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台北への旅

 2005.5.3.〜5.5.

2005.05.25. 掲載
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はじめに

交野市医師会の家族親睦旅行は、98年長崎、00年ソウル、01年北陸、02年徳島・倉敷、03年伊勢、04年白浜、そして今年の台北と合せて6回行われた。そのうち、参加メンバーが一番楽しそうだったのは今年の旅行だったと思う。その旅行記を今回も私が書く羽目になってしまった。これがほんとうに最後なので、代わり映えしない代物であるが、お許しいただきたい。

台湾旅行に参加することになった時に、自分の頭にある台湾のイメージを考えてみた。敗戦の年に9歳だったが、戦時中覚えた世界地図の中の台湾の位置はしっかり覚えている。台湾と朝鮮も日本本土と同じ赤で塗られていた。そのほか、高砂族という非常に背の高い原住民がいる。配給された台湾バナナが、食糧事情の悪かった戦時中のこどもたちには、またとない美味しいおやつだった。そして、敗戦で日本が撤退した台湾へ、毛沢東軍に敗れた蒋介石軍が逃げ込んできて、今の台湾を作ったと聞かされてきたことなどが思い浮かぶ。

52年に高校に入学した時、同じクラスに「楊国慶」という名の台湾出身者の子弟がいた。彼は途中で中国本土に戻って行ったが、中華人民共和国で受け入れてもらえるのだろうかと少し心配したのを思い出す。インターネットで検索してみると、「中華全国台湾同胞聯誼会の楊国慶名誉会長」と書かれた記事がかなり多く見つかった。この人が同級生の楊国慶君その人かどうか分からないが、「台湾同胞聯誼会」というところから判断して、その可能性はありそうだ。

台湾と言えば、大学に入ってから何度か行った「龍譚」も思い出す。今のハービスエントの東端あたりの、地下1階にあった台湾料理の店で、台湾雑炊や焼きビーフンを良く食べた記憶がある。あっさりして値段も安く、美味かった。

70年代に、欧陽菲菲、ジュディ・オング、テレサ・テンなど台湾出身の歌手が活躍したが、私は「雨の御堂筋」「ラヴ・イズ・オーヴァー」の歌が好きで、それを唄う欧陽菲菲にも好感を持っていた。旅行するまでの私の台湾のイメージはだいたいこのようなところだった。


5月3日(火)出発の日

1.出発
今回の旅行に参加したのは12家族21名のメンバー。午前6時30分にゆうゆうセンター前に集合、大型バスで湾岸線を走り、関空に着いたのが8時過ぎ。10時30分発だから時間の余裕はタップリある。連休期間中は混むだろうとの予想から早い出発となったが正解だったようだ。

2.中正国際空港
関空10時30分発台北12時30分着というスケジュール表をみて、2時間の飛行距離は北海道くらいだなと思っていたが、台北の中正国際空港に着いて腕時計を見ると午後1時30分だ。これは1時間長く飛行したのではなく、時差が1時間ある現地時間が書かれていただけの話だった。

中正国際空港の「中正」は蒋介石の本名であり、英語では Chiang Kai Shek International Airport 蒋介石空港と表示されるそうだ。この「中正」は台北でよく目にする文字だった。

3.現地ガイド
空港にはバスを用意して現地ガイドが迎えてくれていた。この人は180cmを越える巨漢でハンサムな男性、なまりはあるが日本語を流暢に話す。大阪は知らないが、東京にはかなり詳しいようだ。まじめな顔をしてのだじゃれ100連発にはいささか閉口することもあったが、根がまじめな方で、一生懸命、立て板に洪水のように説明を続けてくれ、いろいろなことを知ることができてありがたかった。

4.龍山寺
空港から高速道路を通って台北に入り、ホテルに入る前に2箇所観光をした。その最初が「龍山寺」である。台湾で最も古く、そして有名なお寺のひとつらしい。門の敷居が非常に高く、20cmはあるのだろう。これを跨ぐときに必ず左足から入れるものだと説明を受けた。日本の寺と違って何か猥雑な感じがする。ここには20近くの神仏が祭られていて、それぞれにご利益があるという。数本の長い線香を頭上に掲げて拝礼するところはここが異国であることを思い知らせてくれる。

