エベレストトレッキング
 






ネパールのトレッキングと言えばエベレストの麓。生まれてはじめてのトレッキングということでここへ行ってきました。ツアーは高かったので、気ままにリュックを背負っての旅。


このページの目次
 #カトマンズへ
 #トレッキングへ出発
 #ナムチェバザール
 #タンボチェへ
 #ペリチェへ
 #ベースキャンプ目指して、そして撤退。



カトマンズへ

    5月の連休過ぎ。成田空港は空いていた。その日はまずバンコクへ。ここで一泊。翌日RoyalNepal航空でネパールのカトマンズへ。周囲を山に囲まれた盆地で雰囲気が信州の松本に似ていなくもない。
    時刻は夕暮れ時。はじめての異国。ターミナルを一歩でると、わっとタクシードライバーに囲まれた。と、一番近いドライバーに市内までお願いすることに。10ドルだという。そんなものかと思っていたら、あとでとんでもなくぼられたことがわかった。アジアの洗礼。
    市内までの道は、狭くてなんだか不気味だった。裸電球を下げた肉屋さんの屋台などが。
    翌日から、トレッキングの準備に。トレッキング許可証や国内線の飛行機の予約。トレッキング用品の補充やトレッキング中の食糧など。タメルという地区には、その手の旅行会社やトレッキング洋品のレンタル屋さんが多く見掛けられた。
    市内を歩いていると、ちょくちょくハッシッシ?だのチェンジマネー?だのと声をかけられて、そのたびにビビル。
    数日後、両替も済んで(山には銀行などがないので少額紙幣に変えて持っていく)いよいよトレッキングの準備が整った。



 

トレッキングへ出発

ルクラの飛行場

    5月13日、金曜日。むむむ。
    トレッキングのスタート地点のルクラという村までは、カトマンズから飛行機で行くことにした。空港で乗るべき飛行機を見て驚いた。マイクロバスに羽をつけたようなものだった。不安が、、、。
    予想に反して、軽やかに離陸していくつもの山並みを越えていよいよルクラの飛行場に着陸。無事に着地。まだ、朝の8時前。しかし、この飛行場がすごい。まず、舗装されていない。おまけに坂になっていて、着陸の時には登り、離陸の時には下りになるように作られている。滑走路の脇には飛行機の残骸まで、展示してある。むむむ。
    ルクラ。飛行場といくつかのゲストハウスと民家が街道に沿うように立ち並んだ、こじんまりとした村。薪の煙が漂っている。道には放し飼いの鶏と、元気な子供が。
    いよいよトレッキングのスタート。巨大な谷の斜面に道はつけられて上流へと続いている。道ははじめ下りぎみで、やがてちいさなアップダウンを繰り返して、谷をたどっていく。
    11時半、パグディンという村に到着。少し早かったが、体調不良もあり、ここに泊ることにする。道ばたの適当なゲストハウスに宿を。宿は簡素な作りで、部屋にはベッドが2つあるだけ。食事も頼める。ほかの泊まり客は、なし。
    翌日、上流へ向けて出発。バッティと呼ばれる茶屋で休憩をしながら、いくが、すれ違うトレッカーは少ない。ジョサレという村の入り口で、国立公園使用料として60ルピー払う。(当時1ルピー5円ほど)この先で川を渡り、急な登りを登ったところがシェルパの故郷と呼ばれるナムチェバザールである。

ルクラのメインストリート


ナムチェバザール

    シェルパ族の中心とも言うべき、ナムチェバザール。トレッカー向けのゲストハウスが道の両側を埋めている。土産物を売る店も多い。ここが標高3700mほどの山の中とは思えない。
    村の中心にある、ナマステロッジという宿に泊る。ここにはシャワーがあった。かまどでわかしたお湯を頭の上のタンクにいれて、ホースであびるものだったけれども、極楽。
    食堂に入っていくと、宿のご主人の老人が火鉢を持ってきてくれて、にこっとした。
    夕食は谷の向かい側にそびえるクンデの巨大な岩の塊を眺めながらの贅沢なもの。
    翌日は、高所順応を兼ねて休養。まずは郵便局へ手紙を投函。(後日、キチンと日本に届いたのを確認。すばらしい。)国立公園のチェックポストで簡単な手続きを済ませたり。村を散策したり。
 



