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ある牧師への手紙

2009.09.15. 掲載
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○○先生

梅雨も今日は一休みのようです。先日○○から、先生が緊急入院されたことを伺いました。○○大学病院を退院されて間もなくとのことで、驚きました。昨年9月20日付けのお手紙で、肺ガンの手術を受けられたことを知りました。ご心配申し上げておりましたが、今年の2月16日付けのお葉書で、CT検査に異常が認められなかったことを教えていただき、良かったと安堵いたしておりました。

○○教授の執刀で手術を受けられたことを知り、どこかで人は結ばれているということを感じました。彼は、同じ教室の2年後輩で胸部外科、私は心臓外科と専攻は異なりましたが、その前の○○の○○病院に2年間出張勤務をした際には、ちょうど入れ替わりになった先生です。専攻が違いますので、あまりよくは存じていないのですが、まじめな勉強家だったと思っています。○○教授に先生のご病気についてお聞きしようかと思いましたが、そのことが先生のご病気に良いように働くわけもなく、取り止めました。

本日お見舞に上がろうと、○○に電話をしたところ、○○叔父から幼稚園の理事会での先生のご様子を伺い、お手紙を差し上げることに致しました。

突然の歩行困難になられたことと2時間の間一言もお話をされなかったことから、非常にお疲れになっていらっしゃることが原因かも分かりませんが、ご病状が進んだことも考えざるを得ません。ご心労のことと存じます。けれども神を信じていらっしゃる方々には、神の御心のままにと思われ、こころ乱れることはないのかも分りません。

母は結核の末期で、少し身体を動かしても呼吸困難になる状態でしたが、一度も不安をもらしたことがありませんでした。そして神を信じない私のことを恐いと言いました。暗いはずの病人が一番明るくふるまい、讃美歌を歌ってくれと私に頼むのでした。それは、みどりもふかき(讃美歌122番)や、うるわしの白百合(讃美歌496番)でした。昔から母が歌うのを聞いて育ってきましたので、歌えなくなった母に代わってよく歌ったことを覚えています。私が母に教えてもらった一番大きなことは、人生の最後をどう過ごすかと言うことだったと思っています。

2年ばかり前にご恵贈下さったあの素晴らしい御著書へのお礼状の中で「医学部に同期で入学した82名の内10名が亡くなり」と申し上げましたが、昨年また一人亡くなり11名となりました。近いうちに私の番が回ってくる可能性はかなり高いと思っています。これを書いているところへ、当地区の前の医師会長が突然死されたという知らせが入り、今一段落したところです。71歳になられたばかりでした。

私は、残された日がもうそんなに多くはないと考えています。母親から「お前は恐い」と言われましたが、それでも神を信じることなく、来世を信じることなく、死に際に悔いが少ないことだけを目標に生きようと努めています。信仰の厚い先生に、このような恐しいことを申し上げ、本当に申し訳ありません。お許し下さい。神とともに生きられる先生を羨望いたしております。ご自愛のほどお祈り申し上げます。

2000年6月18日        野村 望



この手紙を書いている途中で、交野市医師会名誉会長の訃報が飛び込んできた。そのまま、家を飛び出し、一段落したところで、続きを書いたのがこの手紙である。突然この世を去る人、肺癌の末期で、ターミナル・ケアの床にある人、人生の二つの終り方を同時に経験して、自分の生き方を思いながら書いた。この方は両親の遺骨のある教会の牧師で、私はこの方を尊敬している。

(2000.6.18)


この手紙を差し上げて3ヶ月後の9月26日、この方は昇天された。ターミナル・ケアに入られた時期に記されたことば「感謝 ただ感謝あるのみ 春の宵一人(イチニン)」島田和人

(2000.12.1.)

島田和人牧師が著された Studies on First Peter という英文の学術書がある。1998年5月に出版された学術書で、「第一ペテロについての個人の論文集としては、世界で初めてであります。また、わが国で出版された外国語による新約聖書の分野での研究書としては、戦前戦後を通じて最初となります。(カバー・デザインを除いて)表題頁から奥付まで、完全版下を自分で用意しました。」との内容紹介が書かれている。

この著書のご恵贈を受け、私が島田先生にお送りした手紙と、先生からの返礼のお手紙を掲載し、先生を偲ぶよすがとしたい。




図1.恵贈を受けた Studies on First Peter

島田先生への手紙

島田和人先生

98年10月8日   野村 望

ようやく朝夕の冷え込みを感じるようになりました。先生にはご健勝のご様子大慶に存じます。先日はDTPで作られた素晴らしい御著書をご恵贈下さりありがとうございました。

