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猛烈な下痢腹痛の体験記

2003.12.30. 掲載
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親からもらった体質のうちで、一番感謝してきたのは頑強な消化器系だった。快眠快食快便はこどもの頃から常に変わらず、1年で食欲のない日は数日もない。妻に、私の食欲について尋ねたら「あなたに食欲のない日などあるの?」と逆に問われてしまった。泥酔で朝帰りしても、昼からは、いつもの食事に戻っている。

ことほど左様に、自他ともに認める私のストロング・ポイントが、生まれてはじめて壊滅的打撃を受けてしまった。その精神的なダメージは強烈で、しばらくは立ち直ることができなかったほどである。

巷では、「鬼の霍乱」と噂されているとの風聞に、真相を伝えねばと思いつつ、発端から10日を過ぎた今になって、ようやくまとめる気力が出てきた。事の発端から、その後の経過を日を追って書いて行くことにする。

2月6日(木)
木曜日の午後は休診にしているが、この日は嘱託医をしている保育園の内科検診を終えて、上機嫌で鼻歌を唄いながら、車で梅田に向かった。木曜午後は、私たち夫婦の「命の洗濯日」。妻はウインドウ・ショッピング、私は本屋、パソコンショップ、レコード屋などを巡ってから落ち合い、ビールを飲んで帰るのが長年の習慣である。

梅田に着いて、携帯で妻を呼び出し、どこにも立ち寄らず、食事をとることにした。空腹感はないのだが、なぜか、いつものようにパソコンショップに向かう気が起こらない。ビールも必ず大ジョッキを注文するのだが、この日は中ジョッキ、それをやっとの思いで飲んだ。料理もあまり美味くない。最後に頼んだごぼうの揚げ物は不味く、この店も味が落ちたなと毒づいた。時間がいつもより早いので、1軒の本屋にだけ立ち寄り、2冊ばかり購入して、妻の運転で帰途についた。

道路交通法改正後、2度飲酒運転の検問を受けたので、それ以来飲んだら妻の運転と決めている。その車中で徐々に腹が張ってくるため、座席を垂直に立て、膝をダッシュボードに強く押し付け、腹を押さえ込むようにして守り、家に入るなりトイレへ直行した。午後8時だった。

最初少量の軟便だったのが、30分もしない間に猛烈な下痢に変わった。それはまるで、鉄砲水だった。その後、名古屋刑務所の看守が行った暴行記事を読み、あの下痢の状態は、消防の高圧放水ホースから飛び出す水流と表現しても間違いではないと思った。それほど激しい下痢でありながら、痛みはなく、発熱もない。

この下痢が午後8時から始まり、翌日午前5時20分までの9時間にわたって、30分から1時間間隔で続いた。12時ごろ、気がついた時には間に合わず、下着はもちろんパジャマまで水浸しである。何たる屈辱!。そこで殿部にタオルを当てて就眠した。夢の中で「このボタンをクリックしたら最新情報が分かる」というメッセージがパソコン画面に繰り返し流れてくる。これは悪魔の誘いだ、乗ってはいけないと思って、起きてトイレに行くと鉄砲水である。

しかし、そのうちに睡魔に勝てず深く眠ってしまったらしい。腰の辺りのなまぬるい感じに目を覚ますと、またもや水浸しだった。こんなことが続くなら、私の尊厳など吹き飛んでしまう。それを認めたくなければ、痴呆老人に逃避するより仕方がないと、一瞬思ったりもした。だが、父の介護で慣れているのか、妻は意に介さず手際よく処理をしてくれてありがたい。

小腸で水分の分泌が増え、大腸で水分の吸収が減った結果、これほど大量の下痢となったということだろうが、それにしても、よくもまあ、これほど絶え間なく大量の水を作ることができるものだと呆れてしまった。

今年は、新しいことを始めようと考えていた。そのせいか、これまで経験したことのないことをいくつか体験する羽目になった。その一つが、この鉄砲水性の激しい下痢だったとは、皮肉なものだ。これまでは、下痢をしても数回で治まり、下痢止めなど飲んだこともない。ところが、今回のは、そのあともいろいろ難儀なことが続くのだ。

2月7日(金)
現在開業して29年と5ヶ月になる。その間父が亡くなった時と、弟の結婚の時を除いて、診療を休んだことはない。できれば、30年間を皆勤で終えたいというのが私の密かな願いである。起床前に点滴を受け、リンゴジュース1個分を飲んで診療に臨んだ。悪いことは重なるもので、この日は午前も午後も、患者数が今年2番目に多い。体重はちょうど2kg減っている。500mlの点滴を入れたので、おおよそ2500mlの下痢だった勘定になる。

低カリウムと低血糖で倦怠感は強いが、こういう時になると、へそ曲がりが出て、手抜きをせず、いつもより丁寧に診療をしようとしてしまう。診療を開始して間もなく、咳と発熱を訴える患者のレントゲンを撮ると、予想通り肺炎を起こしていた。患者の希望する病院へ紹介状をパソコンで書き、レントゲンを付けて手渡した。

午前の診療が終わると同時に午後4時半まで就眠、リンゴ2個分のジュースを飲み、夜の診療に従事したが、夜も今年2番目に多い患者数だった。眠っている間に、親しいDrが「超劇辛青唐辛子味噌漬」を届けてくれたので、そのお礼メールを送信し、診療を終えた。夕食にはおかゆとジャガイモの味噌汁、オニオンスープだけを摂り、そのまま食堂の床で眠ってしまった。

