こばくち日記


2005年4月16日(土)
1年が過ぎて
 一連の発作での入院から1年が過ぎた。あれから多くのことを考え、自分なりに一歩ずつ前進してきたと思う。思えば去年の今頃は本当に死ぬのかもとも思ったりしていた。その思いに拍車をかけた事件もあった。
 最初に搬送された病院から加療先の病院へ転院する間の朝。入院生活で朝早くに目が覚める習慣がついてしまって7時前にはやることもないままテレビを見ていた。ニュースの時間になり、イラク情勢などに紛れて1つの出来事がごく簡単に報道された。「作家の鷺沢萌さん死去。死因は心不全」
 10年近く前に彗星のごとく文壇に登場し、何度も芥川賞候補にも挙げられた。まだ実家にいた頃好んで読んでいた。最近は全く読まなくなっていたが、彼女には1つ忘れられない思い出がある。かつて、できたばかりの「たぬ」に通っていた頃、当時は客が少なくて銀玉親方の知人が度々やって来てはちょっとだけ卓を囲んでいた。有名なところでは親方のよきコンビであり「たぬ」の保証人でもあった西原理恵子、その西原にイジメられキャラとして描かれて有名になったイガリンこと五十嵐プロなど。鷺沢さんもその一人だった。その頃はもうデビュー当時とは風貌もすっかりかわってしまっていてどこにでもいる水商売系の中年間近のおばちゃんみたいになっていた。「たぬ」で初めて見た時に文庫のカバー写真とのギャップにかなりの幻滅を抱いたが、「近代麻雀」などでその打ちっぷりは評判だったので一度、同卓してみたいと常々思っていた。
 何のこともない普通の晴れた平日。いつものように昼前から「たぬ」へ出勤した。いつものように客はほとんどいなかった。親方もいなかった。なぜか珍しく朝から鷺沢さんがいたのが唯一いつもと違うことだった。メンツが足りないのでと、鷺沢さんと1半荘だけ卓を囲めた。煙草を吸いながら斜に構えた姿勢で噂どおりの豪快な打ち方。打ち筋も豪快で力で押し切られた。客がちらほらとやってきたのでこの半荘だけだったが貴重な経験だった。
 そして、1年が過ぎた。おそらくもう彼女の作品を読み返すことはないと思う。だが、自分の人生のターニングポイントになるであろうパニック発作による一連の入院、通院の日々の記憶と共に一生忘れられないだろう。

今日のBGM 「Sounds of 甲子園球場」(HANSHIN CONTENTS LINK)

2005年3月21日(月)
モルウェイの糊
 僕は三十七歳で、そのとき珈琲館のシートに座って「グレート・ギャッツビイ」を読んでいた。その緑の喫茶店は広大な埋立地の一区画の二階に位置しているところだった。三月の冷ややかな夕陽が大地を薄暗く染め、冬用のコートを着た役人たちや、のっぺりとした展望ビルや、未使用の空き地やそんな何もかもをフランドル派の陰うつな絵の背景のように見せていた。やれやれ、また三セクか、と僕は思った。
 従業員がサービスを完了すると目の前にコーヒーカップが置かれ、天井のスピーカーから小さな音でBGMが流れはじめた。それはあの四人が演奏するビートルズの「ノルウェイの森」だった。そしてそのメロディーはいつものように僕を混乱させた。いや、いつもとは比べものにならないくらい激しく僕を混乱させ揺り動かした。
 僕は頭がはりさけてしまわないように身をかがめて両手で顔を覆い、そのままじっとしていた。やがて、店の従業員がやってきて、気分がわるいのかと片言で訊いた。大丈夫、花粉症だからと僕は答えた。
「ホントにダイジョブ?」
「大丈夫です、ありがとう」と僕は言った。従業員はにっこりと笑って行ってしまい、音楽はビリー・ジョエルの曲に変った。僕は鼻をかんで大阪湾の上空に浮かんだ暗い雲を眺め、自分がこれまでの人生の過程で失ってきた多くのもののことを考えた。失われた時間、死にあるいは去っていった人々、もう戻ることのない想い。