御著書を手にして私が感じましたことを申し上げます。

1.英文での出版について
私はもちろんのこと、世の中のほとんどの人にできないことをされ、尊敬以外の言葉がありません。しかも、格調高い学術論文なので、その気持ちは一層高まります。世界を相手に発信できるとは何と素晴らしいことでしょう。

2.権威といわれているものの検討について
「一つの説が充分検討されないまま、あたかも確実な根拠に基づくものであるかののように(高名な学者を含む)欧米の多くの研究者によって繰り返して唱えられてきたという事実」に対して、「私たちの力の及ぶ範囲でいいですから、検討し直しておく。問題があると認めた場合には、ここに問題がありますよ、と発信する」この精神こそ真理を探究する者の根底にあるべきものと考え、深い同感と感銘を覚えます。

3.DTPへの共感
御著書を手にしてすぐに拝読したのは前書きでした。そして、これが全て先生のお手になるDTPであり、ご次男がそれを助けてこられたのを知りました。手作りでこれほど立派なご本が作られたということに驚き、また嬉しくなりました。本当にDTP作品とは信じがたい見事なご本だと思います。

私も5年前からDTPで自家出版をして参りました。全部で4冊になります。どれもパソコンで版下を作り、それを印刷屋に渡して製本してもらったものです。しかし、自分で製本したものでは、今から12年前50歳になった記念に作ったものがあります。当時はドットプリンターしかなく、フォントの選択、サイズの選択もできず、印字は非常に貧弱でした。そのプリンターで打ち出した版下をコピー機でコピーして、B5版47ページの冊子を約100部作り、親しい人に差し上げました。その前年の1985年に、アメリカではMacによるDTPが始まりました。日本にもその情報が伝わり、あるパソコン雑誌の出版社がDTPの作品募集をした時には、これでもって応募しました。もちろん落選しましたが...

93年に開院20周年を記念して、20年史を作ったのが印刷屋で製本してもらった最初で、プリンターとワープロソフトの格段の進歩のお陰で、かなり見栄えのするものができました。今回は、交野市医師会のパソコン同好会結成2周年を記念して、例会で指導する際に作ったテキストをまとめて出版しました。データはテキストファイルで全て残してあるため、それをまとめ版下を作るのに約2週間、印刷屋に渡して製本されたものを受け取るまで約2週間、A4版200部で29万円で済みました。個人がこれほど簡単に、早く、安く、自分の本を作れるとは、本当に素晴らしいですね。このパソコンによるDTPは、グーテンベルグの印刷機以来の革命的な発展だとつくづく思います。

4.DTP以外の情報発信メディアとしてのホームページ
私は2年前から、野村医院と交野市医師会の二つのホームページを開設しています。このホームページは情報発信のメディアとしてDTPとは違う長所があります。

よくご存じとは思いますが、ちょっと数え上げて見ても、1)リアルタイムに情報を発信できる、2)カラフルで、映像をふんだんに使い、思うようなレイアウトで情報を加工できる、3)必要なら音、音楽を付けることも簡単である、4)リンク機能が使えるので、瞬時にいろいろな情報元につなげることができる(これは、自分のホームページ内だけでなく、世界中のホームページの中の情報に対しても同じ)、5)ホームページの情報をモニター画面で見るだけでなく、それを印刷してみることも、デジタルデータのファイルとしてダウンロードし、それをいろいろ処理をして利用することもできる、6)費用が極めて安く済み、会費が毎月2000円以内、電話料も毎月2000円以内、7)世界に発信しているので、もし英文で書かれていれば、世界中で瞬時にその情報を読んでもらえる(私にはできないのが残念です)、などDTPにはない優れた点だと思います。

DTPとの関連では、昨年出版しました「パソコン物語−中高年医師たちの挑戦の記録−」は、医師会のホームページにリアルタイムに掲載したものを、そのまま印刷して版下にしたものですし、今回の「テキスト Windows パソコンの使い方」は、同じく医師会のホームページに掲載したものをまとめ、それに一部未掲載のデータを付け加えたたものです。お互いがその長所欠点を補完し合う利用法ではないかと思っています。ここで、ホームページに載せている情報の目次だけをまとめてみました。