午後10時過ぎ、携帯に入ったメールの音で目を覚ますと、別の親しいDrからで、再発行のパスワードが郵送されてきたとの礼状だった。そのまま起きて、日計表の処理を行い、入浴をしてさっぱりした気分で就眠した。

この時、私の病気の対処法は、ひたすら眠ることだということに気がついた。私は呼吸器系が弱いので、風邪を引くと総合感冒薬を飲んで眠ることにしている。総合感冒薬は常に倍量を飲むので、そのために、いくらでも眠れるのだと思ってきたが、今回は何も飲んでいないのに、横になれば眠ってしまうのだ。

この下痢の原因について、ビールス性のものではないかと思ってきた。いわゆる感染性胃腸炎で、こどもだけでなく、大人にも多い。無痛性、水様性、無熱性であることから、ロタウイルス(HRV)か小型球形ウイルス(SRSV)によるものだろう、下痢が止まれば、いつもの通り終わりになるだろうと予想していた。

ただ、あまりに頻回にトイレに通ったので、持病の痔核が悪化して、ティッシュに血が付きはじめた。このくらいで済んでいるのは、「おしり洗浄」のお陰である。NHKの「プロジェクトX」で放送されたTOTOの関係者に、深甚の謝意を捧げる。これなくしては、便器に何度か鮮血が飛び散ったことであろう。痔核を悪くしないために、下痢止めを飲むことにした。

2月8日(土)
2個分のリンゴジュースを飲み、点滴を受けて診療を始めた。下痢止めを服用した効果で下痢は止まっているが、腹が異常に張っている。ほとんど何も食べていないので、これはガスのせいだと予想して、自分でレントゲンの透視台に上ると大量のガス像が見える。妻にボタンを押させて撮影をしておいた。この大量ガス像を見たので、下痢止めの服用は中止した。

このような大量のガス像を見た場合、浣腸を指示すると、大量の排ガスとともに症状はとれて感謝されるのだが、自分は、自然放屁にゆだねることにした。そして、何回かの放屁で腹部膨満感は消えて行った。下痢止めの服用も、大量ガス貯留も、私にとって初体験である。

午前の診療を終えた後、3時まで就眠し、それからうどんを食べてみたが不味い。紅茶、りんごジュース、野菜ジュースなどを飲み比べてみると、手製のリンゴジュースが格段に美味い。そこで2個分を一気に飲み干した。

6時から雑炊を美味しく食べた後、日計表関連の処理を行い、インターネットの2ヶ所の掲示板に書き込みを行った。経過は順調に思えた。便は、白色の軟便であるが、ロタウイルス感染症の場合によく見られることなので、特に気にはしていなかった。かって「仮性小児コレラ」とか「乳児白色下痢症」と言われてきた病気の多くが、ロタウイルスなどのウイルス感染症であることが分かってきている。

妻は「I am tough と思っているのでしょう?」と嬉しそうだ。ところが、そうは問屋が卸してくれない!

腹部の異常膨満感は、このガスで説明できた。放屁を重ねることで、この腹部の膨満も減って行った。これで順調な経過になると予想していたのだが、尿意を催す不快感や、肛門から会陰、膀胱あたりの下腹部の不快感が続く。

私は40歳と50歳のころ、2度前立腺炎を患ったことがある。その時の記憶が突然よみがえり不安になった。悪寒戦慄と高熱、会陰部の鈍痛をともなうこの病気は、もう願い下げだ。前立腺には抗菌剤が浸透し難く、当時は「バクタ」というキノロンとサルファ剤の合剤しか効く薬はなかった。今日の治療指針を見ると、ニューキノロンの「クラビット」が一番効果があるようなので、これを服用することにした。

とは言っても、下腹部から肛門部、会陰部にかけての不快感であり、発熱も会陰部の圧痛もなく、前立腺炎としての症状があるわけではない。そこで、頻回に排便したために骨盤内静脈のうっ血を来たし、そのためにこのような症状が出るのかもしれないと考えて、しばらくは痔核用のサーカネッテンを服用したり、痔の坐薬を使用したりしてみた。しかし、予想は外れ、まったく無効だったので、間もなく中止した。痔の内服薬の服用も、坐薬の使用も初体験である。

寝ると上記の不快感は少しやわらぐので、時間があれば寝ていた。翌日が日曜ではじめて診療をしなくて休めると思うと、たまらなく嬉しかった。もうこれで治るだろう!

2月9日(日)
朝起きようとすると腰が痛く、長い間寝ていたことによるいわゆる「寝ごし」ではないかと思ったが、ボルタレンを服用すると間もなく治まった。レセプトの提出日が翌日である。レセプトの打ち出しは月末に終えているが、今回のエピソードがあったため、妻の点検が遅れていて、この日の朝から修正分の打ち出しや総括表の再作成、編綴作業を開始した。

昼食は稲庭うどん、これは普段あまり好まないのだが、腹の調子が回復していない状態では美味かった。いくら柔らかく煮ても、ねばりと弾力性が無くならないところが良い。

午後3時に大阪に行かなければならない用事があり、中断したのち、帰宅して就眠のあと作業を再開した。夕食はかに雑炊のみで、ほかにリンゴジュース2個分を摂った。

前日の期待も空しく、会陰部から肛門部にかけての不快感は持続する。この不快感は排便によっても軽快することはない。翌日この状態でまた診療をしなければならないことを思うと気持ちが重い。糞便に少し色が付きはじめ、白色便ではなくなってきた。

