開けようとした戸は、半分まで開いたまま動かなくなった。すき間から身をすべらせ、慎重に閉めたつもりだったが、戸は大きな音を立てた。室内の空気が緊張し、奥に座っていた女性が、少し顔を上げた。白いセーターがまぶしい。並べてある本は、どれも汚れ、歪んでいた。しかし、書名を読むうちに身体が熱くなった。今まで探していた本が並んでいた。一人の人が集めたものに違いない。有機的な宇宙が息づいている。どれもごく少部数しか印刷されず、今では散逸している本だ。
「この本はいくらですか。今持ち合わせがないので、予約できないでしょうか」。カタリと音がして、女性が立ち上がった。「その本はお売りできません」「えっ」「恐れ入りますが、すみません」「是非とも買いたいのです」。彼女は、じっとこちらを見つめた後、「どうぞ」と奥の椅子を示した。私はためらいつつも、その椅子に座った。ベニヤの床が少し沈んだ。
彼女は、古本屋開店までの経過を話した。友人が急死し蔵書が残ったこと。親が本を持て余し彼女が譲り受けたこと。「3日前なんです、開店したのは。あなたがほしいと言った本は、彼が特に大切にしていた本だったものですから」。彼女は視線を外に向けた。「でも、売るつもりだったのでしょう。なのに・・・」。私は彼女の手首の傷を見つけ、言葉を飲み込んだ。
「奥へ」。突然彼女は立ち上がり、薄暗い部屋の奥に歩き始めた。急に足元から冷気が伝わってきた。さっきまで柔らかかった床は、すでに凍結している。私も彼女を追って進んだ。彼女はどこまでも歩き続ける。何分経っただろう。私たちは流氷の上を歩いていた。流氷原はどこまでも広がっている。私は急に悪寒に襲われ、氷の上に座り込んだ。忘れていた疲れが全身からどっと湧き出してきた。歯ががちがちと鳴る。やがて悪寒が治まると、今度は睡魔が全身を包む。横になると氷は柔らかく暖かかった。
「あなたも同じだわ」。彼女の声が響いた。眼を開けると、流氷原に幻氷が次々と積み重なり、天上まで続いている。彼女は幻氷の上から悲しげに見つめていた。白いセーターが、氷紋のモザイクに変わっている。眼が合うと、彼女の顔は氷が張ったように無表情になった。そして、静かに身をひるがえすと階段を一段ずつ上り始めた。幻氷はかすかに揺れながら彼女の歩調に合わせて七色に変化した。
閃光が一瞬私を包んだ。そして、痛んだ眼を開けた時には、青白い流氷だけが、牛のように軋んでいた。
我に返ると、丸い氷柱に腰掛けていた。遠い記憶を幾度も反すうしていたようだが、思い出せない。かすかに悪寒が残っている。いつの間にか、夜になっていた。雪は膝近くまで積もっている。雪明りの中に動物の死骸が浮かび上がる。鹿と熊だ。雪に半分埋った死骸は、腐敗した様子もなく、夜光貝のように安らかに光っている。
雪はいつまで降り続けるのだろう。肌に触れても溶けない雪片に気付き、ハッとした。白い胞子だ。菌類の胞子。シリエトク岳の雪はいつの間にか胞子に変わっている。私は無意識に山頂に向かっていた。胞子は次第に深くなった。踏みしめた足跡は、波に洗われたように消えていく。名付けようのない不安とともに、足のしびれが増してきた。山頂は近い。前に進むことだけを考えた。一歩、また一歩。ほとんど足の感覚はない。幻肢痛のような虚ろな痛みがある。
「こちらよ」。山頂から声がする。必死に前に進んだ。「早く、ここへ」。私は声に励まされて、やっと山頂に着いた。山頂の氷鏡にはまばゆい星々が写っている。星を見上げる私の横に女性が立った。
何処かで会ったことがあるのだろう。氷紋のセーターを観ていると、懐かしい気持ちになった。「還っていく」。彼女は空を指差してつぶやいた。「貴方の友人が還ってしまう」「僕の友人?」。私は彼女の指の先に眼を移した。
