こばくち日記


2004年12月30日(木)
スピード指数の終焉
 指数を作成して、それを元に予想をしている者の言うこととしては驚くべきことかもしれないが、スピード指数の時代は終わった。これについて述べてみたい。
 スピード指数の時代が終わったというのは、正確には、「スピード指数による予想はもはや有効な予想方法ではない」ということである。その根拠を挙げてみたい。

1.スピード指数の普及
 スピード指数の最大のネックは、馬場差や基準タイムを設定するのが煩わしいということであった。そのため、10年前までは、「暇がある」「根気がある」というごく限られた者にしか予想手段としての利用は不可能に近かった。しかし、近年のPCの爆発的な普及とそれに伴う予想ソフトの普及とで馬場差や基準タイムを自ら作成する必要がなくなった。元々、能力を数値化して比較するという手法は対戦成績を比較するよりもより有効な予想方法であったために今やほとんどの予想ソフトにスピード指数あるいはそれに準ずるものが機能として搭載されている。ということは、スピード指数に従って予想をすると他人と同じような予想になってしまい、結果として的中しても低配当であることになった。これに100%に近い的中率が付随していれば問題はないが、そこまでの的中率は求められない。ゆえに回収率が下がり、有効な予想方法とは言えなくなったのである。

2.スローペース症候群
 スピード指数は、「各馬が全力を出し切って」という前提の下に成立している。しかし、現代競馬においてはスローで上がり勝負というレースが増加しており、スローで脚を余すということが頻繁に生ずる。ことに中長距離においては顕著で、この時、スピード指数は実際の能力よりも低い値を示すことになる。このことは主だったスピード指数作者のほぼ全員が認識していることで、「スローペース対策」は必須ともなっている。例えば、西田式では上がり指数やペース指数によりスピード指数を補助している。また、石川式では馬場差と基準タイムを1つに合わせることで、レースごとの基準タイムとしている。このような方策が有力だが、いずれにも問題がある。
 まず、西田式の場合。ペース指数や上がり指数はそもそもスピード指数とは別体系のものであり、単純に加減するだけでは机上の数字遊戯となる。ペース指数や上がり指数を元にしたスピード指数というものが存在しなければ意味がない。最近は著書も出版されなくなたったので最新バージョンがどうなっているかは知らないが、2001年の時点で西田和彦は上がり3Fタイムについて過去のデータを調査し、「中・長距離のレースでは、どんなにスローになってもなかなか、33秒5を切ることができない」とし、「上がりタイムの限界値は現実的に33秒5前後であろう」と結論を下す(「スピード指数の想像力」P99)。しかし、改装後の新潟の結果を見れば明らかなように、ペースによっては二千mのレースでも上がり3F32秒台前半をマークすることは可能である。条件馬でさえもだ。千mに至っては31秒台という上がり3Fも度々出現する。このことから上がりタイムに限界があるとする西田式の上がり指数は根底から覆される。
 石川式はその点では問題ないのだが、スローになった場合、着差が非常に僅かであることも稀ではない。明らかに重賞を勝てる馬と準OPにすら昇級できるか分からないような馬同士が1000万条件で対戦して1秒以内の着差ということもざらである。つまり、上位の馬が過小評価されるか、下位の馬が過大評価されることになる。
 こういったことからスローペースが増加の一途である現代競馬においてはスピード指数は絶対的な能力指数とは言えなくなったのである。

 スピード指数から、その弱点であるペースを加味したペース予想へと進化をとげていくのは必然的な流れであった。市丸博司の「タイムフィルター」は西田式からの進化であり、古橋まなゆきの「指数X」は石川式に代表されるレースごとに基準タイム設定の進化版ともいえる。また、「直結指数」というコース固有のペースの相性といったものも現れてきた。自分でもかなり初期の段階から「3F指数」として走破タイムと上がり3Fタイムの関連について研究してきて、ある程度の結果は残せたと思っている。だが、これらペース予想にも問題はあるのだが、このことについては後日ということにしたい。

