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私が宗教信者が酔っ払っていると思うのは、なんのてらいも無く「自分達は正しい」と思っている事である。単に私が「正しい」という言葉が嫌いなことと、決して自分を「正しい」と思えないことが原因だろうが、自分達を「正しい」とすることで相対的に他者を否定していることを、彼らは気がついているのだろうか。。そしてそれは争いの火種になり、大きくなると宗教戦争に至る事は言うまでもない。宗教戦争がどのような結果をもたらすかは歴史が語っている。十字軍然り、欧州の南米進出然り。これは言い過ぎかもしれないが、歴史上で大量虐殺が行われる場合、必ずといっていいほど異教徒に対してなされる。異教徒を自分たちよりも野蛮で低い者と思うことで罪悪感を軽くしているのであろうか。 もうひとつ彼らが気がついていないと思うことがある。 それは教義が、いや、経典が今日に至るまでに変化していることである。聖書を例にとってみると、文学として翻訳されている旧約聖書、つまり時代的に古いものを訳した旧約聖書と、経典としての旧約聖書を見比べてみるとエホヴァの行いがずいぶんおとなしい。神が命じて行わせた虐殺やその他悪行は美化されているか、もしくは記述がない。たとえば高校のときに読んだ文学全集の中の巨大な旧約聖書(申し訳ないことにシリーズ名や出版社は覚えてない。近畿大学付属和歌山高校の図書館に蔵書されている)にはヨシュア記には神がヨシュアに命じてアマレク人の虐殺を行わせたことが記述されていたが、市販されている経典としての聖書には記述されていないことが多い。この辺りをキリスト教が好きという知り合いに聞いてみると、「昔の神は未熟だったが、今では神は成長しそのような事はしないとする学派や、その行為をしたのは神ではなく悪魔だとする学派がある」だそうだ。空いた口が塞がらないとはこのことだ。 それはともかく、コーランや仏典を複数読んだことはないが、おそらく同じだと思われる。ひとつの経典でも解釈が複数あるのは至極当然であり、解釈毎に様々な宗派、学派、学説が生まれるのは仏教を見ればわかるだろう。そして翻訳、解釈を経て少しずつ都合よく解釈が変わっていく。その変化は自然な変化であるかもしれないし、あるいは意図的な変化の場合もあるだろう。 友人の言った言葉に、こういうものがある。 「法華経は仏教の完成形であり、法華経以前の仏教はすべて法華経のために生まれてきた、未熟な仏教だ。法華経がいかに優れているかは、日蓮上人が法論(仏教の問答で、負けた人間は相手の弟子にならねばならないらしい)で負けなかったことで瞭然だ。」 この言をどう捕らえるかは人によって違うだろう。私は「自分達を是とする尊大な態度」と「多様な解釈の否定」だと思う。法華経は仏典の解釈のひとつであり某S価学会の教えは法華経の解釈のひとつにすぎず、某S価学会の教えが日蓮の教えと同じであるとは限らない。破門されたということは、少なくとも本家「日蓮宗」とは違うのだろう。法論云々も日蓮が大変な論客である証明であって教義が「正しい」ことの証明にならないと思うのだが、いかがだろうか。 |