ハリーだ。何時来ていたのだろう。「ハリー!」。私は大声で叫んだ。彼女も「ハレー」と呼びかけた。私は六角形の鏡を取り出し、天に向けた。鏡の底から十二匹の蛍が飛び立ち、うれしそうに昇っていく。安住の場所を見つけたのだろう。
ハリーは昔と変わらなかった。漆黒の身を、青いマントで包み込んでいる。しかし、良く観ると少しやせて、苦しそうだ。苦しそうに還っていく。私は泣いた。涙は深い泉から止めどもなく湧き上がってくる。彼女も泣いているようだ。
二人の涙が枯れた時、空が白み始めた。山々が虚ろに光り出す。金星が、疲れた顔をこちらに向けた。
深い霧の奥に、釈迦が横たわっている。どこからともなく、鹿や熊や狐が集まってくる。私も釈迦のそばに近づいた。動物たちは、悲しい眼でじっとしている。やがて釈迦は、微笑みながら静かに息をひきとった。入滅したのだ。集まった動物たちは、遺体の内臓と肉を食べ始めた。どの動物も、おだやかな表情をしている。釈迦を食べる音だけが聞こえ、血の匂いはしない。
霧は釈迦の周りを渦巻くように、ゆっくりと流れていく。私も近づいて肉を食べた。驚くほど柔らかい。肉の味がまったりと舌に残る。動物たちになめられた釈迦は、きれいな骨になった。霧が深くなってきた。醗酵乳の匂いが立ちこめる。釈迦の骨は、ふいに粒子になって浮遊し始める。私は、すべての骨が霧に溶けるまで、じっと待ち続けた。恐ろしく長い年月が過ぎた。
やがて霧の渦が私を厚く包み込もうとする。私は後ずさった。足元の砂が、キュキュと鳴った。自分の内臓が鳴っているようだ。キュッ、キュッ、キュッ。キュッ、キュッ、キュッ。
「子宮が鳴っている」。いつのまにか私の後ろに、桜の細長を着た少女がうずくまっていた。「間にあったわ」。彼女の周囲の砂は、骨を砕いたように白い。ただ足元の砂だけが着物に染まったのか桜色に見える。少女は、砂を握り締めようとしていた。そのたびに、砂は キュキュと鳴った。
彼女は、幾度も同じ動作を繰り返している。私は彼女の細い手に触れた。その瞬間、私の身は数億の粒子になって舞い上がった。醗酵乳の匂いがした。
あまりの匂いに負けて、私は口を押さえながら桜の上に座り込んだ。花びらに触れた手が、見る間に桜色に変わっていく。足腰もすっかり花びらに染め上げられた。桜の海に胸まで沈んでいるようだ。下半身は、水に浮いているように心地よい。桜色がゆっくりと首を上がってくる。刷毛ではかれるようにくすぐったい。ピンクの波は、一気に髪まで染めた。私は魂までも染め上げられてうっとりした。
桜の園には、たくさんの人が横たわっている。どの人も桜に溶け込み見分けがつき にくい。一番近くにいる人が、かすかにうめいた。中年の男性らしい。広い額に濃い口髭、丸く小さな眼鏡をかけている。親指を内側にした大きな手で、口を覆っている。親指をしゃぶっているのかもしれない。眼鏡の奥の眼は暗く沈んでいるが、耳は何かを待っているように緊張していた。言葉をかけようとしたが、声がでない。芝桜が内臓に染み通り、すべての感覚をマヒさせているのだろう。
神経や血管は皮膚を破り、芝桜の根と親しげに絡み合う。地下の多彩な金属を含んだ芝桜の体液が、身体をかけめぐる。金属はなめらかな声でそれぞれの歴史を話す。桜の根が、私の心臓に達した。根は優しくなでながら、毛細管を張り巡らせる。
鉱物も植物も動物も、融け合って、ぺっとりとした健やかな物質になるのだ。うれしさに桜色の心が震える。徐々に意識が薄れていく。身体の中で別の鼓動が始まる。砂をつぶすようなざらついた音がする。