この境内にたくさんの女子高生が座り込んで写生をしていた。その中の何人かは携帯電話で写した液晶画面を見ながら絵を描いている。ちゃっかりとIT機器をフル活用しているのに苦笑をしながら、実像よりも虚像に頼ろうとする、私たち現代人の特徴が表れていると思った。


図1:龍山寺の前景


図2:龍山寺を眺める交野市医師会1行


図3:龍山寺の境内風景

5.中正記念堂

次に訪れたのが中正記念堂、ここは、中華民国の初代総統である蒋介石の死を偲んで、1980年に建設された、中国の伝統的な宮殿陵墓式の建築物である。「中正」という文字は中正国際空港でも出てきたが、蒋介石の本名であり、介石は彼の字(あざな)であると説明を受けた。故宮博物院、龍山寺と並んで、台北市の三大観光スポットに数えられているそうだ。

ここの敷地は25万平米と、とてつもなく広く、その中心となる紀念本堂の面積も1万5千平米あり、高さ70m、これに89段の階段がついている。89は蒋介石の享年89歳を表しているそうだ。

紀念本堂の1階の中央通路に、蒋介石が生前乗用した二台のキャデラックが展示されていて、説明に「美国」という文字が書かれてあった。現地ガイドさんに「美国とはどこの国?」と尋ねられて、車がキャデラックだから「アメリカでしょう」と誰かが答えると、「当時、台湾の人にとってアメリカは憧れの国、美しい国だった。だから「美国」なんです。日本がアメリカを「米国」と呼ぶのはわけが分かりませんね」と博識ぶりを披露してくれる。

「アメリカ」のアクセントが「メ」にくるので「ア」が抜けて「メリケン」と聞こえ、明治の初期には「米利堅」と書いた。それを略すと「米国」になるというのが「米国」の語源だが、いくら勉強家のガイドさんでも、そこまではご存じあるまい。

1階の蒋介石総統記念室には、蒋介石が執務している状態を模した人形と、彼にゆかりの文物が展示されていた。横の壁に戦前よく見かけた古時計が掛かっていて、針は11時50分頃を指している。蒋介石が亡くなった時刻だそうだ。それを聞いた途端、89歳で12時少し前に亡くなるとは、「何かにつけ中途半端やな〜」と思わずつぶやいてしまった。


図4:中正記念堂の紀念本堂の遠望


図5:下から見上げた中正記念堂の紀念本堂


図6:紀念本堂から見おろした中正記念堂の全景

続いて2階に上ると、メインフロアの奥には巨大な蒋介石の銅像が安置されていた。像の両脇を衛兵が警護しており、1時間毎に衛兵交代の儀式が行われる。私たちはタイミングよくこれを見ることができた。

像に向かって、右側手前から、3名の衛兵が出てくる。中央が指揮官、その左右がこれから蒋介石の像を守る衛兵で足並みをそろえ、ゆっくり行進していく。蒋介石像の前に着くと、左右の衛兵が動き始め、中央へやってくる。そして、交代する相手と向かい合い銃剣を回す。交代が完了すると、交代した衛兵は左右の警護の位置に着き、任務を終えた衛兵と指揮官は退場する。

静寂の中で、足音と銃を床にたたきつける音だけが響く。その間デジカメのフラッシュが光り続いていた。兵士の服装は真っ白、これは海軍の制服らしい。


図7:蒋介石の銅像と衛兵


図8:交代の衛兵と指揮官登場


図9:銅像の前に3人が整列


図10:交代のため警護位置を離れようとする衛兵 


図11:5名全員整列

中正記念堂の見学を終えてホテルに向かうバスの中で、「蒋介石は上流の出ではなく、もとは上海のチンピラだった」というようなことをガイドが話すのでオヤッと思った。そういえば、総統記念室の説明もそっけなかったし、衛兵交代の儀式でも、衛兵のことばかり話し、蒋介石のことはほとんど触れなかった。