2004年12月27日(月)
馬券本の終焉
 書きたいことはたくさんあるが、まずはライフワークでもある競馬予想の話から入りたい。それも1度では書ききれないので何回かに分けてみたい。今回は、書店に並ぶ馬券本について。
 馬券本にも様々な種類があり、タカモト式に代表される「サインもの」や出目理論のようなオカルト本はいつの時代にも流行ることもなく廃れることもなくコンスタントに置かれている。この理由の1つには「競馬に絶対はない→デタラメでも当たる」という購入側の理屈とその心理を読み切った執筆・販売側の詐欺にある。また、購入する側も本気で信じて買うのではなく、井崎脩五郎のような競馬漫談を楽しみたいという面もある。そこは各自の価値観だが、立ち読みで十分事足りるとは思うのだが。
 今回、述べてみたいのはそういう類のものではなく、理屈攻めのものである。昔から「過去3走の着順と着差で」とかいうお手軽ものはあったが本格的に理論として出されてきたものは「スピード指数」が最初ではないだろうか。アメリカではアンドリュー・ベイヤーの指数本が1970年代に出版されて以来、大穴を的中させることで話題になり、ついには競馬新聞に掲載されるまでになった。日本では、そのベイヤーの翻訳が1990年に出版されたが、当時はまだ電卓と紙と鉛筆の時代で、手間がかかる事から一般的には普及しなかった。
 1991年に石川ワタル「競馬/驚くべき秘密の法則」(KKベストブック)、翌年には西田和彦「革命理論・西田式スピード指数」(KKベストセラーズ)が出版された。さらにその翌年に石川ワタル「石川ワタルの競馬理論」(自由国民社)などいくつかのスピード指数馬券本が続けて発売された。これらのいくつかのスピード指数馬券本の画期的な点は、その理論の要でもある「基準タイム」と「馬場差」(これらは理論によって様々異なる)が記載されていたことである。ここまで載せたらもう儲からないんではないか?とさえ思えるが、実際はそうでもなかったようだ。それを証明する興味ある広告が1つある。前出の「石川ワタルの競馬理論」にパソコンを利用したソフト「競馬マルチ・アトラス」の広告が掲載されている。このソフトの特徴を挙げると、
 ・平成2年以降のJRA全データを収録
 ・追加最新データは3ヶ月ごとに更新
 ・NEC98シリーズ及び互換機対応で環境はMS−DOS3.0以上
 ・3.5または5インチ(懐かしい!)FD7枚組で価格24,800円
これが当時の最高水準レベルの予想ソフトであった。まず、パソコン自体が非常に高価であった上にソフトも2万円以上する(現在なら5,000円以下で高性能のソフトも多数ある)。一般人には手を出しづらい上に、データは3ヶ月待たなければ更新されないのでは出走間隔が中2週などざらにある条件戦では全く使い物にならない。となると、最終的にはやはり電卓となるわけである。理論としては画期的であるながら一般的に普及しなかった理由は「めんどくさい」であった。
 ところがウインドウズ95が全てを変えた。大量生産でPCの価格が安くなり、操作性も格段に上がった。何よりソフトの開発が進んだ。エクセルは素人でも簡単に電卓より格段に速く正確に計算ができるように役立った。自分がスピード指数に出会った1998年頃には多くの95対応の予想ソフトやスピード指数に類した指数ものの馬券本が所狭しと競馬本コーナーを占めていた。おかげで自己流の3F指数をバージョンアップさせるのに大した苦労も必要なかった。
 しかし、2000年頃にパッタリとスピード指数の馬券本が姿を消していった。代わりに幅を利かせてきたのは血統もの、それも専門的なものではなく、数値化した血統ものである。タイムだけでなく血統までデジタル化しようという目論見で血統にランク付けを行うという類のものでPCの進化による予想ソフトの高性能化についてきたものだった。と同時に「直結理論」が出てくる。当初はコース適性だけであったが、徐々に多様化し、今や、何が「直結」なのかよくわからないが今だに進化し続けているのには感心する。少なくとも、「スピード偏差値」を「スピードIQ」と名前を変えただけで10年前の焼き直し本を出版した某愛好会よりずっと評価できる。そして現在は、「タイムフィルター」に代表される西田式スピード指数から派生したもの、「直結指数」の発展系、コースやレースの過去データ集が主流になっている。後は「電卓だけでできる」お手軽能力指数の類で、これはすでに過去の遺物で、PCを使えない高年齢層を対象にしたものではないかとさえ思える。振り込め詐欺同然だ。
 今、ここで、はっきり宣言しよう。
   「理論系の馬券本は終焉を迎えた」
 PCがこの10年間で格段に進化し、今や馬券予想ソフトが主流になってしまった。そこにはこれまでに出版されてきた様々な理論の思考回路がプログラム化されて誰でも自由に操れるようになった。テレビがなぜ映るのか?という理由を知らないでもテレビを見られるのと同じように。だから予想ソフトが売れる。本を出すよりもソフトを出した方が儲かるようになったのである。今だに馬券本を出して儲かると思っているのは馬鹿ばっかりだ。そして、その馬鹿が書いた本を立ち読みに競馬本コーナーに通い続ける自分はさらに馬鹿である。