2月10(月)
腹部深部不快感、膀胱会陰部刺激感と不快感は、変わらず続いている。これも初体験である。6個分のリンゴジュースを飲み、診療を始めたが、この日の午前も患者数は7日と同数で、今年2番目に多い。もう、泣きたくなる思いで、しかし、意識して丁寧に診療をした。

夜の診療の始まる30分前まで就眠していたが、一人暮らしの老婦人が往診を求めていると近所の人から電話があり、飛び起きて往診した。急に嘔吐したとのことだが、一般状態は悪くなく、制吐剤と抗生剤を注射しておいた。2〜3日経って、あれからすぐに良くなったとお礼に来た。

この日は、夜の就眠時にはグル音(腸雑音)がよく聞こえていた。明け方の4時ごろ、突然経験したことのない猛烈な腹痛に襲われて目が覚めた。腹全体がこむらがえりを起こしたような痛みで、声を出すこともできない。妻は安定剤を飲んでいるため熟睡している。あまりの痛さに、腹部症状の強い心筋梗塞ではないかと思い、救急車を依頼しようかと思うほどだった。それがどれほど続いたのか、10分から30分くらい経ったのではないかと思う、便意をもよおしてトイレに座ると、大きな放屁とともに、腹痛は消失して行った。

ガスの排出のあと、腹全体のこむら返りのような痛みは無くなったので、やはりガスの貯留がこの痛み原因と考えるべきなのかも分からない。それにしても、突発的に、筋クランプ的な猛烈な痛みが、腸内ガスの貯留だけで起きることのメカニズムが理解できない。そこで、鉄砲水的な激しい下痢を起こすほどの激烈なダメージを腸管が受けているため、それから十分回復していない腸管に大きな内圧がかかると、こむらがえりのような猛烈な痛さになるのかもしれないと考えたりもしてみたが、もう一つすっきりしない。このような痛さも初体験である。

痛みがとれたせいか、そのあと夢を見た。私はアメリカの田舎の教会らしき建物の前で、群集と一緒にいる。そこではなぜか人々に歌を唄わせてくれるのだが、私の直前でもう終わりだと言って締め切られてしまった。そこを懇願して唄わせてもらうことにしたまでは良かったが、何を唄いたかったか忘れてしまった。それではかっこがつかない。そこで、頭に浮かんだ曲をドレミで歌い始めた。

その歌は「ノエル」といって、こどもの頃クリスマス時分になると、SPレコードでよく聴いて一緒に唄っていた曲である。一所懸命に唄うのだが、思うように声が出ない。もっとうまく唄えるのだぞと、大声を張り上げたら、本当に声が出てしまったらしい。それまで熟睡していた妻が、驚いて飛び起きた。そして、蛙がつぶされたような異様な声がしたと怯えているのには参ったが、猛烈な腹痛とそのあとの夢の話をしたら、笑い出した。夢の中で唄っていたのが、本当に声を出して唄ってしまったというのも初体験である。

2月11日(祝)
この日は祝日であるが、前日妻の大学の同期生の訃報がFAXで入り、お別れの会が芦屋で行われるため、私のことを気にしながら、妻は出掛けて行った。

腹部深部不快感、肛門から会陰部にかけての不快感と刺激感は続いている。心配性の妻が居ないのを幸い、ゴム手袋をつけて、自分で直腸指診を行ってみた。これも初体験である。肛門から指の届く範囲は何もない。前立腺の肥大も圧痛もない。おかしい。

昼食は稲庭うどんとリンゴジュースのみ。

4時過ぎに妻が帰宅、故人は学位をとるなど活発に生きてきたが、子宮ガンで亡くなったとのこと、清楚なよいお別れ会だったとしんみり語った。妻の昼食用にと買ってきた松花堂弁当が美味そうなので、それを横取りし、スポンジケーキを食べ、アイスクリームを口にするなど、久し振りに満腹感を味わった。それまでの5日間は、リンゴジュース、お粥、雑炊、稲庭うどんなどを食べるだけで、1日2〜3回の点滴を受けてきたのだから、このように好きなものを、好きなだけ食べるのは、ちょっと無謀かとも思ったが、私のタフな消化器系なら、もう大丈夫だろうと思っていた。

ところが、それから1時間ばかり過ぎた6時頃から、腹全体が不気味に痛くなって来た。場所を特定することができず、腹壁は柔らかく、圧痛はないのだが、腹の深いところで、周期的に痛みが強くなる。疝痛であることには違いがない。排便を試みても痛みは変わらない。X線透視を自分で2回行ったが、ガス像は正常で、水平像形成はなく、イレウスは否定できる。

痛みが耐え難くなって、息子と電話中の妻に、ブスコパン1アンプルを溶かしたブドウ糖液を手渡して静注をしてもらったが、まったく効果がない。120mlのグリセリン浣腸を2回行ったが、これも効果がない。このグリセリン浣腸液の排出の感じから、最初の鉄砲水的な下痢の水量は、おおよそ200mlだろうと推定できた。200mlの下痢が10回とすると、2リットルの水分が10時間足らずで体から出て行った計算になる。これは、翌日の体重が2kg減少していたことに合致する。この浣腸という医療行為もまた、私にとって初体験だった。

横になっても痛みは変わらず、輾転反側、身の置き場がない感じ。この輾転反側という状態からは悪い記憶ばかりが思い浮かぶ。ブスコパンを1アンプル、メチロンを1A入れて点滴をしてもらったが、効果はなく、のどが無性に渇くだけだった。こうなれば、ペンタジンを注射するほかはないと考えたが、調べてみると期限切れである。最近あまり使わないので致しかたない。滅多に苦しい顔をしない私が、絶えず苦痛に耐えている表情見せるのだろう。「パパはそんな顔をしないのに」と、妻は不安がる。さて、どうするか?