ハッカの甘い香りがする。館内は、少しずつ暗くなっていく。もう、水槽も魚も見えない。空気がやけに粘りつく。息をすると苦しい。空気が水のようにまとわりついてくる。その流れは官能的だ。
急に真っ暗闇になった。わずかな明りもない。声が地を這うように響いてきた。「驚かれましたか。ここでは、光ることが最も恥ずかしいことなのです。御不自由でしょうが、声の方に進んでください」。始めは老人のようなしゃがれ声だったが、最後は少女のように可憐に聞こえた。「こちらです」。声を頼りに歩いた。息苦しい。
「着きました」「何も見えない」「あなたの世界の表現では、海底1万5千メートル。皆、豊かな暮らしをしています」。何かが私の周りに集まってくる気配がする。「食べ物はどうしているのですか」「私たちが分かち合って食べるのは、闇です」「やみ?、暗闇の闇のことですか」「そうです。闇は肉よりも香ばしいものです。ここよりも上の世界では、まだ食物連鎖が続いていますが、じきに闇を分かち合うようになります」「よく分からない」
「あなた方、どうもうな光の世界の生き物には、すぐには理解できないかもしれませんね。少しここにとどまってみませんか」「いえ、私は光の世界で、耐えていくつもりです」「幾重にも肉に縛られた世界にですか」「そうです。しかし、帰らなければなりません」「残念です。あなたなら、もう少しここに居ればきっと」。
気がつくと、水族館の出口に立っていた。夏の日差しは相変わらず強い。濡れた肩に、羽虫が留まった。
大地が揺れる。激しい雷鳴と閃光が、波のように続く。閃光は洞窟の奥まで私の影を焼き付ける。眼が痛い。私は奥に入った。思ったよりも狭い。岩肌はつるつると滑らかだ。夜光貝のように光る岩肌に顔を押し当てる。波立った気持ちが岩に染み込んでいく。
頬の下の岩がかすかに光った。黄緑色の淡い光。岩の中で何かが動いた。蛍だ。次第に動きが活発になる。蛍の模様は人の顔に見える。どの表情も苦悶している。私はズボンのポケットから六角形の鏡を取りだし、ほこりを払った。岩肌に近づけると、蛍は飛び立ち次々に鏡の中に消えた。
最後の蛍が鏡に入った時、ひときわ強い閃光が起こった。雷ではない。私は入り口を振り返った。すぐに熱風が吹き込んできた。私は岩に叩きつけられ、肉がはがれ脂肪が沸いた。眼球液は蒸発したが、私の眼は遠くの街並みを見つめた。街は焼けただれている。おびただしい骨と肉と皮が、風に揺れている。
私は座骨だけが残った。頭蓋のように丸くなっている。中空の座骨は、軋みながら吠え続ける。湿った風が、吹き始めた。新たな雷神が、そこまで近づいている。
いつのまにか、眠っていた。巨大な森の中の一輪の花が、悲しく笑っている夢ばかりを見る。いつになく身体がだるい。耳がぬるぬるする。服を脱いでみると、全身にさまざまな色の菌子が芽をふいていた。皮膚はかつての弾力を失い、押すと指はどこまでも入った。
外を見て驚いた。一夜で湿地帯が赤く染まっていた。まるで珊瑚草のようだ。私はノトロ湖畔の珊瑚草を思った。秋口の珊瑚草は、少し疲れた煽情的な赤さだった。ここの色もくすんでいる。褐色に近い。どうやら植物ではないらしい。
歯車。おびただしい数の錆びた歯車が、湿地帯を覆っている。錆が溶けて、一面の血の池地獄だ。歯車の下には産死した女性たちが沈んでいる。彼女たちの腐肉を栄養に、歯車が増殖している。歯車は肉に入り込み、肉の中で交接し繁茂する。見つめすぎたので赤錆色が眼の奥に住みついた。
また、眠っていた。陽の光りに照らされて目覚めた。あたりが赤く見える。何を見ても赤い。山も空も赤を隠し持っている。身体がだるい。痛む肩を見ると、肉が破れ小さな歯車がひとつ芽を出していた。すでに錆びかけている。私の全身に歯車が生えるのだろうか。錆びた歯車と菌子に包まれて新しい珊瑚草の苗床になる。私はだるい身体を、とりあえずその夢にゆだねた。
