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倉敷と大原家の人々

2003.08.17. 掲載
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1.はじめに

今年の夏の休診は8月14日(木)から17日(日)までと、例年より短くした。妻はこの期間に東北へ旅行をしたがっていたが、私はDVDライブラリーを増やすことに夢中で、生返事をくりかえしている間にあきらめてしまったようだった。

ところが、ひょんなことから、倉敷へ行くことになった。8月はじめの夕刊に、高階秀爾氏が棟方志功の絵画を写真入りで紹介していて、版画と違って意外なほど柔らかな絵だった。それを見て突然興味が湧き、この目で見てみたい気持になった。棟方志功生誕100年記念特別展も開かれているので、それも一緒に観ることができる。同時に大原美術館を時間をかけて観てみたい、倉敷の町並みもゆっくり眺めてみたいという気持も重なっていた。

そこで妻を説得して、8月9日(土)の閉店間際のJTBに駆け込み、14日から1泊2日の旅行のセットを作ってもらった。

今回倉敷を訪れて良かったと思っているが、私にとって、残された限られた時間の中で、もう一度来るほどの価値はない。最近とみに健忘が強くなっているので、備忘録のつもりで記録に残しておくことにする。


1.倉敷駅とホテル倉敷

新幹線で岡山駅に着くと、在来線で3駅目、快速で12分のところに倉敷駅がある。最初美観地区の付近のホテルを希望したが、とれないのでホテル倉敷に決めた。他にターミナルホテルというのがあるが、実際はこちらがターミナルホテルに相当するもので、駅舎の6〜8階が客室になっている。

ここは倉敷駅に直結していて、南の美観地区と北のチボリ公園に行くには一番便利な位置にある。チボリ公園には4〜5分、美観地区へも徒歩10分くらいで行ける。美観地区へはセンター街、えびす通りを通れば全てにアーケードがあり、雨や太陽の光を避けて行動することもできる。そいういわけで、結果的にはこのホテルで良かったことが分かった。


2.大原美術館

この美術館には大学2年の56年夏に来たことがある。松江公会堂での阪大男声合唱団の公演旅行の帰り道に、竹村、服部両君などと訪れ、その後服部君の岡山の実家に泊めて頂いたのだった。二人は以前「日曜日に歌う会」を10年ばかり続けてきた友人である。その時の印象に残っている作品は、ロダンの「カレーの市民」の彫像とエル・グレコ 「受胎告知」 で、その他はあまり記憶に残っていない。


図1.ロダンの「カレーの市民」像


図2.エル・グレコ 「受胎告知」

昨年、医師会の会員旅行で、再びこの美術館を訪れた。本館と分館を2時間ばかりで見るには、余りにも見たいものが多くて、いささか不満が残ったが、団体旅行だから致し方ない。汗をふきふき、時間ぎりぎりで最後にバスに乗りこんだのを覚えている。

今回倉敷に着いたら猛烈な雨だった。タクシーでこの美術館近くまで行き、4時間ばかりかけて本館と別館を見て回った。本館で一番印象に残ったのは、ギュスターヴ・モローの「雅歌」である。この絵は中学の頃から好きだった。岩波少年美術館や平凡社の世界美術全集に載っているこの絵に魅せられた記憶がある。大塚美術館にもこのレプリカがあった。それを昨年ここを訪れたときには、慌しく見て回ったせいか、見落としていたのだった。


図3.ギュスターヴ・モローの「雅歌」

この絵を発見して、胸がキュンとなり、しばらくは見惚れていた。本物は画集やレプリカよりも比較にならぬきらびやかで美しく、魔法のように思えた。

分館は、棟方志功生誕100年記念特別展で埋め尽されている。最初に出会うのが「大和し美しい版画巻」で、彼の出世作である。見るだけでその無茶苦茶に膨大なエネルギーに圧倒されてしまった。その後も、その後も、エネルギーの塊のような作品が続き、いささか辟易しないこともない。目当ての新聞に載っていた「御群鯉図」などいくつかの水彩画を見たが、やはり棟方志功色の濃厚な作品で、あまり好きにはなれなかった。