9時半ころ、妻が「今日は火曜日だから、栗本先生が当直ではないかしら?」と言うので、携帯に電話すると、今日はゴルフのコンペがあって、帰宅したところだが、直ぐに病院に行くと言って下さった。お疲れのところ申し訳ないが、ご好意に感謝して、診て頂くことにした。私はそけいヘルニアの手術をインターン時代に受けた以外病院を受診したことはない。急病での時間外受診は、もちろん初体験である。この時、このまま入院となれば、開業以来病気で休診をせずに診療して来た記録が壊れることだけが残念だった。あと、半年ばかり頑張れば、30年間皆勤の目標達成ができるのだが、やはり80点主義の私には無理なのかもしれないと苦笑した。

自分で運転をして10時前に病院に入り、先生の診察を受けた。問診で、猛烈な下痢のあと白色便が2〜3日続いたことを告げると、先生は胆道系の閉塞を心配されたようだ。触診で腹部は柔らかく、圧痛、筋性防衛はない。これは私が自分で触診した結果と同じだ。

看護師、レントゲン技師、外科当直医師によって手際よく、血液検査、腹部立位単純X線撮影、腹部CT、腹部エコーを進めて行って下さった。その結果は、腹部CTで左腎臓の周囲に浮腫があることを除いて所見はなく、腹痛の原因は不明だが、胃と大腸の内視鏡検査を勧められた。左腎臓周囲の浮腫については、後日泌尿器科医の診断を受けるように指示され、CTのコピーフィルムをもらってきた。

交野病院を出て間もなく、妻は「パパが膵臓がんでも仕方がない、もう十分幸せだったから」とポツリともらした。栗本Drのことばから、短絡的に膵臓がんと思ったようだ。膵臓がんは一番治療が難しいことをよく知っているので、寿命は短いと思ったのだろう。誰よりも心配性で、すぐパニックになる妻が、不安をこらえて健気に私との結婚生活を感謝してくれたことに感動した。そして、これなら、私が死んでも、取り乱して錯乱状態になることもあるまいと思った。

もちろん、私は膵臓がんなど思っていなかった。それは発症の仕方がまったく違う、白色便はロタや小型球形ウイルス感染症の激しい下痢では良く見られる、それに現在は着色便に戻っている、CTで膵臓や肝臓に異常がなかった、肝機能も正常であるなどの理由からである。

帰宅したのが11時15分、心配した息子が電話を掛けてきて、CTで異常がなければ、膵臓がんはあり得ないと妻に説明したようだ。それを聞いて妻は非常に喜んだ。膵臓がんでさえなければ、胃がんや大腸がんだとしてもすぐに死ぬことはないだろう。残りの人生を私と一緒に精一杯楽しむことができる、と思ったようだ。11時23分に栗本先生から電話があり、内科医と相談した結果、白色下痢便はロタウイルスによるものだと思うと、わざわざ伝えて下さった。気配りのできる素晴らしいDrである。

6時から5時間以上続いた周期的に増強する不気味な腹痛が、少し軽くなって来た。栗本先生のアドバイスでボルタレンサポ50mgを挿入して、12時から食堂の床の上で眠った。このような不気味な腹痛はもちろん初体験である。それに、食堂の床で朝まで寝たのも初体験、妻も心配らしく、食堂の片隅で寝ていた。これも初体験。

なぜ、食堂の床が良いかというと、床暖房が入っているので暖かい。これは、最初の鉄砲水的下痢のため明け方まで1時間間隔でトイレに通い、寝室のベッドに戻っても猛烈に寒くガタガタ震えていたことを思い出したことが大きい。もう一つは、ベッドよりも食堂の床の上で点滴を受ける方が便利で、点滴のスピードも速くできるし、妻も、家事をしながらでも、私の様子を注意することができるメリットがあるからだ。

2月12(水)
ボルタレンが効いたのか、それとも時間的に治まる頃だったためかは分からないが、朝までぐっすり眠れた。7時半に起きて点滴を受けていると、7時41分に携帯にメールが入った。栗本Drからで「本日は病院にいないが、他の先生にあらまし伝えてあるので、困ったことがあれば病院に連絡して欲しい」という内容のメールである。私の場合パソコンに届いたメールは、携帯にも転送するように設定している。右手で点滴、左手に携帯で折り返し電話をしたら、栗本Drは余りの早業に驚いていた。

祝日明けのため、朝の診療の患者は多い。おまけに、胃透視が一人、点滴が二人あり、精神的にも疲れてしまう。午後からは、府立交野自立センターの検診と交野市の生活保護の嘱託医の仕事があるが、生活保護の方はキャンセルさせてもらった。

生活保護の仕事がある日は交野市医師会の事務所に顔を出し、尼子Drや明石Drと会話を交わすのが長年の慣習である。お二人は私が来るものと思っておられるはずだから、断りの電話をかけたら、二人と話す羽目になり、私がダウンしていることをしゃべってしまった。そこから、「鬼の霍乱」の風説が流れたらしい。しかたがないので、インターネットの私の掲示板に、消化器系でやられたと少しほのめかしておいた。

