にあったので、これは何か昆虫でも見られないものかと期待して、立ち枯れの 幹の表面を注意深く観察した。すると、いた。オニ♂だ。鈍く黒光りする小さな雄姿。なにはともあれ、まずは自然のままの姿を デジカメに収める。さらによく目を凝らすと、樹皮の裂け目の苔の合間にオニがもう1頭いる。やはり♂である。 幸運にも、2頭のオニクワガタの成虫に巡り会うことができたのだ。

[ブナ立ち枯れ]

目を引くブナの立ち枯れ

[オニ♂1] [オニ♂2]
   
オニ♂が見つかる 樹皮の隙間にも

登山の厳しさ、体力の無さを痛感していたのだが、これで俄然やる気が出てきた。 活力を再び体にみなぎらせて、登り道を歩き続ける。途中で太い立ち枯れや倒木を見つけるたびに幹の表面を慎重に 観察してみるが、残念ながら何も見つからない。

6.同定不能の蛹

しばらく登っていくと、また割りごろに見えるブナの倒木に出くわす。歩き疲れていたこともあり、腰を下ろして 少し割ってみることとした。思ったより固い材ではない。食痕を追っていくと、やがて3令幼虫が出る。どうせアカアシかと 思って顔面を見ると、第一感としてはアカアシに見えない。どちらかといえば、大きめなコクワだ。ここは、標高にして 1200−1300mだろう。こんな場所にもコクワはいるものなのか。よもやヒメオオとも思うが、ヒメオオ幼虫の飼育経験のない 自分は幼虫の特徴がよく分からないため、ヒメオオとの期待は全くあてにならない。うまく育てられる自信はないが、 とりあえず持ち帰ってみることとする。

別の食痕を追っていくと、こんどは、なんと蛹が出てしまった。同定のためにそっと表に返してみると、残念ながら、♀。 これでは同定不能だ。前肢の特徴からするとヒラタではないことは分かるが、それがこの場所で何の助けになるだろう。 デリケートな蛹を生きたまま無事に運んで育てられるものとも思えなかったが、これも持ち帰ってみるしかない。 少し湿らせたティッシュとともに、その蛹をルアーケースに注意深く収める。
 

[不明幼虫] [不明蛹]
   
不明幼虫(ちょっとピンボケ) ♂ならよかった不明蛹

7.姫はいずこに?

その後は、ひたすら登山。自分が選んだルートでは、1500mを越えるところまで登ることになる。登り坂の山道がダラダラと続き、 疲労感がジワジワと襲ってくる。小休止の間合いが思う以上に短くなっていく。クワガタ探索の余裕を失い始めてきた。 それではいったいここまで何をしに来たのかとも思うが、体力がついていかない。

途中で花に集まる数頭のアサギマダラに出会えたのが、大きな救いだった。この美しい蝶を間近に観察できたのは初めてだ。 嬉しくなって、デジカメに写真を何枚も収める。タテハチョウの仲間にもしばしば出逢うことができた。ルリタテハは、 ブナの根元近くから滲み出ていた樹液に、無数の小さなハエとともについていた。

[アサギマダラ]

アサギマダラの吸蜜

標高が1100-1200m以上の場所では、稜線を挟んでブナ帯が延々と続いていた。果たしてこのブナ帯にヒメオオはいるのか、 いるとすれば、この時期に活動をしているはずの成虫は、いったいどこに潜んでいるのか。何本もの生木を揺らしても、 立ち枯れや倒木にじっと目を凝らしても、もはや全く何も見つからない。ブナの樹液らしきものを確認したのは、 ルリタテハを見た一箇所だけ。そのような樹液にクワガタがつくこともあるのだろうか。ところどころで道端に寄り道を しながら歩き続けているうちに、体力はますます消耗していった。

[ブナ林]

