僕だけのEベクトル

 一億総評論家と呼ばれる現代、一番分かっているようで知らないのが自分。他人がどうでそれがどうしたと、いつも自分を他人に置き換えてみたところで何も伝わらない。確かに他人の噂話しをするのは興味津々面白い。だけど、少しでも自分が生きている実感を掴もうと思うなら、そんな色眼鏡は外して自分を表に出してみることだ。誰だって裸になることは恥ずかしい、でもそれを乗り越えねば何も見えてこない。
 誰だって心の片隅に孤独を感じているならば、そして少しでも心のふれあいを望むならば、とにかく意志表示することだ。誰も他人の心の代弁者にはなれはしない。人は誰も自分の思いを他人に押しつけることは出来ないけれど、寂しかったら寂しいとどんな方法でもいい、伝えようとしない限り誰も振り向いてはくれない。弱音を吐くの好きじゃない、ならばせめて嬉しい時には「キャッホー!」と思いきり叫べたら。喜怒哀楽の豊かな人間になりたい。悲しみを隠すのは下手でもいい、喜びの表現だけはうまくなりたい。
 言葉は意志伝達手段の一つに過ぎない。他にもいろいろあるけれど、僕にとっては一番手っ取り早い手段であることに違いはない。香港の旅で後悔することは、例の「殺気」事件である。屠殺場へ入る時、一言「コンニチワ」と言えたなら彼等の表情も違っていたかも知れない。でもそれは責任転嫁の言い逃れに過ぎない。例え挨拶をしたとしても、彼等の表情は変わらなかっただろう。「屠殺場で働く人=恐い人」という先入観が僕の心にあった。これは明らかに職業差別だ。殺気を感じたのは僕の方ではなく、彼等の方だろう。彼等が手に持っていたナイフよりも、僕の冷たい心の方がはるかに鋭かった。僕は殺人未遂の前科者にほかならない。
 人間には、傷つかずに大人になれる奴と、他人を傷つけ自分も傷つきながら少しづつ大人になっていく奴がいる。「転ばぬ先の杖」なんて荷物になるだけ。もんどり打ってひっくり返り、痛い目をみることだって僕に許された人間としての権利。他人を傷つけることは許されないけど、自分が失敗する権利までは失いたくない。
 世界各国の情勢、人々に暮らしぶりを、テレビは休むことなく映し続けている。「わざわざ外国へ行かなくても、炬燵に入ってテレビを見ている方が世界のことは良く分かる」とうちのお父さんは言うけれど、映像も活字も言葉もすべてを伝えてはくれない。そこでどんな物を見てどんな人と出会い、そしてそれを僕がどう感じるかということまでは。
 空港バスから降りた時、香港人のカップルが気になった。彼等はホテルに行く為に一台のタクシーを呼び止めた。行き先を告げたのに、言葉が通じなかったのだろ
うか。すげなく乗車拒否にあってタクシーは走り去った。それを見ていた丸ビルの警備員らしい人が駆けつけて、タクシーを拾って彼等を見送った。そんな光景を僕は、ただ立ち止まって眺めていた。この僕の旅はいったい何だったんだろう?傍観者でしかない自分がたまらなくはがゆくも情けなかった。
 「旅の恥はかき捨て!」それはそれでいい。だけど、旅先で触れた人の心もその場限りでいいのだろうか?救急患者が病院を転々と回されたという悲しいニュースを耳にする。そうじゃなく、自分が旅先で受けた親切こそ「たらい回し」にしなければ・・・。


 この旅を終える今、少しづつ「人」が好きになってきた。


旅には出会いがある。そして別れも。

旅をする人に、人はやさしくなれる。

一人で旅をする人の心は、人のやさしさを知っている。

一人で旅をする寂しさを知りすぎているから。

          寺崎 勉著「どこだって野宿ライダー」より


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