再びアジアへ

スイスの高原の夏を堪能して、再びアジアへもどることに。
金がないので、再び陸路での旅。
バルカン半島を縦断して、トルコ、イラン、パキスタンまで戻ったときの記録。



 
 
 
 
 


目次
 #スイスからイスタンブールまで
 #イスタンブールからパキスタンへ。
 #パキスタンでうろうろ
#シルクロードへ
#砂漠、トルファン、敦厚へ
 



スイスからイスタンブールまで

    スイスのアルプスハイキングも満喫、さてカトマンズまで戻らねばならない。飛行機でさっさと帰るという手もあったが、チケット代が高いのでやっぱり陸路。
    8月20日、ツェルマットのキャンプ場をあとにする。ブリーグという街の駅で情報収集。イスタンブールまで電車で行きたいとインフォメーションの女性に伝えると、さっさっさと調べてくれて、ここでは、ギリシャのテッサロニキという街までしかチケットを買えないという。それでお願いすると、乗るべき列車にマーカーで印をして時刻表をくれた。親切。スイスのインフォメーションはどこでも有能で親切でした。
    真夜中、ユーゴスラビアのベオグラード行の列車に乗り込む。まだ、夏の観光シーズンで込み合っているが仕方ない。夜中、イタリアのパスポートチェックを受けて、朝、目を覚すと、トリエステの近く。なぜか列車が止ったまま。なんだなんだ。原因不明。しかし、窓の外は見渡す限り、ナラや樫などの森がどこまでも続いている。所々、きいろっぽい瓦をのせた家がが点在している。すばらしい。
    真夜中、首都であるベオグラード到着。ここで、アテネ行の列車に乗り換える。込み合っているが、なんとか横になることができた。
    翌日の昼過ぎ、ユーゴからギリシャにはいる。ギリシャ時間で3時40分に、テッサロニキに到着。駅で、イスタンブール行の列車について尋ねてみるが、翌朝の9時25分のものしかないという。で、ユースホステルに泊ることにする。街でユースの場所を尋ねた女性が、わざわざユースの場所まで歩いて15分ほど案内してくれた。オルガさん、どうもありがとうございました。
   9時25分の列車でサロニキを出発して、イスタンブールについたのが、次の日の朝早く。24日の朝だった。スイスからイスタンブールまで95$ほど使った。すぐに、イラン行きのバスチケットを買う。国境まで一番近いAGRIという街まで買うことにする。
 

イスタンブールからパキスタンへ。

東トルコの高原
 

ガスステーション

 

    イスタンブールからは、バスでの移動。
    8月25日。出発準備。まずは銀行で20$両替。信じられないが、200リラおまけしてくれた。なんというおおらかな銀行。
    トプカピのバスターミナルから3時半、バスは出発。翌日の夕方、AGRIに到着。すると、バスは国境のドーバヤジッドまで行くという。ありがたくのせてもらう。国境の手前から、バスにイラン人が乗り込んでくる。闇の両替屋である。レートは1$が500リアル。それほどよくないが、前回のこともあったので、50$両替。手元には札束が。わはは。
    トルコ側の国境には夜、8時過ぎに到着。夕やみに、アララト山がかすかに見えた。
    国境は相変わらず混んでいる。通過に2時間以上かかる。イランに入ってすぐに、ユーゴスラビア人に声をかけられ、車をシェアしないかという。望むところである。車はすぐにつかまった。途中、ドライブインで食事。メニューは羊の煮込みしかないというが、でてきて驚いた。羊の足。豚足ならぬ羊足である。ゴムそのものといった感じで、とても歯が立たない。


 
 
 