ブナ林が延々と続く

8.疲労の極み

まだ下山にかからないうちから、急にガスが出始めた。それとともに、自分の心の内側でも天候急変への不安が湧き上がってきた。 山の中で雷雨にでも遭ったらたいへんだ。先を急がなければならない。しかし、足が思うように動かない。まさに、ヘトヘトと なっていた。雲がどんどん厚みを増している中、時間のロスは痛いが、途中で15分ほど横になって目をつぶり、じっと 体力の回復に努めたりした。初めての登山採集にしては、選んだルートがやや無謀だったのかもしれない。しかし、今さら 後悔してもどうしようもない。とにかく無事に下山することに専心することとした。

[天候急変]

天気が怪しくなってきた

ようやく下山ルートに辿り着く。あとは重力を利用して下りて行く一方だ。ところが、登りもキツいが、下りもさらにツラい。 急坂を下りる際、既に歩き疲れた爪先が踏み出すたびに痛み、膝には思うように力が入らない。ここで、初めて他の登山者に すれ違った。登り途中の先方も疲れきった表情で、道の険しさを物語っていた。当方はそれを一気に下りて行かなければならない。 天候はますます怪しくなってきた。

9.悲惨な下山

やがて大粒の雨が落ち始め、雷鳴もとどろき始めた。朝はあんなに天気が良かったのに、最悪だ。雨足とともに、自分の足も 速めざるをえなかった。そのルートをだいぶ下りた標高800mほどのところに、アカアシが採れるヤナギの河原がある。 そのために多少とも無理して選んだ下山ルートだった。しかし、この大雨では採集しようがない。木を蹴ってアカアシが落ちて きても、音を聞き分けることができるはずもないからだ。泣く泣くそのポイントを通過していった。疲労困憊、ズブ濡れ、失意・・・。 眼鏡のレンズに汗まじりの雨水が伝ってくるのがうっとうしいので、眼鏡を外して歩いた。景色すらぼやけて見えなくなった。

[雨景色]

雨模様

こんな悲惨な下山のうちに、ほうほうの体でようやく駐車場に辿り着く。皮肉なもので、車に着くと、雨がほぼ上がってしまった。 しかし、疲労のため、もうそれ以上何もする気にはなれなかった。せっかく持ってきた蛹も、リュックの中であれだけ揺さぶられては、 たぶんダメであろう。まあ、なんら経験なしに登ってみて、初めてオニ成虫を自然の中で確認できたのだから、それだけでも 十分に満足しなければならない。そんな気持ちで帰路についた。

10.クライマックスは突然に

持ち帰った不明の蛹は、幸運にもかろうじて生きている風だったので、ルアーケースのまま、我が家で最も涼しいと思われる 場所に、ビンに詰めた不明幼虫とともに置いておいた。今までの経験によれば、期待するとロクなことはないので、 知らん顔して放っておくことにした。

10日以上経って、ふと確認してみると、蛹が色づき始めている。羽化に向かっているようだ。それから数日後に再び確認 すると、既に羽化を遂げていた。小さな♀。全身まだ赤茶色であった。コクワかと思ったが、どうも違う。アカアシとも 形が違う。これは、もしかすると・・・。半信半疑で画像に収め、あいあん氏にメールとともに送り、 同定を依頼する。ほどなく、「ヒメオオ」との返事。なんと、自分は神奈川産ヒメオオを採集していたのだ。 初めての登山採集でヒメオオに遭遇できた、何という幸運。あれだけの悪路に揺られても耐え抜いたヒメオオ蛹の生命力に、 ただただ感謝するばかりだ。当初の目的であったヒメオオ成虫採集の望みは叶わなかったが、十分すぎるほどの成果となった。

[ヒメオオ♀]

羽化直後でまだ茶色いヒメオオ♀

11.残された課題

それにしても、と思う。これだけあっさりとヒメオオが採れてしまったということは、神奈川県内でも標高1000mを越すあたりの ブナ帯では、案外ヒメオオは濃いのかもしれない。それならば、成虫はどこにいるというのだろう。ヤナギやカンバが 見られない場所では、成虫のホストの木はいったい何なのか。

その数日後の9月中旬の日に、再び同じルートを登ってみたが、結局のところ、ヒメオオ成虫の在り処についてはヒントすら 掴めなかった。容易ならざる課題を背負ったまま、また来年の晩夏〜初秋を待つしかない。


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