2005年3月13日(日)
おかべいんたいきしゃとる
 岡部騎手と言えば、やはりタイキシャトルが一番思い出にある。シンボリルドルフは見たことがないから。タイキシャトルが走っていた頃が一番、純粋に競馬を楽しめていた時期だったかもしれない。
 意外とタイキシャトルのレースを生観戦はしていない。2回のスプリンターズSだけだ。安田記念は大雨だったので行かなかったのだ。しかし、ほとんどのレースが鮮明に記憶に刻まれている。JRAの特設サイトの「記憶に残る名馬たち」を見ていて、「ああ、ほんま」。
 ジャック・ル・マロワ賞。前週にシーキングザパールと武豊に日本調教馬初の海外G1制覇は譲ったものの圧倒的1番人気の中当然のように勝ったタイキシャトルに格の違いを見せつけられた。江古田のすし屋の上のアパートに住んでいた頃で、遊びに上京してきた高校時代のアフォらと卓を囲みながらラジオたんぱの実況中継を聴いていた。2週連続日本馬優勝は、香港3連勝と並んで日本競馬の歴史に残る。翌週にはウインズでレース映像が放映された。改めて強さを思い知らされた。
 初めてこの馬の強さに接したのは、3歳時のマイルCS。当時、芝は3戦2勝で初めてのG1挑戦だったが、重賞勝ちもダートのユニコーンSだけで軽視していた。それだけに受けた衝撃は大きく、この後、一度も馬券の軸から外したことはなかった。だからこの馬の収支はプラスになった。
 11月の金曜日、朝早くに実家から従兄弟の兄貴が事故死したことを知らされた。まだPATにも加入していなかったので馬券はサネさんに頼み、新幹線で東京を発った。週頭から軸は決まっていた。タイキシャトル。ただし、前走の海外G1勝ちで相当な人気になるので相手を絞る必要があり、凡そ金曜までには準備はできていたので買い目と金額を伝えた。葬儀は日曜日。兄貴は野球を教えてくれた恩人で、去年、甲子園に初出場した高校でも10年以上前だがエースを張っていた。今でもその雄姿は仏間に飾られている。また、兄貴は競馬ファンでもあり、遺品の中には福永祐一騎手のサインも含まれていた。生きていたら兄貴もタイキシャトルから買っただろうと想像しながら焼香をあげた。兄貴、今日も勝ちますよ。一通り終わった頃にサネさんから連絡が来た。高目的中。払戻で卒論に必要だったプリンターと兄貴がよく聴いていた長渕剛のアルバムを買った。時々、兄貴のことを思い出しながら「とんぼ」を歌う。ワシは断じて清原信者ではないことを追記しておこう。
 タイキシャトルは初年度からNHKマイルC勝ちのウインクリューガーを出し、2世代目からは今年のフェブラリーSを勝ったメイショウボーラー、昨日の中山牝馬Sを勝ったウイングレットなど種牡馬としても大成功を収めている。毎週のように産駒が出走し、たまに兄貴のことを思い出す。今日もフィリーズレビューにツルマルオトメが出走した。残念ながら勝負にはならなかったがそれでもここまで2勝し、ワシのPOGに貢献してくれている。ちなみにタイキシャトルを唯一負かした馬になる予定だったテンザンストームの初仔はタイキシャトル産駒でネタ要員として指名しようとしたら先を越された。テンザンアモーレ。
 引退式の日、卒論提出5秒前にもかかわらず中山へ出勤した。卒論は来年でも書ける。だがタイキシャトルの引退式はこの日しかなかったのだ。そして、テンザンストームは伝説の馬になれなかった。だが、誰が岡部騎手を責められようか?彼は全力を出し切った。

今日のBGM 長渕剛「昭和」(東芝EMI)

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