夕方に色んなものをたくさん食べたことが、昨夜の腹痛の原因ではないかと思ったので、この日からまた消化の良い食べ物に戻すことにした。この日1日で飲んだリンゴジュースの量は12個分となった。昼食は他に稲庭うどん、夕食は他には雑炊。

この日を境に、肛門から会陰部にかけての不快感や刺激感はまったくなくなり、時折起きる腹痛も、放屁で治まる程度である。点滴のあと入浴中、23時19分に明石Drからメールが入っていたので、これに返信をした後、食堂の床から寝室のベッドに戻り就眠。

2月13日(木)
午前4時ごろ、左肋骨弓部(左の横腹)の鈍痛で目が覚めた。CTで認めた左腎臓周囲の浮腫と関係しているのかと思ったが、排尿で痛みは消失した。そのまま、8時まで就眠。

朝起きると、妻が笑いながら手を見せる。見ると手のひらが茶色に染まって、ひび割れした部分が黒く線状に刻まれている。原因は明白だ。鉄砲水的下痢以来、私はリンゴジュースを飲み続けてきた。それをガーゼで絞って作る作業のくりかえしが、この手をもたらしたのだ。「 Apple Juice Maker's Hands 」、これが私の下した診断名である。医療用の使い捨てのゴム手袋はたくさんあるのに、自分が嫌だからと妻は使おうとしない。

開業以来、下痢の食事療法としてリンゴジュースを勧めてきたが、私自身は手製のリンゴジュースを飲んだことはなかった。下痢をしても数回で治まるので、下痢止めも腹痛止めも服用したことはなく、下痢でも食事を変えることがなかったからだ。

ところが、今度の鉄砲水的下痢から、リンゴジュースを作ってもらって飲んでみると、これが滅茶苦茶に美味い。たまたま、美味いリンゴに当たったのかと思ったが、そうではなくて、どれも変わらず美味いのだ。そうなると、一旦気に入ったものは、とことん好きになる私の性癖から、手作りリンゴジュースは、何にも勝る好物となり、毎日飲み続けることになった。私は辛党だが、アイスクリームとチョコレートとドイツワインは例外である。この手作りリンゴジュースは、ドイツワインに通じる甘さだと思った。

妻の傷んだ手を見たので、飲んだリンゴジュースの量を数えてみると、7日から12日までの6日間で28個分飲んでいる勘定になる。1日平均4.7個に呆れながら、私らしいと苦笑した。そして、亭主の好きな赤烏帽子ならぬ、リンゴジュースをせっせと作ってくれて、汚くなった妻の手を無性にいとおしく思った。

昼は稲庭うどんとリンゴジュース、夜は湯豆腐とリンゴジュースで、この日も4個分のリンゴジュースを飲み、りんごは合計32個になった。

私が少し元気になったので、心の余裕がでてきたのか、妻は私の過去の採血データを食堂に持ち込んで来て、チェックを始めた。人に私がやせたと言われたりすると、妻は発作的に心配になり、年に1〜2回無理やり採血をしてくれるのだが、それらのデータは整理をせずに、プラスチックの整理ケースの一つに放り込んである。自動身長体重計は、ときどき気が向いた時に計るので、このデータも同じところにある。そのほか、自動血圧計の紙切れでペーパーを交換するときに、テスト用に自分の血圧を計るので、そのデータもある。

最近の血液データは昨年9月だった。妻は悪い方に解釈するのが得意だが、私は自分のからだについても、できるだけ客観的に見ようとしてしまう。説明がつかないことや、分からないことについては、一応の仮説を立てるが、それを固持することはない。そのあとで、より説明がつく仮説が立てられれば、さっさとそれに乗り換える。これはもう習い性になっているようだ。

妻が検査データをまとめて持ってきた機会に、自分のデータを整理することにした。血液検査データ、身長体重データ、血圧データの3種類に大きく分け、それぞれを時系列順に並べ、1年ごとにホッチキスでまとめるという作業だが、やり始めると面白い。ここでも、私の「手抜きズボラ超々整理法」でやっているのに気が付き愉快になった。つまり、個々のデータは大切にして捨てないが、整理することはせず、1箇所に集めて置く。そして、必要になった時に、はじめてそれらを項目別に、時系列順に並べるという整理法である。

この整理をしていて気づいたことは、日付入りの印刷データは手間が要らない分、集めやすく、残して置きやすい。その上、あとでまとめて整理する際にも便利だということだった。これらのデータを書き写したりしていたら、面倒くさくて、中断していただろう。元データのままで、そこに項目と日付があるということが、データ整理の成功の条件だと言える。

検査データの整理を終え、入浴して、食堂の床の上で点滴を受けている私の横で、妻は洗濯物を片付けはじめた。そのうちに、忙しく手を動かし始めたので何ごとかと尋ねると、ティッシュを取り除かずに洗濯機を回したらく、細かい紙切れがたくさんに付いているというのだ。そして、間もなく犯人は私であることが分かった。紙切れは私のズボン下に密集していたからだ。二日前、不気味な腹痛に耐え切れず、浣腸を2回したが、そのときに浣腸液が漏れ出ないようにと、殿部にティッシュをぶ厚く当てたらしい。それが、ズボン下の方にまで、ずり落ちてしまっていたのだろう。