タンボチェへ

ナムチェからタンボチェ方面を

        朝7時45分、ナムチェバザールを出発。15分ほど登ると、博物館のある丘に到着。そして、視界が開けた。鋭角に、店をつきさすようなタムセルク峰の姿が目にはいった。唐突であった。鋭角過ぎる山容が非現実的。足下には深いドードコシの谷が。
    大きな谷の斜面につけられた、わりと歩きやすい道をすすんでいくと、茶屋が数件とチベット人(だと思われる)おばさんがやっているおみやげ屋のあるところにつく。アクセサリーや仏具らしいものが並べられている。
    道はここから川へ向ってくだりとなり、下りきったところにはドードコシの川を渡るつり橋があった。橋のしたには、氷河から流れ出した灰色の水が勢いよく流れている。
    橋を渡ってすぐ、プンキテンカというところに到着。石楠花の花が見事。ここで1時間ほど休憩。水車小屋のようなものがあったのでのぞいてみると、水車でマニ車(お経が納められている筒。これを廻すとお経を唱えたことになる)を廻しているのであった。

水車式自動マニ車廻し装置

        1時間ほど、ここで休憩してからいよいよタンボチェへの最後の登り。ほかのトレッカーと前後しながら、きつい坂を登っていく。
       坂を登りきったところがお寺(ゴンパ)のあるタンボチェであった。ゴンパにも宿が有り、トレッカーも泊ることができる。そしてゴンパとは広場を挟んで反対側にもこじんまりしたロッジがある。タシデレ(こんにちは)ロッジ。ここで昼飯を食べて、広場にテントを張る。この日のためにわざわざ日本から持ってきたのだ。ヒマラヤを眺めながらのテント暮らし。ICI石井スポーツの店長さん(当時)たいへんお世話になりました。ちなみに、エベレストコースではテントは全く必要有りません。テントを張ると、すぐに黒い子犬が2頭遊びに来た。いらっしゃい。




    翌朝、未明。かすかに明るくなってきた空に、アマダブラム、ローツェ、そしえエベレストがくっきりとシルエットとなって浮かび上がっていた。山は黒く静かにそこにあった。鳥肌が立つような思いであった。

    この日は、高所順応を兼ねて停滞。タンボチェ付近を散策、そして日向ぼっこ。贅沢な日向ぼっこ。
    翌日は雨のため停滞。ロッジでだらだらとすごす。


ペリチェへ

    翌日、不要なテントなどの荷物をロッジに預かってもらい(ちゃんと保管してくれました)さらに奥へ。まずは石楠花の森のなかの緩いくだりをおりていく。日本で見る石楠花は背丈ほどだが、ここは普通の木である。森になっている。花の色も黄色っぽいのやら、真っ赤なものやらさまざま。おりていくと橋があった。対岸に渡り、少し登るとアマダブラムの麓の村、パンボチェに到着。村は穏やかで、蜜蜂の羽音だけが聞こえてくる。
    村を通りすぎていくと、ソマレという名前のバッティーがあった。おじいさんが店番をしていた。ここのチャパティはうまいです。ほかにトレッカーもなし。ここで昼飯にする。

ちなみにここのバッティーの前では、利口なカラス君が食べ物を狙っているので要注意。僕は封を切ったばかりの」ビスケットを一箱やられた。むむむ。

    このバッティーから30分ほど歩くと、ペリチェ村とディンボチェ村の分岐点である。ペリチェ村方面へすすんで、丘を越えてちいさな橋を渡ったところがペリチェ村。辺りの景色がいままでとは全く違った。標高も4200mほどか。


