こばくち日記


2004年11月1日(月)
ワシ流麻雀哲学2 〜麻雀における他者性

 いきなりだが上の手牌を見てもらおう。ドラや他家の動きを考慮に入れなければ理想形のテンパイである。上がりが3通りある内、2通りが高目になる。これをリーチしてツモれば跳満だ。だが、或る程度打ち続けている人なら誰にでも経験があることとは思うが、ここに追っかけリーチをかけられて一発で打ち込み。見てみればカンチャン待ちのリーのみ。しかし、そこに裏ドラが2枚乗って満貫。これはツイていない時にある現象だ。
 上図の手の結果としては、
1.高目をツモってくる(さらにだと言うことナシ)
2.安目をツモってくる
3.高目を出上がる
4.安目を出上がる
5.流局
6.余所で打ち合う
7.他家にツモられる
8.他家に振り込む
 というパターンが考えられる。下に進むに従って運が悪い時と言える。
 まず、配牌から上図の手まで進められればそれだけでも運は決して悪くない。理想形に向かって順調にツモが進んでいるからである。本当に悪い時ならば手が進みもしない。そこで哭くことになる。およそ麻雀で面前で進めるに越したことはない。他家に自分の手役、構成が見えにくい上に哭けば1翻下がる役も多い。また、他家がテンパイした時に回し打ちするにも選択肢が広い。理想に向かうツモがないからこそ哭きに行くわけである。これは一般論としてであるが。
 つまり、上がる際にもツモ上がりできるのが最上だ。それが例え安目であろうともツモれるという事自体が運の良い証拠である。流局ならば少なくともノーテン罰符が期待できる。余所で打ち合えば自分のリーチ棒は奪われる。他家にツモられるということは、他家の方が自分よりも運が良いということであり、振り込んでしまうということは最悪の事態だ。
 安目でもツモれている間はまず負けない。余程のボーンヘッドでもしない限りは。1.のパターンならチョンボしてでも勝てるだろう。問題は、ツイていない時に負けないことである。
 ツイていない時は前述の通り、ツモが思うように進まない。理想形にはまず達し得ないと考えてよい。このような場合、安易に上がりに走るのも考え物だ。あくまで理想を目指すのが得策であり、ツイていない時に1000点を上がってもすぐに満貫などをツモられて、そんな時に限って自分が親番だったりする。例え、上図のような理想形に達したとしてもあるレベル同士の卓なら出上がりは期待薄と言ってもよい。
 よく、他家からリーチがかかって「これは危険牌」と言ってそれを抱えたままノーテンで死んでしまうことがある。流局して手を開けてみて「ああ、やっぱりな」。これは正確に待ち牌が読めているという点では褒められるべきだろう。しかし、今回の例に関しては逆になる。すなわち、他家に待ち牌を正確に読まれて流局、「ああ、やっぱりな」。何故このようなことが起こりうるか?それは「定石」という一般的な規則に基づいて打っているからである。最近では「デジタル麻雀」と称して期待値重視の打ち方が幅を利かせている。勿論、ワシもそうである。余程ツイていない限り、この打ち方が最も理にかなっている。しかし、ツイていない時には逆に手役、待ち牌を読まれるということにもなる。フリーでは稀にド素人が同卓すると荒れることがある。何故か?初心者は「定石」をまだ覚えていないからである。「定石」通りに手役や待ちが読めないために無駄にオリてみたり、あるいはあり得ないと思われる待ちに振り込んだりする。これに運が味方するとリーチ赤赤裏3なんてことになったりするから手に負えない。
 まとめてみると、一般的には「定石」という規則に基づいて麻雀が進められていく。その「定石」とはすなわち期待値的な考えであり、理想形へ向かう打ち回しである。ツモれれば大いなる威力を発揮するが、ツモれない時には逆に足枷となる。では、ツイていない時はどうすべきか?ツモ上がりが期待できないからには出上がりをさせるしかない。出上がりをさせるためには「定石」を崩すことだ。例えば、下図のような形でテンパイする。
  ツモ
 通常ならノータイムで切りだが、これは「定石」。前述のように追っかけリーチに一発ドスンなんてのもアリだ。ツイていないときは「定石」を崩す切りなどはどうであろうか?たとえ上がれなくてもいい。流局した時に他家が「???」と思えば上がったも同然である。つまり、次回以降リーチをかけた時に「定石」通りの読みが通用しないことを悟るからである。そこには共通の規則がない。どんな形でもいい。ツモ上がり出せれば徐々に上向いてきたと考えて、そこで「定石」に戻せばよい。卓上のコミュニケーションは捨て牌と打ち手の表情、仕草で行われる。そこに共通の規則があればお互い振り合うことは稀で、ツモれる人間が点棒を積み重ねていくのである。しかし、一人でも規則を逸した者が存在するとこのコミュニケーションは成立しなくなる。打ち手同士が疑心暗鬼に駆られリズムを崩していくのである。今は亡き安藤満の亜空間殺法なども「定石」にとらわれない打ち方だからこそそこに共通の規則性が成り立たず他家の自滅を待ちつつ、初手でポン、気づいてみたらドラのが暗刻になっているということも稀に起こり得るのだ。それが印象に残るがためにますます手牌構成を読みづらくさせるのだろう。

