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開院までのあらまし

<野村医院20年史(93年11月)から>

1998.01.06. 掲載
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昭和48年(73年)9月1日に、野村医院を開業しました。それから本年8月31日までの間に、20年の歳月が過ぎました。ここに、当院が開院するまでの経過のあらましを、記しておこうと思います。


私は、昭和36年(61年)に大阪大学医学部を卒業し、1年間のインターンを終えて、昭和37年に、阪大第一外科に入局しました。昭和38年から、神戸の川崎病院に出張勤務し、昭和40年に、第一外科に帰局、以来、曲直部壽夫教授、川島康生講師のもとで、心臓外科を専攻して参りました。

ちょうどその頃は、心臓外科が急速に発展しはじめた時期で、長時間体外循環が可能になり、複雑心奇型に対する根治手術の成功があい次ぎ、人工弁置換術、同種弁移植、心臓移植と、留まることを知らないような状況でした。その中で、私は夢中になって心臓外科医への道を進んでいました。


ところが、昭和43年頃から吹き荒れた、大学紛争を経験している間に、大学に留まって心臓外科医になることに疑問を感じるようになりました。そこで、大学を離れて開業することを考え、その気持を医局で発表しました。その後、安田講堂が落城し、大学紛争が終りを告げてからは、大学にも、また、医局にも、再び平和が訪れ、そこを去ることに幾らかのためらいを感じました。しかし、それも、一旦決めたことを変えるほどのものではなく、昭和46年6月に、大学を辞しました。

大学を離れ、大阪市内の名取病院に就職し、内科と整形外科、放射線科、診療事務などの実際を勉強し、開業の準備を進めて行きました。


開業する場所は淡路島と、最初から決めていました。それは、公務員の息子で財力はまったくなく、ただ、父親が淡路島の出身で、そこに土地があるから、というだけの理由でした。実のところ、私は神戸で生まれ育ったので、田舎に行くことに余り気は進まなかったのですが、背に腹は変えられません。淡路島にも何回か足を運び、少しづつ開業実現に向かっていったのです。

それが、こちらで開業することになったのは、連合赤軍の浅間山荘事件の実況テレビを、病院のロビーで見て受けた衝撃がきっかけでした。昭和47年2月のことです。

それまで淡路島に打ち合せに行って、叔母などと話していると、ここで開業している医師の子弟は、高校から阪神間の学校に行っていると聞かされました。それも仕方ないかと思っていたのですが、この実況を見て、突然猛烈な不安に襲われたのです。私の子供だから血の気が多くて、都会に独りで置いておくと、この連合赤軍の若者たちと同じような行動をとるかも知れない、しかし、それでは余りにも酷すぎる。そう思って、淡路島で開業するのを止めました。

院長や同僚の医師に相談すると、誰もがこの考えに賛成してくれましたし、妻も喜びました。しかし、開業資金はこの病院の給料を貯めたものしかなく、妻の父の土地を借りなければできない相談です。義父に話すと、最初から諦めていたのが、思いがけず変更になったことを喜び、土地を使わせてくれることになりました。

ところが、話はそんなにうまく行くものではありません。義父の土地は、近くに医療機関があるので、駄目だということになりました。とは言っても、そんなに簡単に、別の土地が見つかるわけはなく、数カ月の間、ただ悶々として過ごしました。一生の間で、あれほどの焦燥と緊張を強いられたことは、後にも先にもありません。深夜に家を飛びだし、車であちこちの土地を探し回ったことも何回かあり、自分で決められないことのつらさと歯がゆさを、痛いほど経験しました。

幸い、昭和47年11月に、ある方のお世話で、現在の土地を入手できました。自分で平面図だけでなく、立面図も書き、昭和47年末に地鎮祭、翌年から工事に入り、昭和48年9月1日に、野村医院を開業しました。標榜科目は内科、循環器科、消化器科としました。当時は医師会の規制が厳しく、外科は予定を変更して取り止めることにしました。心臓外科を専攻したこと、川崎病院で消化器外科を勉強し、胃透視や胃カメラも学んだこと、名取病院では内科と放射線科を勉強したので、標榜科目をこの3科に決めました。

小手術室や病室まで設計していたのにもかかわらず、外科を思い切れたのは、これまで専門医として過ごしてきたのを止めるのだから、中途半端なことをせず、一般医として進もうと考えたからです。だから、この標榜科目にこだわることなく、開業してからは、家庭医ホームドクターに徹しようと考えました。そう決めてしまうと、専門医から一般医へと180度方向転換することに対して、不安よりも、むしろ、期待や希望の方が大きくなりました。いま、その時の選択を思い返してみて、一般医に徹したことは正解だったような気がします。

私37歳、妻30歳、長男4歳でした。医院の東隣を除いて3方が田圃でしたが、20年経った今も、その環境は変っていません。

本年2月に出た、連合赤軍に対する最高裁の判決を読みながら、彼等の起こした事件が、当地での開業のきっかけになったことを思うと、感無量です。

(1993年8月、記)


<1998.1.6.>

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