戦時中を知っている私たち年代の者にとって、蒋介石は敵軍の長であり、良い印象を持っていないが、日本の陸士を卒業したエリートであることは知っている。それが上海のチンピラというのだから、蒋介石に対する反感を感じた。

6.DFSギャラリア・台北
世界のどこにでもあるデューティーフリーショップ。ハワイのDFSはもっと規模が大きかったように思うが、ここもリージェントホテルの地下2階の1200坪を占めるビッグフロアーである。めいめい家族が連れ立って買い物をした。

7.シェラトンホテル・タイペイ
宿泊先のホテルに到着したのは夕刻だった。ここは台北の経済・政治・ショッピングの中心地にあるホテルで、外部は一部改装中だが、内部は改装が終わったばかり。そのため、室内は清潔で美しいのが嬉しい。中央のエレベータは4機あり、スピードが速く快適である。この中に「電梯」と書いてあった。エレベータ=電気梯子か、なるほど!と納得する。

8.欣葉レストラン
一風呂浴び、バスで「欣葉レストラン」に案内されて、夕食の台湾料理をいただくことになった。ここは、200名くらいでも十分収容できそうなワンルームの大衆的な店だ。店に入るなり、以前医師会旅行でソウルへ行った時に石焼ビビンパを食べた食堂と雰囲気が似ていて、ここは美味そうだと直感した。個室に案内されると丸テーブルが二つ。日本からの添乗員を合わせて参加メンバーは22名なので、11名づつ座ると都合が良い。

私の個人的感想では、台湾で食べた料理と酒で一番美味かったのがこの店だった。料理の味が良い、紹興酒が美味い、サービスが良い、前に並んで座ったゴルフ組4名の食べっぷり、飲みっぷりが良い。だから、最高に気分が良かった。

9.マッサージ
現地ガイドがバスの中で、マッサージの効能を弁舌たくみに説き、しきりに勧めていた。そして自分が贔屓の店のサービス券まで配ってくれるので、A氏の奥様と妻はすっかり乗り気になってしまったようだ。食事の間からそれぞれの亭主に一緒に行くように迫るのだが、亭主たち二人は、人にからだを触られるのが嫌な性質なので、拒絶し続けたものの、最後は根負けして、仕方がないお供するかという心境になっていた。

ところが、しばらくして突然マッサージを止めると言い出すので、何ごとかと尋ねると、「ソウルでアカスリマッサージを受けた故小菓先生が、そのあと非常にしんどそうにしておられた、あれはからだにきつくて、命とりになるから止めておいた方が良い」とB氏に忠告されたという。それを聞いた瞬間、妻はマッサージ取り止めを決め、B氏を命の恩人だと心底感謝したのだった。ちょっとオーバーな話だとは思ったが、マッサージに付き合わなくて大助かりなので、「そうか、そうか、それは良かった」とそのままホテルに戻った。

10.夜市
台湾の観光スポットとして、夜市を見逃すことはできないと観光案内には書かれている。広い範囲にいろいろの屋台や店が無数にひしめき合い、平日でも深夜の1時2時まで、大勢の人であふれかえっているところらしい。参加メンバーの若い男性たちは、そこへ出かけたそうだ。聞くところによると、本当にすごいところで、どこからあれだけの人と店が集まるのか不思議に思ったそうだ。面白いのは、警官が見まわりにくると店はさっと移動するので道幅がもとの広さに戻り、警官が去ると、また店が集まってきて道幅が狭くなるらしい。


5月4日(水)台北での中日

1.バイキング朝食
朝食はホテル1階の広いコーヒーショップで摂るが、このバイキングの料理の置き場所が普通の2倍はあるのではないかと思うほどだった。とはいっても、それほど美味いものがあるわけではないが、選択に迷ってしまう。

2.九分までの途中の墓山
ゴルフ組4名は朝早く出かけていったが、残りは台北での中日を台湾北部の観光で過ごす予定になっていて、まず、昔金鉱で栄えた九分の町に行くことになっていた。そこまでは曲がりくねった険しい山道である。九分に着く少し手前の山には、墓が密集していて、まるで墓山と呼びたいような景色だった。台湾は土葬なので、墓は大きく、また個人がそれぞれ別々なのだとガイドは言う。台湾は風水を重んじるので、墓の位置は夫婦でも同じ場所にはならないらしい。