2004年12月23日(木)
チュニジアの夜
 休日はスポーツ新聞を読みながらモーニングサービスの茶を飲む。今朝もいつもと同じく、いや、有馬記念の追い切り記事を読むためにもいつも以上に気合を入れて行きつけのサテンへ入った。クロスビーのクリスマスソングが流れていた。もうそんな時期なんだなあ。自分の中では「クリスマスソング=有馬記念」という図式が出来上がっている。ほとんど反射的なものだ。
 帰りがけにスーパーへ寄り無くなりかけていた洗剤を買う。松任谷由実がかかっている。昼を食べに出かける。マライア・キャリーがかかっていた。そろそろクリスマスソングもご馳走様なのでいつもボサノヴァが流れている店でコーヒーでも飲もうと思い、ドアを開けた。山達。もうええやろ!いい加減クリスマスソングの流れていなさそうな店で夕飯をと、蕎麦屋へ。坂本龍一の戦メリ…
 なんて俗なんだ!!大体、クリスマスなんてのはイエス・キリストのお誕生日なわけであって、別にクリスチャンでもない我々がそんなものを祝う必要はないわけだ。百歩譲って行事的なものであるから仕方ないとしよう。だがしかし、今日は天皇誕生日だ。イエス様のお祝いはしても天皇様のお誕生日祝いはナシか?貴様ら非国民めが!!いや、別に右翼でもないんだが、明らかにおかしいと思うのだ。天皇誕生日はさておき、日本人の大多数が仏教徒であろう。ほとんど無意識的ではあるが。だが葬儀となると仏式であったりするわけであるから、やはり仏教徒だ。であるにも関わらず、仏教の始祖であるお釈迦様のお誕生日である花祭にはプレゼント交換もなく、パーティーなんかも開かれず、ましてや花祭ソングなんてのも流れないのだ。おかしいではないか?日本人としての、仏教徒としてのアイデンティティーはないのか?何でも西洋風がカッコいいのか?自分が店のオーナーならクリスマスソングも流そう。だが、旧暦4月8日には「般若心経」を、「法華経」を流してやる!ついでに12月23日は「君が代」を流してやる!
 そう言えば、最近、職場の近くにできたショットバーのバーテンと話をしていた時に店内のBGMの話題になった。いつもはジャズやボサノヴァなどが流れているのだが、その日だけは有線のクリスマスソングが流れていて気になったので質問してみたのだ。
 「私はいつも通りやりたいんですけど、オーナーがうるさくて…。ですから、オーナーが来た時には必ずクリスマスソングを流すようにしているんです。」
 雑誌の取材でオーナーが来ていたらしい。やがて、いつもの雰囲気に戻った。オーナー帰りましたね?「はい、ですからもう安心してください。」
 
 せめて自分の家の中ぐらいはクリスマス色を一掃してやろうと思い、アート・ブレイキーの「チュニジアの夜」をかけた。ブレイキーのドラムが心地よく響く…。その時、チャイムを連打する音がした。出てみると「ちょっとうるさいのでボリュームを絞ってください!」
 どうやら隣の部屋にも響いていたようである。生き辛い世の中であることよ。

2004年12月22日(水)
覚醒
 長らくに渡る沈黙を貫いてこばくち日記を再開することにした。他のコンテンツも時期が来たら順次、更新することになるだろう。まずは現況から述べておく。
 PCが水没したために一からトラック変数を作り直している最中で、現在は今年の3月分まで終了している。おそらく春先にはリアルタイムで更新可能になるだろう。従って、WRFおよび重賞結果は現在のところ更新休止であり、トラック変数が完成すれば再開する予定である。
 次に単優先主義についてであるが、これはまた後日、詳述することになるであろうが、現在の予想手段について思うところがあり、大幅に手を入れてリニューアルしたい。まずはトラック変数の方を優先したいのでこちらは再開のメドはたっていない。ただ、日頃から思索は深めている。
 tictacPOGに関しては単なる不精で更新できていない。近日、折を見て更新したいと思っている。
 リンク集は整理して更新、の予定ではあるが、恐らく一番後回しになりそうなので期待せずに待っていてもらいたい。誰も待ってないって?それを言っちゃあおしめぇよ、っと。