2004年10月24日(日)
29万円のハナ差
[無念…]
    三連単 18-5-1 128,570円
    三連複 1-5-18 22,360円
 初手から溜息である。直線に入って後50m、ここまでは完璧に来ていた。だがしかし、世の中そうは美味く行かないもの。差されたと思いつつもターフビジョンを見ると同着か?とも思ってしまった。写真判定の時間がかかる。落ち着いてパドックも見ていられない。もし当たっていれば、何と29万弱だったそうだ。まあ仕方がない。コスモバルクと心中すると決めていただけに何とも言えない。ただ惜しむらくはスタートの出遅れ。あれがなければまずあの29万円のハナは裏返っていた。嗚呼・・・
 だが、ここで終わってはいけない。次へ向けての反省を行わねばならない。勿論、反省するだけでは無駄だが。レース前の分析はほぼ完璧だった。単純に過去の菊花賞の結果のPCIから予想していたら最初の予想のようにハーツクライやハイアーゲームに傾く。だが、それは結果から導き出していることによる間違いである。今回はそこに気づいた。菊花賞という全馬未経験の距離を走る特殊なレースだから出来たことでもあるが、結果を分析するのではなく、戦前の状態がどうであったかというところから分析しなければならない。そして、その結論を元に今回のレースへの適用という総合を行わなければならない。これは非常に大きな収穫であった。そういう点では過去のPCI平均値というのは結果の分析とも言えるが、これらについて全てのコースの戦前の状態を分析するのはほぼ不可能でもあり、また平均PCIは好走したものだけを抽出しているのでこれは妥協するしかない。ただ、予想PCIについてはまだまだ考える余地がある。