10月10日現在の野村医院のホームページの内容は以下の通りです。

また、交野市医師会ホームページの内容は以下の通りです。

5.おまけの人生
最後に『一連の入院・手術を含むこの十年が第一の「おまけ」だったとしますと、これからは毎日毎日が第二の「おまけ」になります』と書かれたところが心に残ります。病気や事故などを経験しないで70歳まで生命があるとしたら、それからの日々は私も「おまけ」と思って生きていると思います。

医学部に同期で入学した82名の内10名が亡くなり、一緒に解剖をした6名の内3名がこの世にいません。大阪府医師会が以前調べたところでは、医師会会員の平均寿命は一般の人と比べて10年短いとありました。自分は短命の家系に属し、健康に良いことをしているわけでもないので、70歳までも生きられないだろうと思います。だから、今を大切に思って生きています。

医師としての仕事は「しなければならないこと」ですが、これからは「したいこと」の比重を増やしていき、死に際に悔いが残らぬようにと生きたい思っています。したいことについては、その結果として他人にもたらした喜びの方が、他人に与えた悲しみよりも、わずかでも大きくなるように気をつけています。

6.私のDTPを謹呈いたします
最後に、私のDTPによる出版物を謹呈させていただきます。先生の御著書とは比べようもない拙劣な代物ですが、ご笑納いただければありがたく存じます。何時も泥縄式に版下を作り、夫婦と娘の3人で仕事をされている零細な印刷所に印刷を依頼したものばかりです。

先生の御著書が余りに素晴らしくて感じ入り、このような長いお手紙を差し上げることになりましたのをお許し下さい。

季節の変わり目ゆえご自愛下さいますようお祈り申し上げます。



島田和人牧師よりの返礼

1998年10月12日

野村 望先生

拝復 10日付けのお手紙ならびに先生がDTPでお出しになった書物4点、まことにありがたく拝受いたしました。こちらから差し上げた手紙で、どうぞ返信はご無用に、と申上げた筈ですが、極めてご多用のところを長文のお手紙を頂き、たいへん恐縮いたしております。また、拙著についての過分のお言葉、ありがとうございます。

実は、私がDTPに初めて興味を抱くようになりましたのは、御著『野村医院二十年史』をお送りいただいて、その見事な出来栄えに驚いたからです。そのあと、東大の大貫教授から原稿依頼があり、しかもパソコンでさくせいするように、という条件がついていましたので、泥縄式にパソコンを習い始めました。次男の助言でレーザープリンターを導入してその原稿を印刷したところ、きれいに刷れました。

それを見て、この度の拙著の出版を思いついた、というのがこれまでの経過です。このたびの出版の大事なきっかけを作っていただいた、と心の中でいつも野村先生に感謝申上げてまいりました。

お手紙や御著書によって、パソコンを情報発信メディアとして利用する途をお教えいただき、ありがとうございます。また、先生が情報発信メディアとして立派にご活用になっていることを伺い、励まされます。お恥ずかしいのですが、私は今のところ、パソコンを少し便利なワープロとして利用しているにすぎません。インターネットも操作できませんし、ホームページ開設もしておりません。次男が帰宅した折にでも、教えてもらうことにいたしましょう。

また、Windows 95 は、まだインストールしておりません。インストールしましたら、このたびお送り下さった『テキスト・Windows パソコンの使い方』教えていただきながら、使い方をおぼえるようにしたい、と願っております。本当にありがとうございました。

1ヶ月ほど前、ドイツの Jens Herzer 氏の教授資格取得論文が届きました。彼は、この書物のはじめのところで、拙著の第四・第五論文を(検討の手続きなどを含めて)数頁にわたって紹介した上で、議論を展開しています。個人的にはうれしかったのですが(わざわざ赤飯を炊いて食べたほどです)、そのことよりも、ドイツの学界がやっとドイツ語圏以外の研究にも目を向けるようになったのか、と感慨深いものがありました。その旨、同氏に手紙を書き、折り返して返事がありました。

拙著については、先週、同じドイツのレーゲンスブルグ大のブロックス教授からも来信がありました。このようにして交流の輪が欧州にまで広がることは、「いなぼく」(田舎牧師、の蔑称)にはとても励みになります。

お忙しいでしょうが、どうかご無理をなさいませぬようお願い申上げます。

                 先ずは御礼まで。    敬具
                               島田和人


<2009.9.15.>

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