エネルギッシュで奔放であるが、あかぬけしない棟方志功の作品は私の好みでないことを再確認した。ただ、いくつか例外があり、その中でも「ニ菩薩釈迦十大弟子板画柵」には感嘆した。特にニ菩薩を除いた釈迦十大弟子には文句無く脱帽した。ニ菩薩の方は棟方の変わらぬ女性像で、こちらは食傷気味だが、見慣れていなければ、やはりこちらもスゴイ版画だと思う。


図4.棟方志功の「ニ菩薩釈迦十大弟子板画柵」

棟方志功を無名時代から援助してきた大原総一郎との交流、それに連なる多くの作品を見るにつけ、芸術家とその庇護者(パトロン)のことを思ってしまう。棟方は多くの共鳴者、支援者に囲まれ、自由奔放に自分の創作意欲を発揮できた幸せな人だったようである。そしてその恩義に対して、作品で懸命に忠実に報いようとした人のようだった。「棟方志功は優等生ね」と妻が感想を漏らしたが、そう言えないこともない。


3.児島虎次郎記念館

倉紡2代目社長の大原孫三郎は、児島虎次郎という若い画家を庇護し、ヨーロッパに3度留学させ、絵画購入の資金を送り続けた。それによって、モネの「睡蓮」、エル・グレコの「受胎告知」など、膨大で精妙な絵画彫刻のコレクションが可能になったという。美校を2年飛びで卒業したという児島虎次郎の画家としての才能が優れていることは、この記念館の作品を見てよく理解できた。その中では「朝顔」が一番好きだ。

「60を越さねば自分の絵は描けない。今はまだ修業中なので、、、」が口癖だったという児島は、47歳の若さで亡くなった。それを哀れみ、彼の記念のために大原孫三郎は大原美術館をその翌年に開設したと聞く。日本最初の西洋近代美術館は、画家とパトロンの友情の結果として誕生したのである。何とも良い話ではないか。


4.倉紡記念館

美観地区の南東に倉敷アイビースクエアという地区がある。ここは倉紡の元工場後で、その一角に「倉紡記念館」がある。大原美術館で倉紡2代目、3代目社長が大いに関係していることを知ったので、倉紡についても知りたくなり、この倉紡記念館を訪れた。

ここには、わが国紡績産業の時代の移り変わりを背景に、倉紡の歩みが写 真・模型・文書・絵画などによって展示されている。その中で面白かったのは、女工募集の勧誘映画で、一人で寮に入る不安を同郷の先輩が取り除くところから始まり、お茶お華ピアノにコーラスなど福利厚生の充実ぶり、敷地内に作られた学校で学ぶこともできることなどの映像が次々と現われ、退職金をもらって故郷に帰るまでが描かれている。CMであることを割り引いても「女工哀史」とは違った側面もあったことを知った。

歴史の中で、枚方工場の記事があり、現在関西医科大学病院の建設が決まっている倉紡跡地がそれであることを知り、この会社を身近に感じた。


5.倉敷中央病院

倉紡記念館では、大原孫三郎が倉紡中央病院の前身である倉紡中央病院を大正12年開院し、昭和2年には「倉敷中央病院」と改名したことを知った。この倉敷中央病院について、私には特別の思い入れがある。それは、学生の頃学んだ放射線科の立入 弘教授が、この病院に在職中に臨床放射線医学に専念され、その十数年間の総決算として「胸部レントゲン鑑別診断図説」を著し、長崎大学医学部教授になられ、後に大阪大学医学部教授に転任されたことである。

私が学生の頃からCPC(臨床病理検討会)やCC(症例検討会)がアメリカ医学に倣って開かれるようになった。その時、ほとんど常に正しい診断を下すのが立入教授であった。先生が倉敷中央病院時代に著された「胸部レントゲン鑑別診断図説」を購入してみると、先生の恩師である長橋正道名誉教授が書かれた序文に惹きつけられてしまった。今もそのあらましを覚えている。その一部をここに転記しておく。