 さて、こばくち日記だけ再開することにしたのは理由がある。その前になぜ更新が滞っていたかということについて述べてみたい。
 1つ目にはPC水没事件が挙げられる。そもそもこれさえなければトラック変数の再計算という煩わしい仕事もなかったわけで、自分の中では今年の3大ニュースの1つである。幸いにして環境は再び整いつつあるのでこちらの問題は間もなく解決されるであろう。PCもそろそろ換え時とは考えていたので自腹を切らずに乗換できたことは不幸中の幸いとでも言うべきであろう。前向きに考えよう!
 2つ目は健康状態である。以前に述べたとおり、4月に心臓発作で倒れ、検査の挙句、「稀に見る健康な心臓です」と権威のある医師団からお墨付きを頂いた。手術中に「F1ドライバー並だ」とか何だとか聞こえたが、それはそれで嬉しくもあるが、原因不明の発作ということになり余計に不安はつのるばかりであった。果たして、その後も動悸、胸の痛み、眩暈などの症状が続いたのである。耳鼻咽喉科の医師の勧めもあり、一念ボッキして心療内科を受診してみたところ、「あなたは立派なキ印です」。
 パニック障害とは、脳が誤った学習をして過剰に危険回避を行おうとすることが主な原因である(らしい)。以前に発作を起こした環境は危険である、という反射を修正してやらなければならないのである。とは言え、いきなりその場へ行って「大丈夫、ここは安全だ」とやるわけにもいかない(何の対策もなく行けば反射的に発作が起こるから)。そこで、まず薬物投与による発作の抑制から始める。効果が表れはじめたら発作を起こした環境に慣れていく。「認知行動療法」と呼ばれる治療法である。最終的に、薬物の頼らずに一切の発作が起こらなくなれば完治ということになるが、今はまだ折り返し地点を過ぎたあたり。自分の場合は15年近くにわたる夜型の生活が爆発的に破綻をきたしたようで、まずは体内時計のリセットから始めている。ゆえに夜更かしは禁物、というよりも2週間近くにわたる入院生活で朝方に改良されてしまったので夜更かしができなくなった。もう徹マンは無理だ。残念だが。
 これとHPの更新に何の関連があるかというと、実に入院している間、検査結果が出るまでは常に動悸、血圧上昇、眩暈などと闘っていた。と書けば大袈裟かもしれないが、少なくとも具合は悪かった。一時は死を覚悟した。しかし、結局は死ぬどころか直接は死ぬことのありえない病気だったのだ。「なぜ自分は死ななかったのか?」という疑問が湧いてきた。自分は何かやるべきことがあるのではないか、さらには、「この世界の中での自分とは一体、何なのか」。自分の意識の中で今まで眠っていたものが目覚めるのを感じた。こんなことを自己流で思索していても埒があかないので知識を得ることにした。
 書物を読み始めた。今までは職業上、中世・近世日本についてのものか、個人的な興味から近代日本文学、それも限られた一部の作家のものばかり読んでいた、というほどでもなくほとんどこの5年以上、読書の習慣が薄れつつあった。しかし、自分の抱いた疑問について思索するためには遠ざけていたジャンルのものを読む必要が生じた。思想というジャンルである。正直、高校時代の倫政以来、ほとんど耳にすら入れなかったような代物である。当然、何から入っていいのかも分からないので日本の哲学の先駆けと言われる西田幾多郎から手をつけてみた。時間はかかったが読了し終えて何となく分かったような気がした。何となく、である。しかしモヤモヤは晴れない。と、こうしているうちに書見している時間が徐々に増えていった。そして、トラック変数にかける時間は減った。減ったが当然、なくなりはしない。これは自分のライフワークだ。健康上の都合で睡眠時間は削れない。そして削られたのは、ネット中にいる時間とゲームをする時間だった。自宅で静養中にと買ったPS2も気がつくと10月くらいから電源を入れていないことに先日気がついた。そんなわけでHPの更新も停滞してしまったのである。
 そして、こばくち日記だけを再開しようとしたことはこれに深いつながりがある。少しずつだが様々なジャンルの書物に手をつけつつある。従来の中世から近代にわたる日本の古典は言うに及ばず(これは職業上、削りがたい)、日本現代文学、あるいはそれに関する評論、西洋の古典文学・思想など(これは在学中に専攻していたはずなのになぜか手をつけていなかった。何でだろう?まあご存知の方はすぐ理由が判明するとは思うのだが)。これまでの自分の殻を完全に破ってしまったと言っていい。そして、体系的な読書を進めていくうちに驚くべきことを発見した。評論、入門書などを探していると自分の知っている学者の名前の多いこと!自分は大学に行くのが10年早かったようだ。できるものならもう一度、学生をやり直してみるのもいいかなとは思ったが、その前に入学できなさそうなのですぐに諦めた。もう数学や物理・化学等をやれと言われても何年かかるか…。あ、英語もできねえやw。だがこの10年に悔いはない。自分が選択して生きた10年があるから現在の自分があるのだから。10年前に覚醒していたらきっと今頃、家か研究室に引き篭もって大した趣味もなくただ本と睨みあうような生活をしているだろう。そんなつまらん人生など真っ平御免だ。「人生は博打」。博打と同じように先が分からないから面白いのだ。1秒先をツモって現在を切る。そして河には切られた過去という捨て牌が並ぶ。
 何だか訳の分からない話になってきたが、まあ、そういうことよ。おんなじことの繰り返しや。あれ?何か違うなあ。とにかく、自分の今、考えていることなどを綴りながら表現力を磨いてみたい。自分の疑問に対する答えが何であるか。判明に表現できる能力を鍛えるためにも駄文を書き続ける。これがこばくち日記再開の意を決した理由である。
 さて、明日は休みとはいえもう寝る時間だ。とにかく、今一番欲しいものは健康だな。

最近のこばくち日記