    タブリズまでは、しつこいほどの検問。イラクとの戦争は終わっているはずだが。
翌朝、タブリズのバスターミナル到着。ここで、すぐにテへラン行きの車を発見して、乗り込む。8月の27日の朝、5時半、タブリズを出発して、テへランには午後の3時にはついてしまった。ここまで一緒だったユーゴ人に勧められたホテルへ行く。エンゲラブホテル。ドアマンがいるような、しっかりしたホテルだったが、ふふふ、軍資金に不安はなし。チェックイン。久しぶりのバスタブ。快適。ついでに洗濯までしちゃったりして。
    夕食はポーターのおじさんに教えてもらったレストラン。チキン料理がうまい店をお願いしたら、ちゃんと美味しい。しかし、テへラン市内、さすがについこのあいだまで戦争をしていたので、ビルの前には土嚢がつまれ、銀行なんて閉店してからも自動小銃を構えたガードマン2人が立っていたり。こんなところに、脳天気なバックパッカーがうろうろしてもいいのかと、ちょと、反省。

    脱線。この時にはイランとイラクが戦争していた。原因は、イラン革命で利権を失った西側諸国がイラクをめいっぱい支援して、イランをいじめようとしたとしか思えない。そう、この時にはアメリカやイギリス、フランスなどはこれでもかとイラクを支援していたんですね。そして、イラクは軍事国家になったんですね。いまは、どうなっているのでしょう。今度アメリカはイラクに軍事攻撃をしかけるというし。

    翌日、バスターミナルでパキスタンに近い街までと、チケットを頼むと、ケルマンというところまでのチケットをくれる。夕方、バスがでて、翌朝、ケルマン到着。すぐにバスを乗り換え、パキスタンとの国境の街ザヘダン行のバスに乗る。このバスで、アフガニスタン人だというひとから声をかけられる。国では教師をしていたと言うが、いまはムジャヒディンというゲリラ。この人のレポート。
    ソ連との戦争で
        難民  在パキスタン   310万人
                    在イラン            180万人
        死者                                    130万人
        手足をなくした人        25万人
だという。
    すごい数。この時点ではあくまで、対ソ連での戦争なので、このあとの内戦そして今回のアメリカのアフガン攻撃などを加えると、被害者っていったいどうなるのだろう。
    彼らはいったいなにをしたというのか。ただ、世界最大の油田のパイプラインの通り道にあるというだけで。その利権をめぐって、強欲な大国が武器をふりまわしている。ひどい。

さて
    その日の夕方には、ザヘダン到着。29日。さすがにここまでの疲れがでたのか、ダウン。


パキスタンでうろうろ

    パキスタンとの国境を越えたのは31日であった。パキスタン側の国境の町はタフタン。泥でできたバザールと、銀行と税関などの政府の建物があるだけのボーダータウン。太陽と砂には不自由しない。熱風が吹き抜けていく。山羊がごみ捨て場でバナナの皮をあさっているようなところ。
    さて、クエッタ行のバスは夕方の4時にでるという。と1時半に、出発するから乗れという。4時なのにと思いつつ乗り込むと、なにやらバスは幹線道路をはずれて、砂漠へどんどんと行く。と、家財道具をたくさん持った10人ほどの人々がいるではないか。砂漠の真ん中に。どうみても、アフガン難民。お父さん、おかあさんそしえ子供。一家で難を逃れて来たようだ。
    その人たちを乗せ、再びバスは幹線道路にもどり(ひどい道、できれば鉄道を使った方がいいです)クエッタを目指す。
    翌日、クエッタの手前の検問で、難民の人たちがチェックされ、クエッタには行けないという。クエッタには難民キャンプがあるのだが。これには、バスに乗っていたパキスタンの人も抗議をしたが、軍人に殴られてどうしようもない。
    バスは道を引き返し、アフガンへ道が通じている交差点で、彼ら難民をおろす。砂漠に取り残された彼らはいったいどうなるのか。

    クエッタには、夕方5時到着。なにはともあれ、一安心。翌日、同じホテルに日本人バックパッカーがやってきた。と、何と、イスタンブールで一緒だった女の子もいる。総勢7人。これは嬉しい。
    彼らとは、その後、ペシャワール、そしてチトラルなどへ出掛けたのだった。大勢で動くのもなかなか楽しい。が、チトラルでは足にやけどをしてしまう。
    ラワルピンディに戻ったところで、つれの人がパスポートを紛失。ポリス、大使館と再発行に付き合った。旅費を節約するために、イスラマバード市内にあるキャンプ場に滞在。テントが活躍したのだ。
    なにやかやと慌ただしいパキスタン滞在であった。
 