図5.立入 弘著「胸部レントゲン鑑別診断図説」

「膨大な予算と規模をもって、堂々たるドライブ・ウエイがそこここに出来て、これに高級車が快速に走り廻る世の中に、こつこつと小さな土地を拓いて草花を植え、ベンチを置いて、庶民のための小公園を独力で作る男も時にはいるものである。本書の著者立入弘君は私の門下生であって、このような真面目な努力とロマンの持ち主である。

卒業後、在室数年で倉敷中央病院に赴任させたが、その後15年間臨床放射線医学に専念して、ただにレントゲン学の側からのみでなく、あらゆる機会を捉えて手術に立会い、剖検に列して、その知見を広めると共に、臨床レントゲン学を深く掘り下げた。

そして常に同じ野にある臨床医家を愛し、若い後輩の上を慮っている。その故に、一般医家にややもすれば難解と見られるレントゲン診断学を出来得る限り平易に、且つ明快にこれを解説して、その日常の用に供して、少しでも正しいレントゲン診断学の普及に努めることを念願し実践して来ている。

後略

                     昭和30年3月末    大阪大学名誉教授 長橋正道


倉敷中央病院は京大系の病院である。そこに阪大から独りで赴任した。学閥の強い当時の医学の世界にあって、その間のご苦労は並大抵ではなかったことと想像できる、しかしそこで研鑽を積み、業績を上げ、日本の放射線学を担い指導するところまでなられた。

先生は、本年3月に93歳のご高齢をもって逝去された。「お別れ会」で、参会者に配られた立入先生の直筆の遺す言葉の前文をWebサイトで見つけた。

「九十年に余る起伏の大きく変化に富んだ人生でしたが、私なりに一生懸命に筋を通して生きて来たつもりで居ります。これも恩師、先輩や友人の方々の御好意と家族の愛情に助けられてのことでありまして、今この時に当りまして深い感謝の言葉と最後の挨拶を申し述べたいと存じます」

「私なりに一生懸命に筋を通して生きて来たつもりで居ります」に深い共感を覚える。


6.倉敷の街

昔ながらの倉が建ち並ぶ白壁の家並み、倉敷川に沿って両岸に青々とした柳が並ぶ美観地区の風景は確かに美しいが、歩行者が多くて風情があるとはちょっと言い難い。それでも、どこかハイカラでおしゃれな街である。


7.チボリ公園

チボリ公園は倉敷駅の北側にある。デンマークのチボリ公園を真似て作られたようであるが、私たち夫婦はこのような人工的な遊園地を好まない。それは長崎のハウステンボスでも感じたことだった。

そうは言っても、もちろん出かけることはした。開園間もなくの10時過ぎに、入場者はかなり列をなして並んでいる。ここで妻が笑って指差す先を見ると、65歳以上は入場料が大人の半額で1000円である。私は67歳でシルバーサービスを受けられるというのだ。

余り面白そうなものがないと思ったら、妻がジェットコースターに乗りたいと言って聞かない。私は高所恐怖症、昔生駒山頂でこれに乗って死ぬ思いをしたので、ほんとうは乗りたくないのだが、しぶしぶ乗ることにした。

乗るとなると「大丈夫?」と尋ねる。「おしっこチビルかも分からん」と答えると、「それなら良いけど、心臓は大丈夫?」と来る。「2〜3秒心臓は止まるかもわからへん」。そんなくだらんことを話しながら、ジェットコースターに乗り込んだ。

覚悟を決めて、いざ出発してみると案外恐怖感が起きない。と思っていると、暗闇の中に突入し、薄気味悪い声と妖怪らしきものが周りから出てくる。どうやらお化け屋敷的なジェットコースターのようだ。こうなると私は面白いから、目をしっかり開けて周りを見るのだが、妻は怖がって目を閉じていたらしい。後で、本当のジェットコースターは隣だったことを知った。

乗車券売り場に「65歳以上、心臓の悪い人、血圧の高い人は乗車できません」と出ていたらしい。入場の際は65歳以上の特権を行使し、ジェットコースターでは65歳以下を装うというのは、ちょっとオカシイ、イケナイことではなかろうか?

かくして、短い夏休みのメインイベントは無事終了したのである。


<2003.8.17.>

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