風水というのは古来中国に伝わる学問で、一言でいうと「環境学」のようなものらしく、たとえば、九星気学は、一般的に生まれた月の九星(一白水星〜九紫火星)と「生まれた日」の九星を同時にみることで占いの精度を高めているようだ。

墓は大きいものでは別荘くらいもあり、クーラー付きの墓もあるとガイドは言うが、道路沿いには小さなお地蔵さんのような墓も並んでいて、その振幅の大きさに戸惑ってしまう。この墓山一帯は、辺鄙なところなので、墓しか建てられないからやって行けるのだろうが、人口が増えればどうするのだろう?



図12:大きな墓で埋まった山


図13:大きな墓

3.恭賀新禧
九分の近くの展望台のある小さな寺院に立ち寄った時、「恭賀新禧」と書かれた赤い張り紙を見つけて嬉しくなった。私はこの「恭賀新禧」という祝詞を、1993年の元旦から今年まで、年賀状に印刷してきたが、それは文字のかたちがきれいで、ハイカラだと思ったからだった。それが台湾で実際に使われている賀詞だと知り、帰国後調べてみると、「恭賀新禧」は中国の人々の交わす伝統的な新年の挨拶であることが分かった。


図14:恭賀新禧の張り紙

4.九分(きゅうふん)
本当は分の左に人べんがつくのだが、日本の漢字にはない文字なので分としておく。ここは昔9軒しか家のない寒村だったので九分と名前がついたそうだ。ところが、100年前に金鉱が発見されてゴールドラッシュとなり、人口は数万人に増え、「小上海」「小香港」と呼ばれ、台北よりも賑わったそうだが、金脈が尽きるともとの静かな過疎地に戻ったという。

しかし、この地を舞台とした映画「悲情城市」がベネチア国際映画祭でグランプリを受賞すると、忘れられていたこの小さな村が再び注目を浴びるようになり、昔の活気を取り戻しつつあるとガイドから説明を受けた。

ここのメインストリートは軽自動車がやっと通れるほど狭く、急傾斜の坂道である。そこを戦後よくみかけた三輪自動車が通り抜けて行った。道の両側に古びた小さな店が密集している。過疎のために再開発が行われなかったのが幸いして、古い建物がそのまま残り、それがレトロな雰囲気をかもし出し、観光客はをひきつけるのだろう。しかし、私の好みではない。

買い物をしている観光客を多く見かけ、食べ物を売る店も多かったが、私たち夫婦は買う気も食べる気も起こらず、集合時間が来るまでひたすら眼下に見える基隆沖の海を眺めていた。このメインストリートの途中から下に降りる長い石の階段が映画「悲情城市」の舞台になった場所らしく、映画のポスターの類が多く貼られていた。


図15:九分から見える海の景色


図16:映画「悲情城市」の舞台となった長い石の階段

5.基隆の中正公園
九分の観光を終えると、次はその北西にある基隆に向かった。基隆の中正公園は基隆港東側の山丘にある。正門をくぐって山上に達すると、そこには白色の大観音像が祀られていて、それを巨大な金色の獅子が両側から守り、周辺には18の羅漢像の彫刻があった。この羅漢像を見て、前に大原美術館で観た棟方志功の「ニ菩薩釈迦十大弟子板画柵」を思い出した。ひとりひとりの表情がダイナミックで、動作も異なり、不思議な魅力のあるところが共通している。

中正公園の広場からは基隆市街と基隆港を一望することができた。この港は台湾北部の重要な国際港と聞くが、グラバー邸から望んだ長崎港に似ている感じがするのは、どちらも港の向こうに山並みがあるせいかもしれない。


図17:中正公園に入る正門


図18:中正公園から眺めた基隆港

6.野柳の岬
野柳は海面に突き出た岬で、海触や風化、地殻変動などが原因で、海触洞・蝋燭状・キノコ状・豆腐石・ミツバチの巣状・壺穴などさまざまな奇岩が生まれたとの説明を受けながら、それらを見て回った。しかし、それだけの話で、白浜の三段壁、能登の東尋坊などの方がよほど迫力があり、自然の驚異を感じさせてくれると思ったが、どうだろう?