そんなこととは露知らず、この状態で栗本Drの診察を受け、いろいろ検査をしてもらったことになる。思えば赤面ものだが、あの状況なら致しかたあるまい。結局点滴の終わり近くまで、妻は紙くず取りを、余儀なくされていた。申し訳ない。

右手で点滴を受けながら、左手の携帯で私の掲示板を覗いてみると、藤原Drが面白い笑話を書き込まれていて、大笑いした。就眠前にもう一度掲示板を覗くと、私に代わって、明石Drがコメントをつけて下さっている。掲示板の主である私のことを「ハリウッドで映画出演中です!芸名ゲーリークーパーでrestroom通いに多忙です。(感染性腸炎です?)」。これには、もう笑って、笑って、、、それでも、すぐに眠ってしまった。

思えば、1週間前に、悪夢の鉄砲水に襲われたのだった。私のからだで一番タフだった消化器系が、これほど回復に手間取ったことで、正直自信をなくしてしまった。しかし、これで峠は越えた、点滴も今日でお終い、あとは焦らず、丈夫だった消化器系を過信せず、徐々に食事を元に戻して行こうと、しおらしいことを考えていた。

2月14日(金)
前日、過去の検査データを整理したので、この際採血をすることにした。ちょうど1週間の間、ほとんどリンゴジュースだけで生きてきたので、その結果がどう出るかという医学的興味もあった。また、交野病院で腫瘍マーカーの検査をしてくれたが、こちらでもそれを加えておくことにした。

午前の診療を始めて間もなく、しばらく診察をしていなかった84歳の男性患者が車椅子で来院。腹水が貯まっている。入院精査が必要なので交野病院に連絡をとって、病室の確保をお願いし、紹介状をつけ、119番に電話して救急車を依頼した。救急車を依頼するようなことは年に1度くらいしかないのに、このように体調が悪いときに限って、いろいろ重なってくるから皮肉なものだ。

昼食にふぐ雑炊を食べたあと就眠。肺がん読影会の日だが、気力と体力が落ちていて気が進まず欠席した。夕食の買い物に出掛けようとする妻に、ココアを頼んだら変な顔をしている。今日はヴァレンタイン・デー、いつもは、妻から小さなチョコレートをもらうのだが、今回はない。そこで思いついたのが VAN HOUTEN COCOA 。これを二人で飲んで、ヴァレンタイン・チョコの代わりとしたが、美味かった。

夕食は何が良いかと尋ねられ、ためらわず、「河童鍋」と答えた。妹尾河童風ビーフン鍋料理で、扁炉(ピェンロー)という名前が付いているらしい。今度の鉄砲水騒動の少し前に食べて、すっかり気に入ってしまった料理だ。鍋の汁と岩塩と一味唐辛子だけで自分好みのつけ汁を作り、これにビーフンなどを漬けて食べるのだが、滅茶苦茶美味い。妻が心配して、食べるのを止めるように懇願するのを構わず、いつもの通り、ガツガツとほとんど一人で平らげてしまった。

テレビは「いっきにパラダイス」をやっている。イタリア特集が嬉しい。「帰れソレントへ」で始まり、やはりカンツォーネは良いな、と聞き惚れていると、次に若い男が唄った「ロミオとジュリエット」の主題歌が話にならぬ下手くそだ。私は思わず、これはこう唄うものだぞと、大声を張り上げてしまった。そして、1週間以上も歌を忘れたカナリアだったことに気が付いた。そのあと「ジョン健ヌッツオ・コバ・トク」が唄う「星は光ぬ」「女心の歌」「フニクラ・フニクリ」を気持ちよく聴いた。食事良し、歌良し、もう復調目前である。

2月15日(土)
診療前に栗本Drから電話があり、泌尿器科の医師にCT所見を読影してもらった結果、左腎周囲の浮腫様陰影について「左尿管結石(尿管口直前)で、腎盂外溢流があり、腎周囲に尿がもれた状態と考えます。結石が自排していればよいと思いますが、結石の有無をチェック要と思います。結石がなくなっていれば、溢流も自然軽快すると考えます。一度DIPを」とのコメントを頂いたと伝えて下さった。栗本Drの心配りには、感謝あるのみだ。

尿管結石と知って、これまで説明し難かった、肛門から会陰部にかけての不快感、不気味な腹痛のメカニズムがよく理解できて嬉しかった。念のため、尿検査をしてみると、潜血が(1+)出ている。ためらうことなく週明けに交野病院でDIP(点滴腎盂造影)検査を受けることにした。

11時頃に、前日の採血結果が届いた。予想通り、低蛋白血症で貧血があり、栄養失調状態であるが、それ以外は異常なく、腫瘍マーカーはCEA、Ca19-9、PSAのいずれも正常である。

あの不気味な腹痛は、猛烈な下痢で私の腸管が壊滅的打撃を受けたのにも関わらず、十分な回復を待たずに普通の食事に戻したためだと思ってきた。そこで腸管を休めるために、点滴とリンゴジュースだけで1週間あまり過ごしてきたのだった。それが、尿管結石によるものと分かったので、喜び勇んで、昼食から多量の蛋白質と水分の摂取を開始した。

2月16日(日)
これを機会に、朝晩2回糞便潜血検査の検体を採取した。尿の潜血は(+/−)に減っている。夕食時にS-DRYを10日振りに飲んだが不味い。

2月17日(月)
栗本Drに、明日DIPを受けたいと電話でお願いし、午後2時から検査開始と決まった。その際に、あの不気味な腹痛のあった11日の採血分のCEAが6.1であったとの報告を受けた。14日に当院で採血したのではCEAは1.0であり、あの激しい腹痛の際に一時的に上昇したのだと解釈したが、妻は心配だと言って、ややパニック状態である。尿の潜血は(−)になった。結石は排出された可能性が高い。