今晩は満月。時折、木目模様の悲しげな雲がかかる。 外に出た。秋風が肌を刺す。ポケットに手を入れたまま、前かがみで歩いた。 街は人で溢れていた。近付くとどの人も私に似てくる。 電話の音が激しくなった。私はすぐに白いセーターの彼女を見つけた。じっと立って、こちらを見つめている。身体が震えた。私は駆け寄り、頭を下げた。 「草原にいきましょう。月が観たいわ」。彼女は、そう言って微笑んだ。
草原では、年老いた芝生が群舞している。早すぎた落ち葉が歌っている。 彼女は草の上に座り、空を見上げた。「月が欠けていく」。確かに月は中心から欠け始めた。恥ずかしげな月面に懐かしい虹がかかる。 彼女は白い林檎を膝に乗せていた。そして、ためらいがちに差し出した。林檎は月明りに赤く輝き、彼女の手の中にするりと吸い込まれた。
切なくなった私は、彼女を抱きしめた。彼女の胸から電話の音が聞こえてくる。私は胸に耳を当てた。いつも私を呼んでいた音だ。私は、彼女の胸肉に手を入れて、受話器の形をした心臓を握り出した。桜色をしている。彼女は激しく震えた。
闇が深くなった。月は見えない。私は受話器を耳に当てたまま、癒しようもない傷口に深く身を沈めた。肌は夜光貝のように光っている。波が近づき、受話器が痙攣した。私の体液が、つかのま燃えた。
最後の花を入れようとした時、彼女は水を吐き始めた。棺はコバルト色の水に満たされていく。磯の香りが広がった。水は棺いっぱいになり、彼女は沈み始めた。私はあわてて手を差し入れたが、彼女は深く沈み、手が届かない。私は棺の底に潜り、彼女を探した。
やっと抱き上げた時には、さまざまな貝で覆われていた。頭には大きなシャコ貝が張り付いている。貝を一つひとつ剥がすと、洗ったような白い骨が現われた。彼女は、とても凛々しく見えた。口元が笑っている。儀式は終わったのだ。
遺体は火葬場に運ばれ、荼毘にふされた。工場のような火葬場で、人々は劇場のように振る舞っている。私はじっと待ち続けた。火葬は異様なほど時間がかかった。焼却炉から出てきた骨は、ほとんどが灰になっていた。頭蓋も座骨もない。背骨だけが奇麗に並んで残っていた。私は骨片をつまみ、飲み込んだ。まだ温かかった。
外は雪が降っていた。火葬場の煙突から、幾人もの記憶が細い煙とともに昇っていく。私達の墓は遠い空だ。果てしない、遥かな空。
雪が激しさを増してきた。煙はもう見えない。私は、発熱した身体を小さく丸めて家路を急いだ。宇宙のように虚ろな胃の中では、桜色に染まった骨片が、胃液の海をゆるゆると泳ぎ続けている。
背骨に官能が走った。座骨に眠る2匹の蛇が水銀の身をくねらせて這い上がってくる。ふいに骨が柔らかくなる。きしみながら後ろに曲がり始めた。窓を見ていた眼は、天井のしみを見つめている。後ろのテレビに映る「ストリート・オブ・クロコダイル」の人形たちの開かれた頭蓋が見える。
視界はほとんど逆さまになった。床が見える。髪の毛が落ちている。しもやけで赤いかかとが見えてきた。大腿部が近付く。貧相な尻が迫る。頭が肛門にめり込み始める。激しい痛みが襲った。
気がつくと、眼の前は暗かった。痛みは消えていた。顔に風が当たる。星が瞬いている。青白く燃えるシリウス。窓から見た冬の夜空だ。下の方は海らしい。蓮の葉状の流氷が、いくつも浮かんでいる。
小さな氷の上に、私がいる。身体が裏返り、生まれたばかりの内臓をさらしている。どの臓器も高笑いするように震えている。遠くで汽笛が鳴った。