図19:野柳の奇岩


図20:奇岩の前でカニポーズ



7.故宮博物院
今回の旅行の主な目的は、故宮博物院を見学することであったはずだった。ところが、野柳などを回って時間を費やし、故宮博物院に着いたのは閉館1時間前。

悪いことは重なるもので、故宮博物院は2004年4月から改装工事が行われていて、2006年2月まで続くというのだ。改装工事のため実質本館の3分の2が閉鎖中と知ってガックリ来てしまった。

時間が限られた中で、ガイドは要領よく展示物を選び、駆け足で解説をしてくれたので、故宮で見逃せない収蔵品は見せてくれたのだと思う。

その中で、記憶に残っているのは、天然の翡翠と玉の混ざり具合を巧みに利用した繊細な彫刻の「翠玉白菜」、西周時代の土地争いと講和談判の契約文が350文字で刻まれている青銅器の「散氏盤」、西周時代の青銅器の中で銘文が最も長く500文字刻み込まれている「毛公鼎」の3点くらいだ。

これらを見るまでは、わずか1時間で故宮博物院を見学させるとは何ごとかと腹立たしく思っていた。しかし、実際にこの博物館で重要とされている展示物を見てしまうと、1時間でもまあ良いかという気持になった。

というのは、これまで世界の博物館、美術館を訪れた際には必ず大きく感動するものに出会えたのだが、今回はそれがないからだ。私には古代の精巧精密なミクロの作品に興味が湧かなかった。

しかし、秦の始皇帝の兵馬俑坑で発掘された7000余体の実物大の陶製の人馬像を目の当たりにすることができれば、興奮し感動するだろうと思う。


図21:5時閉館で故宮博物院を追い出された直後

8.海覇王レストラン
夕食は海覇王という高級レストランで海鮮料理ということになっていた。ここはビルの7階にあり、エレベーターになかなか乗れない。部屋に入るとここもテーブルが二つで、今回は男性グループと女性グループに分かれて座った。料理は最初の夜の方が美味いし、給仕の男性二人は気配りが良くない、中でも一番良くなかったのは紹興酒を熱燗で頼んだら、アルコール分を全く飛ばしてしまったことだ。最初の夜の熱燗紹興酒はアルコールが抜けることはなく非常に美味かったので、今度もそれを頼んだのだが、期待は完全に裏切られた。かくしてこの夜の私はあまり良い気分にはならなかった。

それに対して、A氏の奥様とわが妻は、尊敬するB氏の横にはべり、いろいろ面倒をみていただき、指導を受け、ますます憧れ度を増して上機嫌だった。

9.新光摩天展望台
食事が終わると、マッサージに行く者、夜市に行く者などいろいろだったが、私たち夫婦はA氏ご夫妻、C氏ご夫妻、D氏のお嬢様の7人で展望台へ行くことにした。地下鉄(MRT)で1駅乗ったが、午後9時半を過ぎているというのに、ラッシュ時の地下鉄御堂筋線を思わせる混みようで、乗り込めるかちょっと不安になるほどだった。新光三越のある46階建て建物の展望台へは直通エレベーターで30秒くらいで到着すると、そこは四方ガラス張りで、台北市内の夜景が輝いて見える。閉館までの30分間をここで過ごして、タクシーでホテルに戻ったが、若いC氏ご夫妻とD氏のお嬢様はそれから夜市に出かけられた。

なお、かってはこの新光三越が台湾で一番高いビルだったが、現在は台北101が台湾はもちろん、世界一高いビルらしく、高さ508m、101階で、展望台は89階にあるそうだ。


図22:46階の展望台から見た夜景


5月5日(木)帰国の日

1.忠烈祠
ここは辛亥革命をはじめとする一連の革命や戦争で亡くなった志士、軍人、約33万人の霊を祀る廟で、毎時衛兵交代がある。陸、空、海軍から選ばれた衛兵が、交代で大門と大殿の守護を担当。青い制服は空軍、白は海軍、グリーンは陸軍に属しているとのこと。いずれも各軍から選抜されたエリート達で、勤務に就くと1時間は直立不動の姿勢を続けなければならないそうだ。