2月18日(火)
妻の不安をとるためと、蛋白質をたくさん摂取したので、栄養失調状態がどれほど改善されたかを知りたいという興味から、もう一度血液検査をした。

午後1時半に交野病院に行くと、栗本Drは手術の合間を縫って、外来に降りて来られたところで、そのままDIP検査に回して下さり、30分ばかりで終了して帰宅した。この夜のS-DRYの美味さは元の90%まで回復していた。

2月19日(水)
前日の検査データが届いたが、血清蛋白は6.2から一挙に7.4に増え、貧血も無くなっている。本格的に2日間食べただけですっかり元に戻るのだから、経口摂取の力はやはりすごい。その代わり、トリグリセライドも504としっかり元に戻っている。CEAは1.1、糞便の潜血は2回とも陰性である。そのデータを見て妻は喜色満面である。

夕食は、もう一度「河童鍋」にして、美味いうまいを連発しながら、ガツガツ食べた。S-DRYの美味さは元の100%まで戻った。DIPの結果は、泌尿器科の医師の診断を待って報告して頂けるのだろう。尿潜血陰性で、無症状であり、多分結石はもう排出してしまったものと思う。入浴前に、リンゴジュース2個分一気に飲む。やはり美味い。この間、私が飲んだリンゴジュースは、合計40個分となったらしい。おかしな男だ。

2月20日(木)
午前の診療を終えた直後に、栗本Drから電話があり、「DIPの結果は、水腎症もなく、CTで写っていた尿管結石は自然排出したものと考えられる、念のため、再度CT検査をして、左腎臓周囲への溢水が吸収されていることを確認しては如何」と言う泌尿器科医のコメントを知らせて下さった。私も興味があるので、来月もう一度CT検査をして頂くようお願いをした。栗本Drには、本当にお世話になった。この方はスゴイ、素晴らしい臨床医だ。

このようにして、2週間かかって完全復調にたどり着いた。その間、私個人として、生まれて初めての体験が多数あったし、臨床医としても初めての経験をいくつか持った。「転んだらただでは起きない」という私の生き方は、今回も変わることなく、それに見合うだけの収穫は得られたと思っている。

そして、今回のエピソードは、妻にとっても良い経験となったようだ。以前よりも、パニック状態になる程度が軽くなったこと、少しは待つことができるようになったこと、仕方がないことは仕方がないとあきらめることが、ほんのわずかだが、できるようになったことである。

今から8年前、交野市医師会会報第1号に、自分の最もしたいことを三つ書いて自己紹介に代えたが、昨年末にそれを完了させることができた。そのことが、今回のエピソードの間も心に平穏を与えてくれた。たとえ、このまま死ぬことがあっても、私にとっての目標の60%は達成できている。80%を達成できれば言うことはないが、それは欲というもの、合格最低点でも悔いることはない、という気持だった。

しかし、もうこれで、前から思っていた70歳までは生きられそうな気がする。そして、80%は無理としても、それに近いところまでは行けるかもしれない。やはり、私は良い星の下に生まれたのだと幸運を感謝した。

今回のエピソードの医学的な分析と考察は、稿を改めてまとめて置こうと思っている。(2003.2.20.)

注釈
この文は今年の2月末に書き、何人かの方へ、メールに添付してお送りしたものである。2月6日から2週間、生まれてはじめて体験した猛烈な下痢腹痛と、その後遺症のために困惑した状況をまとめたもので、Webサイトに掲載するには問題があるだろうと差し控えたが、もう時効と考え、今年の一つの大きな事件として、改めて掲載することにした。(2003.12.30.)


付録:今回のエピソードの医学的考察

稿を改めて医学的考察を書きたい、という意欲が急速に失せてきたので、忘れないうちに、今回のエピソードの医学的要約だけを書いておくことにする。

1.猛烈な下痢の原因

ロタウイルス(HRV)小型球形ウイルス(SRSV)などの、ウイルス感染によるものと思う。その理由は、突然の猛烈な白色水様性の下痢、無熱、無痛であったこと。

2.猛烈な下痢の感染源

最近、このような激烈な下痢症状の患者を、子供だけでなく、大人、老人でも多数診察してきたので、その際に、手を介して経口感染した可能性が高い。

3.大量下痢のあとの腹部膨満感の病態

鼓腸(大量の腸管内ガスの貯留)によるもので、これは腹部立位単純X線撮影で証明済み。

4.鼓腸の原因

ロペミンという下痢止めの服用と、腸内細菌叢の異常が関係している可能性が高い。

5.肛門から会陰部、膀胱、下腹部にかけての不快感・刺激感の病態

これは、頻回の下痢による骨盤内静脈うっ血をまず考え、痔核の内服薬と坐薬を使ってみたが、症状不変のため中止した。

次には、過去に2度罹患したことがある急性前立腺炎を心配したが、発熱がなく、会陰部の圧痛もなく、直腸指診でも前立腺の腫張と圧痛がないため、否定された。

この症状を、腹部CTで見つかった尿管結石による尿路の閉塞の関連痛だと考えると説明できる。

6.明け方突然に起きたこむらがえり様の激烈な腹痛の病態

結石が腎盂の出口や下方の尿管内に嵌頓し、突然の尿流閉塞のため、急激に腎盂内圧が高まったためではないかと考えられる。

腹部CTで認められた尿の腎盂外溢流は、その時に発生した可能性がある。大量の腸内ガスが腹膜外までも圧迫して、尿の腎盂外溢流による痛みをさらに増強させてたが、放屁によって腸内ガスが排出され、圧迫がとれたために痛みが軽快したのではなかろうか。

