ちょっと注意深く見れば、先の例で出てきた引用された著者(=記載者)とその発表論文の年号をみて、あれ?おかしいなあ?と疑問に思う人がいるだろう。
ある学名の場合は、丸括弧に入っているが、ある虫の場合には括弧でなくそのまま学名に続いて引用されている。
これはその著作の印刷上の間違いだろうか?
いやいや、これにはちゃんと意味があるのである。
クワガタの例をあげて見よう。
(A)
Prismognathus angularis angularis Waterhouse,
1874
(B) Prismognathus dauricus (Motschulsky, 1860)
同じオニクワガタ属の、しかもほぼ同じ年代に記載された虫であるオニクワガタ原名亜種(A)と、日本では対馬に生息している大陸系のキンオニクワガタ(B)である。
(A)は記載者名が括弧に入っていないが、(B)は括弧に入っている。
これは、最初に記載されたときと学名が変更されているかいないかの違いである。
Motschulskyさんが、キンオニクワガタを最初に記載したときは、実はこの名前ではなく、
(C)
Metopodontus dauricus Motschulsky, 1860
という学名を与えたのであった。
その後、Didier&SeguyによってキンオニクワガタはMetopodontus属ではなくて、Prismognathus属が適当であるということで、属の変更が行われた。
したがって、種小名は同じであるが
属名が違うので、学名としては記載された当初とは別の虫であるかのように見えてしまう
そこで、著作権の引用を括弧に入れることで、誰かが最初に記載された当時の属から現在表記されている属に移されてきたんだよ、ということが分類学者には分かるようにしているのである。
このように、学名は刻一刻変化するのである。
最近、学名の変更があった例をあげて見よう。
これまで日本のPidonia属はPidonia,
Cryptopidonia, Mumon, Omphaloderaの4亜属に分類されてきたが、2003年、窪木によってオヤマヒメハナ、チュウジョウヒメハナ、フジヒメハナの3種がそれまで属していたCryptopidonia亜属より分離されてPaleopidonia亜属に所属することなった。
したがって、現在のオヤマヒメハナ、チュウジョウヒメハナの学名は
Pidonia
(Paleopidonia)
oyamae
(Oyama, 1908)
Pidonia (Paleopidonia) chujoi Ohbayashi et Hayashi,
1960
というように変更された。
しかし、頭文字が同じPなので、省略形で書くと
P.(P.)
oyamae
になる。
勝手な想像であるが、同じ頭文字の学名を適用したのは、亜属名変更にともなう混乱を最小限にするよう配慮したのかもしれない。
この3種が属するPaleopidonia亜属は日本特産である(現在知られている限りでは)。
属が移されたわけではないので、著作権の表示はそのままである。
種小名はその名前が無効でない限り(同一と思われる虫がすでに記載されていたり、同じ学名の虫がすでに存在していたり、命名法上不適格であったり)永遠に残ることになる。
また、最初の記載者がその種をその記載した時点でいまだ記載されていなかった新種であった場合にはその著作権は括弧に入ろうが入るまいが(すなわち属が変更されようがされまいが)有効である。
古い知識しか持ち合わせていないと、同じ虫のことを言っているのに違う名前で呼びあうことになって、いったい何の話をしているのか分からなくなるだろう。
なるべくなら学名が頻繁に変更されないよう、分類学者は十分に研究・考察を行うべきであるが、分類学者によって分類が進む以上、学名の変更は常に起こりうる。
素人の我々はある止まった時間、つまり一番考えられるのは多くの人が共有するようなまとまった図鑑が作製された時点で、その虫の名前を覚えるのであるが、それは今となっては違う学名になっているかもしれないということは念頭におくべきである。
しかも、その学名は異なる分類体系を主張する分類学者(どの世界にも異端児は存在する)によってそれぞれ異なっているのである。
ややこしいので著作(図鑑を含む)ではもっとも一般的な分類なり自分が信じる分類体系に基づいてその学名を用い、引用するのである。
さらに身近な例を3つあげてみよう。
我々がオオクワガタと呼んでいる虫にはいくつか学名がある。
(A)
Dorcus hopei binodulosus
(B)
Dorcus curvidens binodulosus
(C)
Dorcus grandis binodulosus
古い図鑑だと(A)を使っていることが多いが、最近は(B)のほうが多いかもしれない。
日本のオオクワガタはcurvidensの亜種だと考える分類学者は(B)を
いや、grandisの亜種だと考える分類学者は(C)を使うだろう。
(ただし、(C)の記載があるかどうかは定かではない、あくまで例である。D.grandisと日本産オオクワガタは交雑するのでそう考えてもいいだろう)
どれかが正しいかもしれないし、どれも正しいかもしれないし、どれも正しくないかもしれない。
あなたはどう思いますか?
水沼はD.hopeiとD.curvidensが1本の木から同時に採れたという故北脇氏のエビデンスを元に、D.hopeiとD.curvidensは別種であるという分類的立場を取っている。
よって、日本に産するオオクワガタの学名としては(A)の
Dorcus
hopei binodulosus
が適格であるとしている。
この立場を取る場合、(B)を日本産オオクワガタの学名として使用することは誤りである。
(D)
Dorcus titanus pilifer
2番目の例であるヒラタクワガタは結構問題を抱えた学名をもつようである。
Boisduvalが1835年にスラウェシのヒラタクワガタを元に記載したのが始まりであるが、実は、このときはLucanus属のtitanusというのが最初の学名であった。
その後、各地でそれぞれヒラタクワガタが発見され記載されていった。
結局、現在では水沼の世界のクワガタムシ大図鑑にしたがって(D)が用いられているが、基亜種はスラウェシである。
もし、スラウェシと日本のヒラタクワガタが同種異亜種の関係であるとすると、地理的に中間に位置しているジャワのbucephalusの種小名のほうが記載年度が古いので(これを先取権の原理というが詳細は第二回で述べる)
(E)
Dorcus bucephalus pilifer
としなければならないというのだ。
そもそも、外見上の差異のみならず、交尾器の決定的な差異を見てしまうと、オオクワガタとヒラタクワガタは明瞭に区別しうるのでDorcus属に入れるのは不適当ではないか?・・・と個人的には思っていたりする。
最後に、すでに良く用いられてしまっているスジクワガタの学名
(F)
Dorcus strianipennis
であるが、実は
(G)
Dorcus binervis
のほうが、先に与えられている名前なので日本のスジクワガタには(F)ではなくて、(G)を用いるべきである。
このように、命名規約のルールに適している学名の中でどの学名を適切と考えるかは、
その人がその虫を分類学上どのように位置付けているか
ということの現れでもある。
とにかく、我々は分類学者ではないので、いちいち学名の変更については追跡することは不可能だし、必要も無い。
大勢の人が使っている名前をとりあえず使っておこう。
別に最新の名前でなく古い名前しか知らなくたってかまわないではないか。
愛好家としては、新しい図鑑なりリビジョンが広まって、最新の学名を使わないと混乱するようなときが来たら、また覚えなおせばよいことである。
知識として、違う分類をしている人がいて、そういう場合には別の名前になっていることを知っておけばよいのである。
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