大門を守る衛兵と並んで記念撮影することが許されている。見物客が順番で記念撮影をしていた時だった。衛兵の立っている台座に腰掛けようとした男が、衛兵に銃剣で威嚇され、慌てふためき一目散に逃げ出した。誰かと見るとA氏ではないか! 見物客は思わぬハプニングに爆笑、爆笑。


図23:大門を警護する衛兵と並んで記念撮影

それから間もなく衛兵交代儀式が始まった。5名の隊列を組んだ儀仗兵が、大門から大殿に向かって行進を開始する。服は青、今回は空軍の当番のようだ。中正記念堂での衛兵交代の儀式も見たが、屋内と屋外の違いだけでなくスケールが違う。

大殿に到着した儀仗兵は任務に当たっていた衛兵2名と合流し、殿内の位牌に向かって敬礼。一連の儀式を終えた後に、次の担当者2名を残し、また5名の隊列を組んで大門へ戻った。


図24:忠烈祠の中心である大殿


図25:大殿へ向けて行進


図26:殿内の位牌に向かって敬礼


図27:大殿を退出


図28:階段下りる


図29:後に残って大殿を警護する衛兵

2.林安泰古
台北の観光は、「林安泰古」という古い民家の見学で終わった。この建物は中国福建省から移民してきて、台湾で成功した林氏が、200年以上前に建てた豪邸で、中庭を中心に4棟の建物を対称的に配置した明・清時代の福建省の典型的な建築様式とのことだった。建物にはあまり感じるところはなかったが、使っている木材のすべてを200年前に海を越えて福建省から運んできたこと、高温多湿な台湾では鉄釘は錆びるので、木材は竹や木製の釘で留められているとの説明を興味深く聞いた。


図30:林安泰古の全景


図31:林安泰古の門

3.茶を飲み、買い物、飲茶でお終い
茶藝館(台湾の中国茶専門の喫茶店)で説明を受けながら茶を飲み、みやげもの店でみやげを買い、全員で飲茶を頂いたら、一路中正国際空港へ。

4.帰りの機中
往きは席がバラバラだったが、帰りの飛行機は医師会メンバーの席を固めてとってくれていた。妻の隣はE氏の奥様で、3時間ばかりの飛行中、話がはずんでいるようだった。

5.関空到着
関空には予定より少し早く到着し、迎えに来てくれるバスを待っていると、悄然とした面持ちでF氏が添乗員と一緒に目の前を横切った。F氏の財布が見当たらないのだと言う。同じ席だったA氏ご夫妻は気が気ではないようだ。G氏は「せっかくここまでうまく行ったのに、ケチがついた」とつぶやき、がっくりきている。私たちもどうか見つかるようにと祈る思いだった。

しばらくして、F氏の姿が戻ってきた。それを見たG氏、「人間は正直やな、すぐ顔に出る」。まさにその通りで座席の下に財布は落ちていたそうだ。歓声が上がる。

6.帰路
帰りのバスは乗り心地最高、高速道路は渋滞皆無、窓から見える大阪の街は澄みきっていて美しい。やっぱり日本は良いとつくづく思う。ゆうゆうセンターには午後9時前に到着。H氏が駐車場の鎖を外して待っていて下さった。そのおかげで大型バスは駐車場を利用して方向転換ができる。楽しい旅をともにしたメンバーは笑顔でそれぞれの我が家に向かった。私たち夫婦はI氏ご夫妻の車で自宅まで送っていただいた。いつも載せていただくばかりで申し訳なく思う。

7.帰宅
家に着くと急に空腹を覚えた。海外旅行から帰ったときに食べたくなるのは決まって「うどん」。汁の表面を一味で赤く染め、腰のしっかりしたうどんをガツガツのどに放りこみ、満足した。良い旅だった。

今回は個人情報が特定できないように、文中の名前にAからIまでのアルファベットを使った。分かる人にはわかる、分からない人には分からない?


<2005.5.25.>

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