7.6時間続いた不気味な腹痛の病態

反復性に部位を特定できない不気味な腹痛が続き、輾転反側状態であったが、腹壁は柔らかく、圧痛、筋性防衛なく、腹部立位単純X線像でイレウス像はなく、自分の知らない急性腹症かもしれないと考えた。

病院を受診し、検査を受けたところ、白血球増多なく、血清アミラーゼ値正常、肝機能正常、CRP値軽度上昇、腹部エコーで、左腎臓周囲に尿の腎盂外溢流と尿管結石像が認められた。

その時点では、この尿管結石がまだ嵌頓状態で、それによる痛みであったと考えれば、説明がつかないこともない。

8.典型的症状を欠いた尿管結石

私は、これまでかなり多数の尿管結石の患者を診療してきたが、ほとんどは左右どちらかの側腹部痛か、背部痛であった。また、テキストブックにもそのように書かれている。今回は、場所を特定できない痛みだったため、尿管結石に思い至らなかったので、尿検査をしなかった。

今、振り返ってみて、過去に1例だけ、側腹部痛や背部痛でなく胃部の痛みを繰り返す女性の胃透視をしたら、尿管結石だったことがある。その人は、腎臓専門のS病院の事務長の奥様だったので、そちらへ紹介したが、ちょっと、困ったのを覚えている。

今回のエピソードで、非定型的症状の尿管結石もあることを改めて認識した。

今回の、肛門から会陰部にかけての不快感、刺激感を尿管結石の関連痛と気が付けば良かったのだが、過去に経験した前立腺炎だけを心配し、前立腺炎では普通は尿に異常が現われないので、尿検査を行なわなかったのが間違いだった。

泌尿器科の医師による読影で、左腎盂周囲への尿の溢流と尿管結石があることを教えていただき、あわてて、尿検査を行ったところ、尿の潜血は(1+)で、翌日は(+−)、それ以後は(−)となった。私はこれまで、尿潜血が陽性だったことはないので、不気味な腹痛の際に、尿検査をしていれば、尿潜血は(3+)だった可能性がある。

9.尿管結石の成因

亀山周二東大泌尿器科講師は、尿管結石症について「近年、発症年齢ピークが高年齢側に移り、かつピークの幅が広くなっている。生涯罹患率は約5%で、20人に1人は一生のうち、尿路結石に罹患するといった高頻度の疾患である」と書いている。これを名古屋市大泌尿器科の郡健二郎教授は、生涯罹患率を10%としている。また、尿が濃くなると石ができやすいので、水を多く飲み尿を薄くすることが大切であり、石は明け方にできやすいと書いた文献もある。

今回の尿管結石は、9時間で2リットル以上に及ぶ猛烈な下痢をしているのに、点滴で水分補給をして尿量を維持することを怠ったため、尿量が極端に減り、尿の濃度が濃くなったのが最大の成因であろうと思う。

10.腎盂周囲への尿の溢流

腹部CT像で「腎盂周囲への尿の溢流」という所見を教えられたが、尿管結石でそのようなことがあるとはまったく知らなかった。亀山周二東大泌尿器科講師は、尿管結石の移送の判断基準の一つに、「尿の腎盂外溢流:急激な腎盂内圧の上昇により、まれに腎盂・尿管壁に亀裂を生じ、尿が内腔外に溢流することがある」を 記載している。

これによって、尿管結石で腎盂外へ尿が溢流するという、すさまじい現象が起こる場合もあることを知った。

11.腹痛の診断について学んだこと

腹部所見のない腹痛の場合、左右どちらかの側の側腹部痛、背部痛などがなくても、尿路結石も考慮して、尿検査を行う必要がある。また、痙攣性の腹痛に対しては、主として鎮痙剤を使うが、ボルタレンやインダシンのようなNSAIDsは鎮痛作用だけでなく、尿管の浮腫や炎症を抑える作用もあり、鎮痙剤との併用が有用であることを知った。

12.水分補給の重要性

今まで、脱水状態の危険と水分補給が大切なことを患者に努めて説明してきた。その理由として、1)血液が濃縮されて固まりやすくなり、脳梗塞などを起こしやすい、2)痰が粘調になって切れ難くなり、肺炎を起こしやすい、3)女性の場合は、尿量が減ることで、膀胱内に入った雑菌を洗い流す回数が減り、膀胱炎になりやすい、4)発熱時には汗をかくことができず、体温を下げにくい、5)幼児は脱水に弱く、循環障害から命取りになることがあることを挙げてきた。

今回の自分の経験と、泌尿器科のテキストによれば、尿管結石が生涯罹患率5〜10%の高頻度疾患であり、尿量減少で簡単に発生することを知り、脱水状態によって尿管結石を起こしやすいことも、理由に加える必要があることを学んだ。(2003.2.24.)

注釈
これも、何人かの方に、メールでお送りしたものである。医師が病気になった時、どのようなことを調べ、判断し、対応したか、そして、そこから何を学んだか、という記録である。


<2003.12.30.>

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