 
 

ペシャワール市街。カイバルホテルの窓から撮影。カイバルホテルにはアフガンゲリラの本を出した南条さんとか、ゲリラとともに戦っている日本人とか、カラフルな人で一杯でした。 チトラルの旧王宮跡。バックの山はヒンズークシのトリチミールだったかな。



シルクロード カシュガルへ
    イスラマバードの中国大使館で、無事にビザがとれたので今度はシルクロードだ。たしかネパールのカトマンズに帰るはずだったのだが、インド経由で帰るよりも、中国のシルクロードとチベット経由で帰った方が楽しそうである。
    まずはパキスタン北部のギルギットへ。すでにカラコルムの山中。川は氷河から流れているため白濁しており、人々の顔付きもずいぶん変わって来た。ここからはカラコルムハイウエーで、中国を目指すのだ。
    ギルギットからバスで数時間で、桃源郷として名高いフンザへ。フンザのカリーマバードという村に到着。カラコルムの山々がすぐに迫っている。村はポプラ並木がよく似合う。カラコルムの山の真っ只中。
 

    カリーマバードに数日滞在して、いよいよ中国へ。パキスタンの税関やイミグレーションのあるソスト(ススト)に移動。ここで、中国行のバスのチケットを買い、いよいよ標高5000m以上のフンジュラブ峠を越えて中国へ。道は、険しい斜面につけられているので(舗装してます)いつ落石や転落事故があっても不思議ではないところ。それでも、めでたく中国へ入国。国境の門にでかいちょうちんがぶら下がっているのがいかにも、中国。国境を越えてしばらくいくと、税関とイミグレのあるピラリに到着。入国もあっけないほどスンナリと済んで、両替とカシュガル行のバスのチケットを買う。
    道はパミール高原をひたはしって、カシュガルに。
 
パミール高原。砂漠と山々。
高原に暮す人々。
カラクリ湖とムスターグアタ峰
 
    10月7日。高原から砂漠になり、突然オアシスが現れると、カシュガルだった。都会と言ってもよい大きな町。砂漠の人人々の町。なにより、ハミクワと呼ばれる巨大メロンとマーナイズという名の葡萄は絶品。シシカバブも負けていないが。職人街やバザール、郊外の遺跡。退屈しない町。



砂漠、トルファン、敦厚へ

    カシュガルからはバスでトルファンまで。2泊3日のきついバスの旅。体力に自信のないかたは飛行機を利用された方がよろしいかと。中国製のバスのシートの狭さと硬さには全く腹が立った。
 
 
カシュガル郊外の道。ポプラ並木が嬉しい。
所々でハミクワが売られているので、喉が乾いたときにはありがたい。
カシュガルのシシカバブ屋さん。ほとんど焼き鳥ですね。羊ですが、匂いもさほどきつくなく絶妙な塩加減で美味。
バザールの駐車場。ロバ車(トンガ)が多いですね。
トルファン郊外の遺跡。とても存在感があるものだが、訪れる人も少なく、ひっそりとしていた。

    トルファンに着いた。10月の15日。トルファンはこじんまりした静かな町で、シルクロードの町の雰囲気満点。人々も優しく、快適そのもの。秋にも関わらず、日中は半袖でもよいくらいの暖かさ。
    さて、快適なトルファンからいよいよ敦厚へ向う。まずは敦厚とは反対方向にあるウルムチへバスで向う。ウルムチはもうただの都会。ここから上海方面行の列車に乗り込み、柳薗という砂漠の町まで。ここからバスに乗ると敦厚である。あの有名な。しかし、町は普通の地方都市であった。遺跡などはちょっと郊外にあるのだ。


敦厚。白菜畑とロバと砂漠。



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