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弔辞

2005.11.05. 掲載
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故交野市医師会名誉会長 小菓照三先生のご霊前に、謹んでお別れのことばを申し上げます。

先生は、昭和四年一月五日、星田の地でお生まれになり、昭和二十年に府立四條畷中学を卒業、昭和二十五年に大阪大学付属医学専門部を卒業されたのち、国立大阪病院に勤務され、大阪市立医科大学において医学博士の学位を授与されました。

昭和三十年より、現在地において小菓医院を開業され、以来四十五年の長きに亘り、地域医療に多大の貢献をされ、その間、交野市の保健医療行政の充実発展に大きく寄与されたことは周知のことがらであり、先生の大いなるご功績の一部であります。

また、昭和四十五年に枚方市医師会理事に就任されてより、枚方市医師会交野支部長、枚方市医師会副会長を歴任され、大阪府医師会においても、本年三月までの十数年に亘り医業経営委員会の委員長として、大阪府医師会会員のためにご尽力下さいました。

平成六年に枚方市医師会から分離独立して、新しく交野市医師会を設立する際には、日夜を分かたず粉骨砕身され、会員一致団結のもと、数多の困難を克服し、目的を達成されました。

先生は交野市医師会初代会長として、その基礎作りに目を向けられただけではなく、よく時代の流れを把握して、交野市民の健康に役立つと思われることに対しては、ためらうことなく、貪欲かつ勇敢に新しい事業に取り組まれました。

大阪府下で、医師会立の訪問看護センターが数個所しかなかった時に、交野市医師会が地域住民の医療環境改善のため、訪問看護ステーションかたのを設立し、訪問看護事業を始めたこと、全国の医師会のホームページが僅か三十数箇所だった平成八年に、交野市医師会のホームページを開設して、市民への医療情報の提供を始めたことなどは、その代表的な事業であります。

先生の作られた基礎が確かなものであったがため、交野市医師会は年々充実発展し、また他に先駆けて始められた事業は、年を追う毎に成果を高めて参りました。偉大なる統領とは先生のような方を表す言葉であることを、今は思うばかりです。

先生は昭和四年生まれにも関わらず、メカにお強く、パソコンばかりか、それ以上にビデオ撮影と編集に熱中されていました。今年の五月の連休に、医師会の会員家族懇親旅行でソウルへ行った際には、最新のデジタルビデオカメラを手にして、嬉々として撮影を続けられ、時には撮影禁止で没収されるのではないかと回りの者をはらはらさせる場面もありました。

買い物を楽しみ、韓国料理に舌鼓を打たれ、男性一行の内、ただ一人垢すりサウナを体験され、本当に旅を喜んでおられたあのお姿が今も目の前に鮮やかに蘇り、楽しかったあの韓国旅行のあれこれが次々と思い出されます。

あの時からまだ二月も過ぎていないのです。余りにも突然の先生のご逝去が信じられず、ただ無念の思いで心は打ちひしがれています。

先生のご遺志は、ご子息裕成君が受け継がれ、小菓医院を立派に継承、発展させて行かれることでありましょう。

私たち交野市医師会会員もまた、先生が築かれた礎を守り、さらに大きく飛躍させることを改めて心に誓っております。

小菓先生、どうか天上にあって、私たちをお見守り下さい。

ここに交野市医師会を代表して謹んでご冥福をお祈りし、合わせて会員一同の決意を申し上げ、お別れのことばといたします。

平成十二年六月二十一日
                            社団法人交野市医師会会長 尼子 隆章

補足説明
交野市医師会初代会長の小菓照三先生が6月18日に突然お亡くなりになり、私に弔辞執筆の役が回ってきて、生まれて初めて書いた弔辞です。告別式で尼子会長がこの弔辞を述べられ、交野市医師会会報第7号に掲載されました。このサイトに登録するのを忘れていた記録です。


<2005.11.5.>

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