ペリチェ。エベレスト方面

    宿を確保して、散策、そして洗濯。天気はよいのだが、風は冷たい。
    翌朝、目が覚めると気分がよくない。風邪をひいたらしい。洗濯がまずかったのかな。結局、3日寝込んでしまった。ここの宿には嬉しいことに果物の缶詰(日本製)が売られていた。遠征隊の残りであろうか。うまかった。


ペリチェ村。タンボチェ方面。





ベースキャンプ目指して、そして撤退。
    ペリチェで体調の回復を待っていると、日本人トレッカーが一人で上がってきた。嬉しい。ベースキャンプを目指しているという。情報を交換。
    翌日、日本人トレッカーと一緒にベースキャンプを目指す。体力に不安はあるものの、連れの人もいるしと、少々無理をして出掛ける。
    道は村はずらからしばらくは平坦な道であるが、右へおれると、いよいよ登りとなる。この谷を詰めていくとベースキャンプに着くはずである。正面にはヌプツェの巨峰が控えている。ヒマラヤの核心部を歩いているのだ。

    高度のせいか、連れの人が猛烈な頭痛を訴えはじめた。こちらも風邪のせいで、ずいぶんしんどいのだが、連れの人は深刻である。苦痛で顔がゆがんでいる。
    昼過ぎ、どうにかロッジのあるロブチェについた。ここで標高は5000mを越えているはずで、人家などはなく家畜の放牧場とトレッカーのためのロッジがあるだけである。
    連れの人の体調がどんどん悪化していく。体力のあるうちに下山してしまうということで、一休みしてペリチェへ下山していった。無事を祈る。(後日、ナムチェで再会)
    ベースキャンプまではあと一息なのだが、体調不良のため今日はここロブチェに泊ることにする。

    翌朝、ひどい頭痛と熱で目が覚める。風邪の悪化と高山病。ベッドから一歩も動けず。そして次の日も症状の回復は見られずというか、かえって悪化。ここにいても回復の見込みはなさそなので、無理をして下山することに。ロッジの娘さんが、ナムチェまでおりるというので、途中まで荷物を持ってもらうことにした。
    さすがに、歩くのはきつかったが、標高の低いところへとおもい、ペリチェを通過してどうにかタンボチェまでたどり着いた。タンボチェの手前に牛が放牧されていたが、半分乗って行こうかとも思うほど、ばてていた。

    タンボチェでは、再びタシデレロッジへ。トレッカー客も少なく、ひっそりとしていた。シーズンも終わろうとしているのだ。ここで風邪がなおるまで3日ほどひたすら眠る。歩く気力がでたところで、ナムチェへ下山。ベースキャンプは未練であったが、また来るさ。
    ナムチェでは有名な土曜日のバザールを冷やかしたり。しかし、この山奥へよくもこれだけ物資が集まるものだ。すべて家畜か人の背中で運ばれてくるのであろう。食糧や生活雑貨、そしてチベット経由で入ってきたであろう中国製品。さまざまな顔立ちの人々が狭いところで売り買いに夢中になっている。

    トレッキング許可証の日程にはまだ余裕があるのだが、モンスーンが近づいていることもあり下山することに。モンスーンにはいると飛行機が飛ばなくなる恐れがあるのだ。
    飛行場のあるルクラにおりると、トレッカーがたくさん足止めを食っていた。飛行機を待っているのだ。モンスーンが近づいているため、雲が出やすくなり飛行機が着陸できない日が多くなったらしい。これはこまった。乗れるのか。
    チケットを買い、次の日を予約。が、翌日、飛行機は来なかった。雲が湧くせいだ。
    その次の日は快晴。飛行場のカウンターでチェックインすると、最初の飛行機に乗れるらしい。これはついている。
    30分少々のフライトでカトマンズにもどる。5月31日であった。
    ベースキャンプにはたどり着けなかったが、圧倒的にでかいヒマラヤの山々とその麓に暮す人々のたくましい生活が印象的であった。



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