3,000円の使い道
 最終レースのことである。まず、勝てると見ていたマルカキセキは順当にパドックを見ても悪くない。4,5頭いた3着以内候補の中からもう1頭軸を探して三連単、というのが頭からの予想。しかし、最後まで決められずにいた。つまり、ペース適性で勝るマイケルバローズも悪くないが、PCIがやや低いケージーアジュデが休養明けで+14キロ。しかし、馬体は絞まって見え気配も素晴らしい。メンバー中1番目立っていた。どちらを取るか?結局は気配は悪くないという理由から半ば惰性でマイケルバローズを軸に選択、ケージーアジュデはヒモとした。まあしかし、結果はどちらを軸に取っても3着が外れていたので意味はない。
 ここで言いたいことは、馬券の種類の選択である。29万のハナ差事件ですっかり脱力していたため頭から三連単以外の馬券が見えていなかった。2頭軸マルチ5頭ヒモなので30点。3,000円の投資である。この3,000円の使い道にも色々ある。
1.当初の予定通り三連単を買う。
 →しかし、2頭目の軸が決められない以上は諦めるのが賢明。
2.まず確勝のマルカキセキの単勝が2.5倍ついている。これなら十分買えるオッズだ。
 →7,500円の払い戻し。
3.3頭まで2着候補が絞れていた。従ってマルカキセキを頭にした馬単を3点、1,000円ずつ買う。
 →12,800円の払い戻し。
実際にこの3通りを考えて、特に1.の方法が無理ならば2.3.のいずれかを選択すべきである。オッズを見ればまず3通りとも7.5倍は越えるから3.の馬単が正解だった。
 三連単は非常に面白い。1,2番人気を軸に買っても万馬券が出る。しかし、買い目が多くなる分、実はその分を全部単勝に突っ込んだ方がお得なこともある(例えば、菊花賞の1つ前の太秦S。ダート実績がないこととハンデ頭で嫌われたアタゴタイショウが快勝。これは初めから軸の1頭に考えていたので冷静に考えれば3,000円が3万円に化けている)。単勝、馬連、馬単、三連複、三連単と配当が高くなるにつれ的中させるのは難しくなる。しかし、馬単ぐらいまでなら或る程度点数が絞れれば効果的な馬券もないだろう。三連単のように10万を越える払い戻しは期待薄だが無理に三連単に拘る必要もないわけである。今回の後半4Rの買い目を振り返って見ると決して無謀な買い方はしていない。いやそれどころかかなり的中に近いところまで行っているし、菊花賞以外は馬券の選択を間違えなければ的中できていた。
 馬券予想において重要なのは、どの馬を買うか(What)ではなく、どのように買うか(How)である

2004年10月13日(水)
ワシ流麻雀哲学
 麻雀について考察してみた。
 思うに、卓上には「何か或る物」が存在し、それによって動いている。「或る物」というのも何かははっきりと分からないが、俗語で言うなら「神」とでも言うべきか。この「或る物」に導かれて対局が進展していく。つまり、この「或る物」という存在になれれば卓上を全く自由に操ることができるであろう。
 もっと具体的に示そう。生涯単位での理想は「常に勝ち続けること」であり、1半荘単位での理想は「常に上がり続けること」であり、1局単位での理想は「与えられた配牌での最短距離にして最大値の上がり」である。だが、これらを満たすことは経験上、不可能である。つまり、これらの理想、したがって卓上の「或る物」の実在は超経験的であり、不可能である。
 1局単位から当たってみよう。「与えられた配牌での最短距離にして最大値の上がり」とはある時には大三元、四暗刻、国士無双等の役満であり、ある時にはメンタンピン三色ドラドラであり、ある時には純チャン三色である。これらは一見、不可能ではない。いや、現実的ですらある。だが、「最短距離」というのが重要である。麻雀は通常、4人で打つ。この「最短距離」は4人中最短でなければならない。仮に自分に国士無双の手が入っているとしよう。この場合、中張牌が他の3人に回っている可能性は通常よりも高く、彼らの理想がメンタンピン三色であることもありうる。自分のツモで次々に手牌が揃ってくるということは他家には次々に中張牌が入っていっている可能性が高いということでもある。つまりこの互いの駆け引きが重要なのだ。勿論、国士無双では哭くことはできないが、仮にこれが大三元であったなら哭くことも考慮に入れなければなるまい。だが、そうすれば他家に警戒されることは間違いない。理想は面前で仕上げることである。しかし、「最短距離」が絶対的なものではなく相対的なものである限り、どこかで見切りをつける必要がある。これはメンタンピンでも同じである。理想は「最大値の上がり」であるが、半荘単位での理想である「常に上がり続ける」という命題を満たそうとすればこの「最大値の上がり」を時には捨てねばならない。このタイミングが肝となるであろう。(以下、不定的に続く)

最近のこばくち日記